41 教務課での面談
合格の通知から、ひと月ほどが過ぎていた。
その間、暮らしが劇的に変わったわけではない。フィリアの家からの通学が決まってからは、寮生活の準備をする必要もなく、いつも通りの日々が続いた。重石を担いだ走り込みも、座学も、鍛錬場での模擬戦も、二年間積み重ねてきたものが、そのまま続いているだけだった。
「あんた、合格したからって、急に何かが変わると思ってた?」
ある朝、片付けの手を止めずにフィリアが言った。
「正直、少しは」
「学期が始まるまでは、あんたはまだうちの居候よ。気を抜くには早いわ」
その通りだった。制服の採寸を済ませ、教科書の一覧表に目を通し、ノエルへの手紙にも近況を書いた。それでも、王立学園の生徒になるという実感は、まだどこか遠いところにあった。
唯一、はっきりと期限の決まっていたことがある。合格通知に添えられていた、あの一文だった。
『召喚獣を伴う入学については、学期開始後に改めて所定の届け出と面談を行うものとする』
その通知が届いたのは、始業式のちょうど三日前のことだった。
・・・・・
「教務課、というのは初めて来ました」
「私も、鑑定局とは別の建物に用があるのは久しぶりね」
学園の敷地内、鑑定局よりさらに奥まった場所にある建物へ、俺はフィリアと連れ立って向かっていた。装飾の少ない、実務的な佇まいは鑑定局とよく似ている。ただ、扉の前に立つと、あの入試の日とはまた違う種類の緊張が込み上げてきた。
「入りなさい」
聞き覚えのある声に迎えられ、扉を開けると、クラリスが机の向こうで待っていた。今日は、あの刺々しい第一印象の頃よりも、幾分か表情が柔らかい。
「二人とも、掛けて。今日は、正式な記録に残る面談だから」
「よろしくお願いします」
「よろしくされる義理も、前よりは多少できたかもしれないわね」
意外なほど素直な言葉に、俺は密かに安堵した。少なくとも、敵意のある空気ではなさそうだった。
・・・・・
「まず、召喚獣の登録から。名前は」
「ヒスイです」
「契約の形式は」
「……正式な契約は、していません。二年前から、勝手に懐いてくれているだけで」
クラリスは、手元の書類に何かを書き付けながら、片眉を上げた。
「模擬の時に聞いた話と、変わっていないようね。……正式な記録として、改めて確認するわ。代償も義務もないまま、無契約で居着いている、と」
「そうです。僕自身、理由はまだ分かっていません」
模擬面談の時と同じ問答だった。それでも、今日はもう慣れたもので、言葉に詰まることはなかった。外套の合わせから、ヒスイが興味なさそうに顔を覗かせる。クラリスはそれを一瞥すると、小さく息を吐いた。
「学園内での扱いを説明するわ。無契約の召喚獣は、本来なら敷地内への同伴自体が認められない。ただし、あなたのケースは既に例外だらけだから、今更一つ増えたところで驚きはしないけど」
「じゃあ」
「特例で、常時同伴を許可する。ただし条件付き。授業中に他の生徒に危害を加えない、実技の評価対象には含めない、そして――何かあった場合の責任は、保護者であるフィリアと、あなた自身が負うこと」
「分かったわ」
「返事だけは早いのね、相変わらず」
呆れたような口調だったが、書類にペンを走らせる手つきに、迷いはなかった。
・・・・・
「次。……本題は、こっちの方が長くなるわ」
クラリスは、別の書類の束を机に広げた。
「専攻コースの割り当てについて」
その一言に、俺は思わず姿勢を正した。ずっと気になっていながら、聞くのを後回しにしていた話だった。
「通常、入学した生徒は、実技・専門授業の時間になると、系統ごとの専攻コースに分かれる。攻撃科、召喚科、強化科――そういう区分けね」
「レイドやミラは、それぞれの系統で決まるんですよね」
「そう。彼らは水晶の結果通りよ。……問題は、あなたよ」
クラリスは、俺の鑑定結果の欄――何も書かれていない、白紙のままの一枠を、指先で軽く叩いた。
「専攻は、系統適性が前提の制度なの。適性そのものが測れないあなたを、どの科に割り振るべきか、正直、こちらも判断しかねている」
「じゃあ、僕は」
「どこにも属さない。……というのが、今の時点での結論よ」
薄々予感していた答えではあった。それでも、実際に言葉にされると、胸の奥がすっと冷たくなるのを感じた。フィリアが横から、静かに口を挟んだ。
「代わりの案は」
「観察付きの個別対応。学園側で正式なカリキュラムを組めない以上、当面は、フィリア――あなたの監督のもとで、内容を個別に決めてもらう形にする。実技の時間は、その都度、こちらで空きのある科に一時的に混ぜてもらう。強化科でも、召喚科でも、必要に応じて」
「専攻が、ない、ということですか」
「正確には、『まだ決まっていない』。……前例のない生徒だから、前例のない対応をする。それだけのことよ」
クラリスの声には、突き放すようでいて、どこか誠実な響きがあった。
・・・・・
「不服そうな顔ね」
「いえ。……ただ、少し」
言葉を探して、結局、正直に続けることにした。
「レイドもミラも、これで自分の居場所がはっきりするんだと思います。僕だけ、まだそれがない、というのが」
「寂しい、と」
「多分」
素直に認めると、クラリスは意外にも咎めなかった。
「その感覚、間違ってないと思うわ。……ただ、決まった居場所がないことと、居場所そのものがないことは、別の話よ」
「別、というと」
「専攻がなくても、学園の生徒であることに変わりはない。ホームルームは、他の生徒と同じよ。実技の時間だけが、他の子と違う形になる。……それだけのこと」
その言い方に、俺は少しだけ肩の力が抜けた。何もかもが違うわけではない。違うのは、まだ一部分だけだった。
「先生」
「なに」
「専攻が決まってないの、正直、悪いことばかりじゃないかもしれません」
「へえ。どういう理屈?」
「まだ、何にでもなれる、ってことだと思うので」
我ながら、強がりに近い言い分だった。それでも、口にしてみると、案外しっくりきた。フィリアは一瞬、虚を突かれたような顔をしてから、小さく笑った。
「あんた、そういう言い方、いつの間にできるようになったのよ」
「先生の教育の賜物です」
「白々しい」
そんなやり取りを、クラリスは書類をまとめながら、面白そうに眺めていた。
・・・・・
「登録は以上よ。始業式は、明後日。……何か、聞いておきたいことは」
「一つだけ」
「なに」
「専攻が決まってない生徒、って、僕以外にもいるんですか」
クラリスは、少し考えるような間を置いてから答えた。
「記録が残る限りでは、いない。……あなたが最初」
その答えに、俺は何と返せばいいか分からなかった。最初、という響きは、思っていたよりずっと重かった。
「不安になった?」
「少しだけ」
「それでいいのよ。……不安にならない方が、むしろ信用できない」
模擬面談の時と同じ台詞だった。それが、今日はなぜか、いつもより力強く聞こえた。
外套の中で、ヒスイが小さく身じろぎした。頭の奥に、感覚とも呼べない、ごく短い気配が触れる。言葉になるほどはっきりしたものではなかったが、それでも、いつもの静けさとは少しだけ違う気がした。
・・・・・
学園を出たところで、フィリアが軽く手を振った。
「私は先に帰るわ。……あんた、このまま鍛錬場に寄っていきなさい。レイドたちにも、話しておくことがあるでしょう」
「先生は、いいんですか」
「いいも悪いも、あんたが一人で抱え込む顔をしてるからよ。……たまには、私以外にも聞いてもらいなさい」
見透かされたようで、俺は何も言い返せなかった。
・・・・・
鍛錬場に着くと、ちょうどレイドとミラが素振りを終えたところだった。
「おう、教務課帰りか」
「うん。……ちょっと、聞いてほしいことがある」
二人に今日聞いた話を、かいつまんで伝えた。専攻がまだ決まっていないこと、実技はその都度、空いている科に混ぜてもらう形になること。話し終えると、レイドが腕を組んで唸った。
「専攻なし、って、それはそれで大変そうだな」
「正直まだ判断がつかない」
「じゃあ、来週は強化科、再来週は召喚科、とか、そういうことになるのか?」
「多分。……クラリスさんも、まだ細かいことは決めてないみたいだったけど」
ミラは、腕を組んだまま、しばらく黙って考え込んでいた。
「なんか、それ」
「なに」
「羨ましいような、そうでもないような、変な感じ」
以前、実技審査で当たったユーゴが、似たようなことを言っていたのを思い出した。
「前も、似たようなこと言ってなかったっけ。水系統一本だから逃げ場がない、って」
「言った。……今も、その気持ちは変わってないけど」
ミラは、少し困ったような顔で続けた。
「でも、逃げ場がないってことは、迷わなくていい、ってことでもあるんだよね。あんたは、多分、逆」
「逆?」
「選べる分、迷うことも増えるんじゃない、って話。……いいことなのか悪いことなのか、それは分かんないけど」
痛いところを突かれた気がした。専攻がないという事実を、まだ好意的にしか捉えていなかった自分に、今更ながら気づかされた。
「気が早いこと言うなよ、まだ始まってもいないのに」
レイドが横から口を挟むと、ミラは肩をすくめた。
「そうだね。始まってから悩めばいいか」
「レイドは、僕のこと、可哀想だと思わないのか」
俺が聞くと、レイドは意外そうな顔をした。
「可哀想って、何がだよ」
「僕だけ、まだどこにも属してない。お前らは、もう自分の居場所が決まってる」
「そんなの、比べるようなことか?」
拍子抜けするくらい、あっさりとした返しだった。
「攻撃科だろうが専攻なしだろうが、お前が模擬戦で手加減しない相手だってことに変わりねえだろ。俺が気にしてんのは、そこだけだ」
不器用な言い方だったが、それが今の俺には、思っていたよりずっと効いた。
「変なとこで、律儀だよな、レイドは」
「うるせえ」
軽い調子に戻った二人を見ながら、俺は密かに、話してよかったと思った。一人で抱えていたら、もっと重く感じていたかもしれない不安が、今は少しだけ軽くなっている。
・・・・・
家までの道を、一人で歩いた。専攻がない。ホームルームは他の生徒と同じ。実技だけが違う形になる。並べてみると、心もとない言葉ばかりだった。それでも、レイドとミラに話したことで、その心もとなさは、来た時より幾分か軽くなっていた。
家に着くと、フィリアが玄関先で待っていた。
「話せた?」
「はい。……先生の言う通り、聞いてもらってよかったです」
「でしょうね」
得意げな顔をするでもなく、フィリアはそれだけ言うと、いつも通り台所へと向かった。その後ろ姿を見ながら、俺はもう一度、腹の底に手を当ててみた。専攻という枠の空白は、あの水晶の空白と、どこか似ている気がした。何もない、というより、まだ誰にも測られていないだけの余白。そう思うことにした。
明後日、始業式。王都に来てからの日々が、次の形に変わろうとしていた。




