37 視えないまま、前へ
あれから、ひと月近くが過ぎた。
クラリスの模擬面談の後も、鍛錬場での「見せる練習」は何度か重ねた。ヒスイが言葉を返してくれる日もあれば、いつも通り無反応な日もあり、結局、確実な手応えはついに掴めないままだった。
そうして迎えた入試当日、王立学園の正門は、想像していたよりずっと大きかった。
「ここから先は、受験生だけよ」
正門の手前で、フィリアが足を止めた。
「先生は、入れないんですか」
「保護者は待機所まで。受験生に付き添って中まで入れる特例なんて、さすがにないもの」
分かってはいたことだったが、改めて言われると、思いのほか心細さが込み上げた。
「隠す欄も、面談の練習も、ここまでは付き合えたけど。……この先は、あんた一人で行くしかないわ」
「先生がいなくても、大丈夫でしょうか」
「大丈夫かどうかは、あんたが決めることじゃないの。行けるかどうかだけ、今は考えなさい」
突き放すような言い方だったが、フィリアの目は、いつになく真剣だった。
「先生には、色々教わりました。今更ですけど」
「今更でいいのよ、そういうのは。……終わってから、まとめて言えばいいんだから」
「終わってから、ですか」
「ええ。今はまだ、途中でしょう」
短いやり取りだったが、それだけで、肩の力が少し抜けた気がした。フィリアは軽く手を振ると、待機所の方へと歩いていった。振り返ることはなかったが、その背中に、見送られているという実感だけは確かにあった。
「でかいな、相変わらず」
隣で見上げるレイドの声が、いつもより硬い。
「何回来ても慣れないもんだね、これ」
ミラも、いつもの軽口の中にわずかな緊張を滲ませていた。三人で顔を合わせるのは、鍛錬場以外ではこれが初めてだった。
「二人とも、今更緊張するようなタイプでもないだろ」
「アレンこそ、顔強張ってるよ」
指摘されて、俺は思わず頬に手をやった。外套の合わせの下で、ヒスイの重みがいつも通りそこにある。今日だけは、その重みが、いつもよりずっと大きな意味を持っているように感じられた。
・・・・・
受験生の列は、大広間に長く伸びていた。天井まで届く大きな窓から差し込む光が、床に幾何学的な模様を描いている。先頭では、水晶を使った適性鑑定が、一人ずつ淡々と進んでいる。順番が来るたびに、光の色が変わり、小さな歓声や落胆の声が漏れた。
「攻撃系統、中の上ですって」「治療系統か、悪くないな」
そんな声を聞きながら、俺たちは列の中ほどでじっと待っていた。近くにいた見知らぬ受験生が、係の魔法使いに小声で尋ねている。
「あの、鑑定で何も出なかった場合って、どうなるんですか」
「その場合は、残念ですが不合格の対象になりますね。滅多にないケースですが」
短いやり取りが、耳に飛び込んでくる。分かっていたはずの現実を、改めて突きつけられたようだった。腹の底が、すっと冷たくなる。
「なあ、緊張してきた」
レイドが小声で漏らす。
「今更?」
「今更だよ、悪いか」
「悪くない。……僕も同じだから」
素直に返すと、レイドは意外そうな顔をした後、小さく笑った。
「お前でもそうなるんだな」
「お前でもって何だよ」
軽口を叩き合ってはいたが、列が進むごとに、喉の奥が乾いていくのが分かった。ミラは何も言わず、ただ自分の掌をじっと見つめていた。
・・・・・
順番が近づくにつれ、大広間の空気が、少しずつ変わっていくのを感じた。
「次、レイド様」
呼ばれて進み出たレイドが、水晶に手をかざす。しばらくして、赤みを帯びた光が灯った。
「攻撃系統、上位。属性は炎――素質は十分ですね」
係の魔法使いが淡々と告げると、レイドは詰めていた息を吐き出した。
「よし」
短い一言に、二年分の積み重ねが滲んでいた。
続いてミラの番。水晶に手を触れると、今度は青い光が柔らかく広がった。
「操作系統、上位。属性は水――安定した制御ができていますね」
「やった……」
ミラの声が、掠れながらも弾んでいた。二年前、初めて会った頃は、まだ基礎の詠唱すらおぼつかなかった。あの頃の彼女を知っているだけに、この結果の重みが、他人事とは思えなかった。
「二人とも、おめでとう」
「お前の番、これからだろ。気が早いって」
レイドに笑われながらも、俺は素直にそう思っていた。二人の努力を、この二年間ずっと近くで見てきたのだ。喜ばない理由がなかった。
「次、お前だな」
レイドの言葉に、俺は小さく頷いた。
・・・・・
「次、アレン様」
名前を呼ばれ、俺は水晶の前に進み出た。手をかざす。
何も、起きなかった。
水晶は、いつも通り何の反応も示さないまま、静かに曇っている。周囲の視線が、じわりと集まってくるのが分かった。先ほどまでの喧騒が、潮が引くように静まっていく。
「……今の子、何も出なかったよな」
「見間違いじゃないの、あれ」
小さなざわめきが、後ろの列から伝わってくる。悪意はないのだろう。それでも、好奇と憐れみの入り混じった視線が、いくつも背中に突き刺さった。手のひらに、じわりと汗が滲む。フィリアがいない今、この空気を一人で受け止めるしかなかった。
視えない、と言われ続けてきた二年間を思い出す。フィリアの家で、鍛錬場で、何度もこの空白と向き合ってきたはずだった。それでも、大勢の視線の中で改めて突きつけられると、慣れていたはずの感覚が、また新しく胸を刺した。逃げ出したい、という気持ちが一瞬よぎる。それでも、足は動かなかった。
「……もう一度、お願いできますか」
係の魔法使いの声に、戸惑いが混じっていた。もう一度手をかざしても、結果は同じだった。
「これは……」
「私が説明します」
割って入ったのは、クラリスだった。手にした紙束を、係の魔法使いに示す。
「事前に受理している参考記録です。この受験生の鑑定結果が測定不能になることは、既に把握済み。実技・面談は、他の受験生と同じものを受けてもらいます。特例は、鑑定の代わりにこの記録を判断材料に加えること、それだけです」
係の魔法使いは、紙束にざっと目を通すと、小さく頷いた。
「承知しました。……失礼ですが、こういったケースは初めてで」
「規則の何条にも反していないわ。前例がないだけで、禁止されているわけじゃない」
「しかし、他の受験生への説明は」
「必要なら、私が直接する。あなたは記録を残すだけでいいわ」
有無を言わさない口調に、係の魔法使いは、それ以上食い下がらなかった。周囲のざわめきは収まらないままだったが、少なくとも、この場で不合格を言い渡されることはなさそうだった。
「私も初めてよ。前例がないなら、作ればいいだけの話」
クラリスは素っ気なく言うと、俺の方には一瞥もくれずに、次の受験生の方へと向き直った。それでも、去り際の一言だけは、俺にしか聞こえない小さな声で付け加えられた。
「――今のところ、悪くないわよ」
その一言だけで、強張っていた体から、少しだけ力が抜けた。振り返る余裕もなく列を離れながら、俺は詰めていた息を、ようやく吐き出した。
・・・・・
列を離れると、レイドとミラが駆け寄ってきた。
「大丈夫だったのか、今の」
「多分。……クラリスさんが、何とかしてくれた」
「何とかって、簡単に言うけど」
ミラが心配そうにこちらを覗き込む。
「僕にも、詳しいことは分からない。ただ、事前に手を回してくれてたことは知ってた」
フィリアが二年かけて積み上げてきた観察記録が、こんな形で役に立つとは、正直まだ実感が湧かなかった。
「相変わらず、規格外だな、お前」
レイドが呆れたように、それでいてどこか誇らしげに言った。
「規格外って言われても、複雑なんだけど」
「複雑でいいだろ、別に。……俺たちは、普通に測れる方だけどさ」
その一言には、負い目でも優越でもない、ただの事実を言うような響きがあった。二年前なら、この差に俺はもっと動揺していたかもしれない。
「さっき、周りがざわついてたの、気になった?」
ミラが、遠慮がちに尋ねてきた。
「正直、気にならなかったって言ったら嘘になる」
「だよね。……でも、あんたが平気そうにしてたから、私まで変に心配するのはやめとくことにした」
その言い方は、慰めというより、対等な扱いのように聞こえた。妙な気の遣い方をされるより、よほど気が楽だった。
「先生がいたら、もっと大袈裟に心配してきそうだけどな」
レイドが茶化すように言う。
「案外、平然としてそうな気もするけど」
「それも分かる」
軽口の応酬に、俺は思わず笑ってしまった。フィリアがこの場にいたら、実際どんな顔をしただろうか。想像するだけで、少しだけ気持ちが軽くなった。
外套の中で、ヒスイがわずかに身じろぎした。頭の奥に、いつもの静けさとは違う、微かな気配が触れる。
『大丈夫』
短い一言に、俺は思わず笑ってしまった。
「お前が言うと、なんか説得力あるな」
答えは返ってこなかったが、それで十分だった。
・・・・・
「次は、実技だ」
案内係の声が響き、受験生たちが再びざわめき始めた。水晶で測れなかった分を、これから体で示さなければならない。
「僕の番は、これからが本番って感じかもな」
「上等じゃん。……存分に見せてやりなよ」
ミラの言葉に背中を押されるようにして、俺は控室へと続く扉に向かって歩き出した。
途中、廊下の窓際で一度足を止める。外套の合わせをそっと緩めると、ヒスイが顔を出した。
「実技の後は、面談もあるらしい。……お前にも、また出番があるかもしれない」
答えは返ってこない。いつも通り、感情の読めない目で、宙のどこかを見つめているだけだった。それでも、今日ここまで隣にいてくれただけで、十分な気がした。
水晶が何も映さなかったことは、事実として変わらない。それでも、その空白のまま、ここまで歩いてこられた。フィリアの二年分の記録が、クラリスの独断が、レイドとミラの何気ない一言が、それぞれ違う形で、支えになっていた。一人で立っているようでいて、実際にはそうではなかったのだと、今更ながら気づかされる。
答えの出ない部分は、まだ多い。それでも、今日という日を、何もしないまま終わらせるつもりはなかった。控室の扉に手をかけ、俺は一つ息を吸い込んでから、中へと足を踏み入れた。




