36 相棒
「隠す」の欄は、何日経っても白紙のままだった。
朝食の片付けをしながら、フィリアがふと思い出したように言った。
「そういえば、面談の練習、まだ一度もしてないんじゃない?」
「レイドやミラと軽く話したことはありますけど、ちゃんとした練習は、確かにまだです」
「じゃあ、そろそろやっておいた方がいいわね。あんたの答え方、口ではしっかりしてても、いざとなると詰まるでしょう」
図星を突かれて、俺は何も言い返せなかった。
そこへ、朝一番でクラリスが訪ねてきた。
「模擬の面談を、一件やらせてもらえないかしら」
前置きもそこそこに、彼女はそう切り出した。
「新しい面談形式、まだ運用実績がないの。本番の前に、一度形だけでも試しておきたくて」
唐突な話に、俺は状況を飲み込むまで少し時間がかかった。
「よりによって、うちの子で試すの」フィリアが眉を寄せた。
「一番、興味深い受験生だもの。……あなたの観察対象としても、悪くない機会でしょう」
二人の間に漂う、気安いような刺々しいような空気には、いまだに慣れなかった。旧知の間柄らしいとは聞いていたが、実際にやり取りを見るたび、仲がいいのか悪いのか、いまだに判断がつかなかった。
「本番と同じ形式でやるわ。手加減はしない」
クラリスはそう言うと、持参した紙束を机に広げた。想像していたよりずっと分厚い資料で、俺は思わず身構えた。
「そんなに、質問あるんですか」
「全部聞くわけじゃないわ。反応を見て、その場で選ぶの」
有無を言わさない口調に、断る余地はなさそうだった。
「分かりました。よろしくお願いします」
・・・・・
食卓を挟んで向かい合うと、クラリスの目つきが一段と鋭くなった。
「では、始めるわ。まず、その召喚獣について、簡潔に説明して」
「二年前から一緒にいます。……その、正式な契約の儀式は、経ていないんですが」
「契約なしで居着いている、と。珍しいわね。理由は」
「分かりません。懐いてくれた理由も、正直、僕にも分からないままです」
クラリスは表情を変えず、手元の紙に何か書き付けた。何を書いているのかは、こちらからは見えなかった。
「次。強さの程度は。実演できる?」
「実演、というほどのことは……無理に何かをさせようとしたことがないので、その場でできるかどうかは、正直分かりません」
「つまり、今この場では見せられない、と」
「はい。無理に頼んでも、多分応えてくれません」
「結構。むしろ好感が持てる答えね。無理やり従わせられる、と即答する受験生の方が、正直こちらとしては信用できないの」
意外な返しに、俺は少し拍子抜けした。
「次。この召喚獣が、あなたの指示に従わなかった場合、どうする?」
想定していなかった質問だった。
「……どうする、と言われても」
「審査の場で、実技の指示に従わせられなかったらどうするか、という質問よ。答えて」
言葉に詰まった。無理に働かせようとしたことがない、というのが正直なところで、「従わせる」という発想自体、これまで一度も持ったことがなかった。
「多分、そのまま待ちます。……急かしたところで、余計意固地になるだけな気がするので」
「待って、それで間に合わなかったら?」
「その時は、間に合わなかった、というだけの結果を受け入れます。この子が何を考えているのか、二年経った今でも、僕にはほとんど分からないままなので、それ以上はどうしようもないんです」
我ながら、心もとない答えだと思った。取り繕う言葉も見つからず、俯くしかなかった。
「次。もし審査中に、この召喚獣が突然どこかへ逃げ出したら」
「追いかけます。……それしかできないので」
「捕まえる自信は」
「正直、ありません。この子が本気で隠れたら、多分見つけられないと思います」
クラリスは眉一つ動かさず、また何かを書き付けた。俺には、それが良い反応なのか悪い反応なのか、まるで判断がつかなかった。
「次。この召喚獣の弱点は」
「弱点、ですか」
「攻撃を受けやすい部位でも、苦手なものでも構わない。把握しているか、という質問よ」
考えてみたが、思い当たるものが何もなかった。傷ついたところも、弱ったところも見たことがない。
「……分かりません。この二年、弱ってるところを、一度も見たことがないので」
「分からないことばかりね、あなた」
咎めるような、それでいて面白がっているような、両方の響きが混じった声だった。
「次。もし本番で、緊張のあまり何も答えられなくなったら」
「その時は、正直に、分かりませんと言います。……それしか、思いつかないので」
「模範解答が欲しいなら、他を当たることね。私はそういうのは教えない主義よ」
にべもない返しだったが、突き放されている感じはしなかった。むしろ、変に取り繕った答えを期待されるより、よほど気が楽だった。
・・・・・
沈黙が落ちた、その時だった。
外套の合わせから、ヒスイが自分から顔を出した。誰に促されたわけでもない。いつもは、俺が合わせを緩めるまで、じっと大人しくしているだけの相手だった。
顔を出したヒスイは、しばらくその場で、クラリスの方をじっと見ていた。値踏みしているようにも、ただ興味を持っただけのようにも見えた。
そのまま、ヒスイは外套の外へと這い出し、食卓の上に、堂々と乗った。四本の足でしっかりと台の上に立ち、尾を緩やかに揺らしている。隠れる素振りは、どこにもなかった。
頭の奥に、いつもとは違う感覚が飛び込んできた。
『アレンをいじめるな』
短い一言だった。舌足らずで、たどたどしい。それでも、聞き間違えようのない、はっきりとした言葉だった。
「……今の、」
思わず声に出すと、クラリスとフィリアが、そろって驚いた顔でこちらを見ていた。
「聞こえたわよ、今の。頭の中に、直接」
フィリアの声が、珍しく上ずっていた。
「私にも届いたわ。……契約者以外にまで念話が届くなんて、聞いたことがない」
クラリスまでもが、手元の紙束を置いたまま、動揺を隠しきれない様子だった。三人が三人とも、同じ一言を同時に受け取ったらしい。
食卓の上のヒスイは、そんな騒ぎなど知らないという顔で、興味なさそうに宙を見つめているだけだった。次々と厳しい質問を重ねるクラリスに対して、思うところがあったらしい。深い理屈などない、ただの抗議のようだった。
「……今のは、私に対して?」
クラリスの声には、まだ動揺の余韻が残っていた。
「多分、そうだと思います」
「あら、それは失礼したわね」
意外にも、気を悪くした様子はなかった。むしろ、面白がっているような響きが混じっていた。そう言ったきり、クラリスはしばらく黙って、食卓の上のヒスイを見つめていた。
「面白いこと」
クラリスがぽつりと呟いた。
「何がですか」
「従わせられない、という答えの直後に、当の本人が勝手に前へ出てきて、飼い主をかばうような真似までした。……計算してできることじゃないわ、これは」
淡々とした声だったが、さっきまでの刺々しさは、少しだけ和らいでいた。
・・・・・
「今のところ、心証は悪くないわよ」
クラリスは紙をまとめながら、そう言い残した。
「本当ですか」
「あなたの答えは、率直に言って頼りない。でも、頼りない答えの後に、あの子が勝手に出てきたことの方が、よっぽど雄弁だった。……そういうものよ、審査って」
「頼りない方が、いいんですか」
「頼りないのに、正直。取り繕う頼もしさより、よっぽど評価できるわ」
「……ただし、次の質問対策は、もう少し練っておくことね。今日ので満点、というわけじゃないから」
「はい、肝に銘じます」
「返事だけは素直ね。そこも、多分悪くない」
クラリスはそう言うと、紙束をまとめながら、フィリアの方に目をやった。
「相変わらず、変わった拾いものをするのね、あんたも」
「言われなくても分かってるわよ、そんなこと」
「腐れ縁も、たまには悪くないものね」
「余計なお世話よ」
短いやり取りだったが、二人の間から、来た時の刺々しさはすっかり抜けていた。クラリスはそのまま紙束を抱え直すと、足早に帰っていった。残されたのは、どっと疲れた俺と、いつも通り素知らぬ顔のヒスイだけだった。
「先生、今の……クラリスさんにまで聞こえたのって、普通のことなんですか」
「普通じゃないわ。クラリスも言ってた通り、本来、念話は契約者にしか聞こえないもののはずよ」
フィリアの声は、いつになく真剣だった。
「二年間、隣で観察してきて、一度もなかったことが、今日いきなり二つも起きたわ」
「二つ、ですか」
「感覚じゃなく言葉が届いたこと。それが、あんた以外にも届いたこと。……今夜はゆっくり記録をまとめさせてもらうわ」
「先生、今のは、僕が試されたんですか、それともヒスイが」
「さあ。両方、なんじゃない? 審査って、大抵そういうものよ」
その言い方に、少し肩の力が抜けた。
「今日は、クラリスさんと随分普通に話してましたね。先生」
「そう見えた? ……分からないことだらけの受験生が珍しくて、つい話が弾んだだけよ」
素っ気ない言い方だったが、まんざらでもなさそうな響きも混じっていた。駆け出しの頃の因縁を知っているだけに、その気安さが、今日は少しだけ意味を持って見えた。
部屋に戻る前、俺はもう一度、今日のやり取りを頭の中でなぞってみた。分からない、できない、応じてくれるかは相手次第。並べてみると、頼りない言葉ばかりだった。それでも、クラリスはその頼りなさを、悪い意味だけでは受け取っていなかった。取り繕わないことにも、それなりの値打ちがあるのかもしれない。
「隠す」の欄に、俺は今夜、初めて一行だけ書き加えた。「答えられない時は、答えなくていい」。今日、言葉で答えられなかった質問に、ヒスイが代わりに応えてくれた。そのことを、まだうまく言葉にできない。それでも、白紙のままでいるよりは、ずっと前に進んだ気がした。
・・・・・
自室に戻ってから、俺は膝の上のヒスイに、そっと声をかけた。
「今日は、助かった。……お前、僕をかばってくれたんだよな、あれ」
答えは返ってこない。いつも通り、感情の読めない目で、宙のどこかを見つめているだけだった。今日だけで二度も声を聞かせておいて、都合よく黙り込むのだから、勝手なものだと思う。
「先生にまで聞こえたの、驚いただろ。僕も驚いた」
『べつに』
素っ気ない一言が返ってきて、俺は妙な引っかかりを覚えた。驚いていない、ということは、最初から二人にも聞こえるつもりで、そうしていたのだろうか。確かめようがない以上、ただの深読みかもしれない。それでも、一度そう思ってしまうと、妙にしっくりくる気もした。
「まさかとは思うけど、二人にも聞こえるように、わざとやったのか?」
答えは、やはり返ってこない。いつも通り、感情の読めない目で、宙のどこかを見つめているだけだった。
「次、面談の本番があったら、また聞かせてくれるか」
『約束はしない』
期待通りとも言えない返事だった。それでも、今日という前例が一つできたことだけは、確かな事実として残った。何を考えているのかは、結局最後まで全部は分からなかった。それでも、あの瞬間だけは、隠すつもりも、見せつけるつもりも、どちらもなかったように見えた。ただ、そこにいたいから、そこにいた。それだけのことだったのかもしれない。
窓の外では、王都の夜が、いつも通り静かに更けていった。答えの出ない問いは、まだいくつも残っている。本番の面談まで、まだ何回か練習の機会はあるだろう。次も同じようにいくとは限らない。それでも今日、言葉にできなかった部分を、隣にいるものが代わりに埋めてくれた。今はそれだけで、十分だった。




