35 見せ方の稽古
クラリスの手紙が届いた翌朝、フィリアは朝食もそこそこに、書斎に俺を呼んだ。いつもなら朝から本を読み耽っている師匠が、こんな時間に何かを準備している様子は珍しかった。
机の上には、二年分の観察記録とは別に、真新しい紙が一枚だけ置かれていた。中央にまっすぐな縦線が引かれ、左右に「見せる」「隠す」と見出しが立っている。それだけの紙だったが、なぜか妙な圧を感じた。
「今日から、修行の中身を組み直すわよ」
「実技審査が変わるから、ですか」
「そう。今までは、書類の上でどう説明するかだけを考えてればよかった。でも今度は、目の前でどう動くかまで含めて評価される」
フィリアはペンを取ると、「見せる」側に「強化・基本動作」と書き込んだ。
「これは、いくら見せても構わない。審査官だって、強化持ちの動きくらい見慣れてるはずだから」
「隠す側には、何が入るんですか」
「まだ白紙よ。……というより、私にもまだ、正確な線引きができてない」
意外な返事だった。フィリアなら、こういう線引きこそお手の物だと、勝手に思い込んでいた。
「先生でも、分からないことがあるんですね」
「あんたとヒスイの関係は、私が観察してきた二年間ですら、まだ底が見えてないもの。分からないことを、分かってるふりで線引きする方が、よっぽど危険よ」
その言葉には、いつもの皮肉っぽさが薄く、代わりに研究者としての慎重さが滲んでいた。二年間、ずっとこの人はそうやって、分からないものを分からないままにしておく判断を、何度も下してきたのだろう。その判断の積み重ねの上に、今の自分たちの関係があるのだと思うと、不思議な感慨があった。
「じゃあ、どうするんですか」
「今日から、実際に動きながら決める。……行くわよ、鍛錬場」
支度をしながら、俺はふと気になって尋ねた。
「もし、線引きを間違えたら、どうなるんですか」
「見せすぎれば、勿体ないことになる。見せなさすぎれば、審査官には空白のままだと思われる。……どっちに転んでも、いい結果にはならないでしょうね」
正直な返事だった。慰めにも脅しにもならない、ただの事実。それでも、こういう時にはぐらかさずに答えてくれるところが、この師匠らしいと思った。
「怖くないんですか、そんな不確かな状態で進めるの」
「怖いに決まってるでしょう。……でも、怖いからって、確実な道なんてどこにもないのよ。それなら、少しでもマシに見える方を選ぶしかない」
フィリアはそう言うと、紙を丁寧に折りたたみ、道具袋にしまった。その所作には、迷いを振り切るような、いつもより少しだけ速い動きがあった。
・・・・・
鍛錬場に着くと、レイドとミラが既に木剣の手入れをしていた。
木剣を布で拭いていたレイドが、手を止めて振り返った。
「おう、先生まで来るなんて珍しいな」
「今日は、あんたたちにも手伝ってもらうことがあるの」
フィリアの言葉に、二人は顔を見合わせた。
「見学者のつもりで、率直な感想を言ってほしいのよ。アレンの動きが、初めて見る人間にどう映るか」
「それだけでいいのか」
「それだけでいいの。変に気を遣わないでね」
そう言われても、いざ始まってみると勝手が違った。俺はレイドと軽く打ち合いながら、意識のどこかで「見られている」ことを気にしていた。腹の底で力が持ち上がる感覚がある度に、それが余計な動きに繋がっていないか、自問する癖がついてしまう。
「――止め」
フィリアの声で我に返ると、レイドが木剣を下ろしながら首を傾げていた。
「なんか、いつもと違うな。動き、硬くないか?」
「硬い?」
「いつもはもっと、勝手に体が動いてる感じなのに、今日は一個一個、確認しながら動いてる気がする」
的を射た指摘だった。フィリアが小さく頷いている。
「レイドの言う通りよ。見せようとして、逆に不自然になってる」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「見せようとするのをやめること。矛盾してるようだけど、それが一番の近道」
言葉にすると簡単だが、実行するのは難しい注文だった。それでも、何を目指せばいいかが分かっただけ、今日は収穫があったと思うことにした。
「もう一回、いいですか」
「いいわよ。今度は、動きを説明しようとしないで。ただ、いつも通り戦うことだけ考えなさい」
言われた通り、余計なことを考えずに木剣を構え直す。二度目の打ち合いは、一度目よりいくらか滑らかに感じられた。それでも、自分ではまだ、どこがどう変わったのか、はっきりとは分からなかった。
「――そう。今の方が、まだ自然」
フィリアの評価は素っ気なかったが、その声には確かな手応えの色があった。感覚だけを頼りに積み上げてきたものが、少しずつ言葉で説明できる形に変わっていく。その過程自体が、今日という一日の収穫なのかもしれなかった。
・・・・・
休憩を挟んだ後、今度はミラが手を挙げた。
「私、審査官のふりしてみようか。実際に見られる立場で試した方が、練習になると思うし」
「頼めるか」
「任せて。厳しくいくからね」
ミラは腕を組み、いかにも取り澄ました顔を作ってみせた。普段の彼女からは想像もつかない仏頂面に、レイドが先に噴き出した。
「お前、その顔、絶対無理してるだろ」
「うるさいな、雰囲気出すためでしょうが」
軽口を挟みながらも、いざ模擬審査が始まると、ミラの指摘は思いのほか鋭かった。
「今の動き、正直よく分からなかった。何が起きたのか、外から見てても掴めない」
「強化した瞬間のこと?」
「そう。あなたの中では劇的に変わってるのかもしれないけど、外から見たら、ただ速くなっただけにしか見えない。……もっと、分かりやすい"型"みたいなのがあってもいいんじゃない?」
自分では気づかなかった視点だった。ミラ自身、水系統の実技で長く苦労してきたからこそ、見る側の実感を的確に言葉にできるのかもしれない。
「参考になる」
「でしょ。伊達に苦労してないんだから、私だって」
得意げに笑うミラを見ながら、俺は外套の中のヒスイにそっと目をやった。今日は一度も外に出さないまま、練習を終えるつもりでいた。まだ、見せる段階にはない。フィリアの言葉を、自分なりに引き受けた結果だった。
・・・・・
休憩の合間、人目を避けて外套の中に手を差し入れると、ヒスイの小さな体が、いつも通りの温度で応えた。
「お前にも、そのうち頼ることがあるかもしれない。……でも、今日は違う」
念話がはっきり返ってくることは稀だった。今日も、言葉にできるような答えはない。それでも、腕の中の重みが、ほんの少しだけ、応えるように身じろぎした気がした。懐いているかどうかと、力を貸すかどうかは別の話だと、フィリアはいつも言う。それでも、こうして黙って寄り添ってくれるだけで、十分に思える瞬間があった。
「お前の出番は、もっと大事な時に取っておく」
独り言のようなその一言に、誰も答えなかった。それでも、言葉にしたことで、自分の中の踏ん切りが、少しだけ形になった気がした。
・・・・・
「なあ、正直に言うとさ」
木剣を片付ける手を止めて、レイドが不意に切り出した。
「試験が近づいてくると、普通に怖くなる時があるんだよな」
「お前でも?」
「お前でもって何だよ。……当たり前だろ、こっちだって人間だ」
そう言って笑うレイドの声には、いつもの負けん気とは違う、素直な弱さが滲んでいた。
「僕も同じだよ。分からないから、今日みたいな練習を積むしかない」
「珍しく、素直だな」
「今日は、そういう日らしい」
軽口を交わしながらも、俺はどこかで、自分とレイドの抱えているものが、思っていたよりずっと近いことに気づかされていた。中身は違っても、先の見えない不安と向き合う形は、案外似ている。
・・・・・
帰り支度をしていると、ミラが荷物を手に、ふと足を止めた。
「ねえ、今日の話聞いてて思ったんだけど」
「なに」
「あなたは複合系統だから、選択肢があっていいよね。私は水系統一本だから、逃げ場がないっていうか」
その声には、いつもの明るさの奥に隠れた、ずっと抱えてきた不安が滲んでいた。以前、彼女が「まだ何も証明できていない」と漏らしていたことを、俺はふと思い出した。あの不安は、まだ消えていないらしい。
「一本で勝負する方が、迷いがない気もするけどな」
「気休め、下手だね」
「気休めのつもりはない。……今日の指摘だって、僕には出せない視点だった。一本でずっとやってきたからこそ、見えるものがあるんだと思う」
素直な言葉に、ミラは一瞬驚いたような顔をしてから、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「そういうこと、もっと早く言ってよね」
「今、言っただろ」
「遅い」
そう言いながらも、ミラの声には、さっきまでの重さが少し軽くなったような響きがあった。
・・・・・
その夜、簡素な夕食を挟みながら、フィリアが不意に箸を止めて言った。
「今日、レイドとミラに手伝わせたの、正解だったわね」
「二人とも、鋭い指摘ばかりでした」
「あんたには見えないものが、他人には見えるものよ。……それに、あんたが一人で全部を背負う必要もない」
その一言は、いつもより幾分か柔らかい響きを持っていた。
「先生」
「何よ」
「見せ方を工夫するのって、誤魔化しとは違うんですか」
「全然違うわ。誤魔化しは、中身がないものを、あるように見せること。あんたの場合は逆でしょう。中身はもうあるのに、それをどう見せればいいか分からないだけ」
その言葉に、俺は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。積み上げてきたものは、確かにある。あとは、それを正しい形で差し出す練習をするだけだ。
「先生は、どうやってその境目を見分けてるんですか。誤魔化しと、そうでないものの」
「長年の勘、としか言えないわね。……強いて言うなら、誤魔化してる時の人間は、大抵、目の動きが忙しいのよ。次に何を言うか、常に考えてる目をしてる」
「僕は、どうでしたか。今日の練習」
「悪くなかったわよ。動きは硬かったけど、目は落ち着いてた。あんたが見せようとしてるのは、嘘じゃなくて、まだ形になってないだけの本当のことだもの」
その評価が、根拠のある褒め言葉なのか、単に励ましたいだけの方便なのか、俺には判断がつかなかった。それでも、フィリアがわざわざこういう言葉を選んで寄越すこと自体に、意味があるような気がした。普段は皮肉と軽口で塗り固めているこの人が、こういう時だけは妙に真っ直ぐな言葉を使う。二年間の付き合いで、ようやく分かってきた癖の一つだった。
前世の俺は、こういう駆け引きが苦手だった。真面目にやっていれば、いつか誰かが見てくれるはずだと、根拠のない期待だけを頼りにしていた気がする。今回はそれだけでは足りないのだと、今日一日ではっきり思い知らされた。
「先生は、いつからそういうことが分かるようになったんですか」
「さあ、いつだったかしらね。……あんたも、いつか分かるようになるわよ。分かりたくなくても」
意味深な返事だったが、それ以上は深く聞かないことにした。今はまだ、聞いても答えの出ない問いのような気がしたからだ。
・・・・・
夕食を終えて自室に戻った俺は、机の上に置かれたままの一枚の紙を見つめた。「見せる」側にはいくつかの項目が書き加えられていたが、「隠す」側は、依然として白紙のままだった。
線引きが済んでいないという事実が、かえって今の状況を正確に表しているように思えた。何を見せて、何を隠すべきか。その答えはまだ、俺自身にも、フィリアにも分かっていない。分からないまま、それでも前に進むしかない。
怖くないのかと尋ねた俺に、フィリアは怖いに決まっていると即答した。あの正直さが、今になってじわりと効いてくる。誰か一人が確信を持って導いてくれるわけではない。手探りのまま、それでも少しずつ前に進む。それが今の自分たちのやり方なのだと、改めて思い知らされた一日だった。
今日一日で、思っていたよりずっと多くのことを知った。レイドもミラも、それぞれの形で同じ壁と向き合っている。一人で抱え込む必要はないのだと、この二年間、何度も教わってきたはずのことを、また少し違う角度から教わった気がする。
窓の外はもうすっかり暗くなっていたが、白紙のままの紙だけは、灯りの下でやけにくっきりと浮かび上がって見えた。まだ何も書かれていないその余白を、俺はしばらくの間、じっと見つめ続けていた。




