34 静かになる部屋
最後の夜、俺はなかなか寝付けなかった。
理由は分かっていた。明日の今頃には、ノエルはもう王都にいない。分かりきったことなのに、いざそれを実感として飲み込もうとすると、妙に体の座りが悪かった。
前世の俺なら、こんな感覚はよく知っていたはずだった。異動していく同僚、疎遠になっていく友人。そのたびに「まあ、仕方ない」と自分に言い聞かせて、次の日にはまた同じように働いていた。別れを惜しむ余裕も、惜しんだところで何かが変わるわけでもないという諦めも、当たり前に体に染みついていた。
なのに今は、たかが幼馴染が村に帰るというだけのことに、こんなに心がざわついている。ガキらしいと言えばガキらしいのかもしれない。それとも、長いこと感情に蓋をし続けてきたことの反動が、今、九歳の体を借りて噴き出しているだけなのか。自分でもよく分からなかった。
分からないまま、俺は暗い天井を見上げ続けた。
・・・・・
翌朝、鍛錬場に着くと、レイドとミラは既に来ていた。誰からともなく、今日は模擬戦をしようという話にはならなかった。かわりに四人は、鍛錬場の隅の木陰に腰を下ろし、特に何をするでもなく座っていた。
「なんか、締まらないな」
レイドがぽつりと漏らした。いつもなら軽口の一つも飛んでくるはずの場面で、その一言だけがやけに素直だった。
「締めくくろうとするから締まらないんだよ」
ノエルが答える。
「じゃあ、どうすりゃいいんだ」
「いつも通りでいいんじゃない? 今日だけ特別扱いする方が、変な感じがする」
その言葉に、俺は思わずノエルの横顔を見た。二年前、村を出る朝も、こんな風にあっさりしていた。あの時は、それが薄情に見えて少し傷ついた記憶がある。でも今なら分かる。あれは薄情さではなく、彼女なりの距離の取り方だったのだ。名残を惜しみすぎず、次に繋げる。そういう不器用な優しさが、たぶん昔からずっとノエルの中にあった。
「なんだよ、じっと見て」
「いや、別に」
誤魔化しながらも、俺は自分の中に、二年前には持っていなかった読み解き方が増えていることに気づいた。相手の言葉の裏側を推し量ろうとする癖。こんな風に誰かのことを丁寧に理解しようとしたことは、今まであまりなかった気がする。
「じゃあ、いつも通りにしよっか」
ミラが場を仕切るように立ち上がった。誰かが決めてくれることに、正直助けられた。何をすればいいか、自分では決められずにいたから。
その後は本当にいつも通りだった。レイドとノエルが半分本気の打ち合いをして、ミラが横で審判のふりをしながらはしゃぎ、俺はその輪の外側で、外套の中のヒスイをあやしながら眺めていた。特別なことは何一つ起きなかった。それが、かえって胸に残った。
・・・・・
日が高くなった頃、荷馬車の出る時間が近づいてきた。町の門まで、四人と一匹でゆっくりと歩いた。
「なあ、ノエル。今度、また手合わせしよう」
門の手前で、レイドが不意に言った。
「もちろん。今度はちゃんと勝敗つけよう」
「言ったな。忘れんなよ」
短いやり取りだったが、二人の間に流れる空気には、これまでの模擬戦の積み重ねが確かに滲んでいた。負けても、勝っても、また次がある。そう思える相手がいるというのは、案外得難いことなのかもしれない。前世の俺には、勝敗を競い合える相手すら、最後まで一人もいなかった。
「私も、忘れずに手紙ちょうだいね」
ミラが言うと、ノエルは笑って頷いた。
「うん、ちゃんと書くよ」
「やった」
屈託なく喜ぶミラを見て、ノエルもつられたように笑った。二人の間にある空気は、俺が思っていたよりずっと自然に馴染んでいた。出会ってからまだ数週間しか経っていないはずなのに、まるでもっと長い付き合いのように見える瞬間があった。
・・・・・
門の前で、最後にノエルと向き合った。
「それじゃ、行くね」
「気をつけて」
短い言葉しか出てこなかった。もっと言いたいことがある気がするのに、いざ口を開こうとすると、どれも大袈裟すぎるか、逆に軽すぎるかのどちらかに感じられて、結局何も言えなかった。昔からずっと、こういう時に言葉を選びすぎて、結局何も伝えないまま終わらせてしまう癖があった。今もまだ、その癖は抜けきっていないらしい。
ノエルは、そんな俺を見て小さく笑うと、不意に小指を差し出してきた。
「次に会う時までに、ちゃんと胸を張れるくらいにはなっとくから」
「今のままじゃ、胸を張れないのか」
「まずは、剣術学校の合格通知もらってから。……アレンもちゃんと受かっといてよね」
そう言うノエルの目には、迷いがなかった。二年前、同じように小指を差し出してきた時の彼女は、もっと不安げだった気がする。今は違う。何を目指せばいいのかを、自分の言葉ではっきり言えるようになっている。
「約束、な」
「うん。約束」
小指を絡め合った瞬間、二年前の川辺の記憶が、今度は鮮明な輪郭を伴って蘇った。あの時は、まだ何も知らない子供同士の、ただの思いつきの約束だったはずだ。それが今は、こんなにも意味を持つものに育っている。
荷馬車が動き出し、土埃を上げながら遠ざかっていく。俺たちはその背中が見えなくなるまで、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「静かになったな、急に」
レイドがぽつりと呟いた。誰も、それに言葉を返さなかった。返す必要がないくらい、その一言がすべてを言い表していた。
・・・・・
その日の夕方、家に戻った俺は、自分の部屋で一人、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
静かだった。ここ数週間、当たり前のようにあった賑やかさが、今日を境にすっぽりと抜け落ちている。その静けさが、思っていたよりずっと重く感じられた。
こういう静けさには、覚えがあった。誰もいない部屋、誰かが去っていくことへの慣れ。ずっと昔、それが当たり前だった時期がある。あの頃は、むしろ人の気配の方が疲れるものだった。今はその感覚が、まるっきり逆転している。
――俺は、変わったんだろうか。
そう自問して、すぐに答えが出ないことに気づいた。変わったと言えば変わった。人との距離の取り方も、失うことへの実感の重さも、アレンとして生まれ変わった時とはもう明らかに違う。それでも、根っこの部分――誰かに迷惑をかけたくない、期待を裏切りたくないという臆病さ――は、たぶんまだそのまま残っている。今日、ノエルにろくな言葉をかけられなかったのも、結局はその臆病さのせいだった気がする。
変わった部分と、変わらない部分。その両方を、九歳の自分の中に見つけて、俺は少しだけ複雑な気持ちになった。
・・・・・
「浮かない顔ね」
声をかけられて振り向くと、フィリアが部屋の入り口に立っていた。手には一通の手紙が握られている。
「そんな顔してましたか」
「あんた、いつも顔に出すぎよ」
からかうような口調だったが、目はいつもより優しかった。
「クラリスから、手紙が来たの。今のうちに話しておきたいことがあるんだけど、いい?」
「はい」
頷きながらも、俺はその手紙の存在に、朝からずっと張り詰めていた何かとは違う種類の緊張を覚えた。
「入試の実技審査、今年から一部運用が変わるみたい。これまでは、水晶の反応が空白でも、私がまとめた所見を照らし合わせる余地があった。でも今度からは、その代わりの手段が、書類じゃなくて、その場での実演一本になるって」
「実演、ですか」
「そう。書類の上の理屈じゃなくて、その場で実際に何ができるか見せろ、ってこと」
言われてみれば、筋の通った変更だった。書類だけで判断するより、目の前で証明させる方が、審査する側にとっては確実なはずだ。それでも、空白のまま挑む俺にとっては、これまで頼りにしてきた足がかりが、根本から作り直しを迫られるということでもあった。
「大丈夫です。二年前より、今の方がずっとマシな状態だと思うので」
根拠のある慰めではなかった。それでも、口にしないよりはましだと思った。フィリアは少し驚いたような顔をしてから、小さく息を吐いた。
「そうね。……そうだといいけど」
そう言いながらも、彼女はもう手紙を折りたたみ、次にすべきことを考えるような目で窓の外を見ていた。二年間、こうして何度も壁にぶつかっては、その都度、次の一手を探してきた師匠の横顔だった。
一人になってから、俺はもう一度、今日一日のことを頭の中で辿り直した。ノエルが帰り、賑やかだった数週間が終わり、代わりに、避けられない現実が静かに扉を叩き始めている。
――前世なら、こういう時、俺はきっと一人で抱え込んで、誰にも相談しないまま押し潰されていた。
そこまで考えて、俺は苦笑した。また「前世なら」だ。比較してばかりいる自分に、少しうんざりする。それでも、今度は一人で抱え込まなくていいのだと、今日の一日が教えてくれた気がした。レイドも、ミラも、ノエルも、フィリアも、誰も彼も、俺が思っていたよりずっと近くにいる。
残された時間は、思っていたよりずっと短いのかもしれない。それでも、この二年間積み上げてきたものが無駄だったとは、どうしても思えなかった。
窓の外、王都の夕暮れは、いつもと変わらず静かに暮れていった。




