31 いつもの町角、届いた便り
朝の大通りには、いつもと変わらない喧騒があった。パン屋の店先に並ぶ焼きたての匂い、荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音、行商人の呼び込み。井戸端で交わされる世間話の切れ端まで、耳に馴染んで久しい。二年前、右も左も分からずこの町に降り立った時のことを思うと、今ではこの喧騒すら、自分の日常の一部になっている。
「アレン、また来たのかい」
パン屋のグレタが、いつもの丸顔をほころばせて声をかけてきた。
「先生に頼まれて。硬めのパンを二つ」
「相変わらず、先生の使いっ走りだねえ。もう随分、板についてきたじゃないか」
差し出された焼きたての塊を受け取りながら、俺は礼を言った。この町に来た当初、勝手も分からずおどおどしていた俺に、最初に気安く声をかけてくれたのが、他ならぬこのグレタだった。今ではもう、顔を合わせれば当たり前のように軽口が飛んでくる間柄になっている。
「先生には、ちゃんとご飯食べさせてもらってるかい? あの人、自分の食事は平気で抜くから」
「そこは、ちゃんと俺が見張ってます」
「頼もしいこと。あんたも、すっかりしっかりしたもんだねえ」
グレタは満足げに笑うと、もう一つ小さな菓子パンを袋に押し込んできた。「今のはおまけ」と片目をつぶる仕草も、すっかり見慣れたものになっている。
・・・
家に戻ると、玄関先でフィリアが手紙を一通、こちらに差し出してきた。
「あんた宛てよ。……随分久しぶりね、月一の便りだったのに」
見覚えのある癖字の封筒だった。乱暴なようでいて存外読みやすい、勢いのある字。忘れようもない筆跡に、俺は思わず手を止めた。
「ノエルから、ですね」
「そうみたいね。……ゆっくり読んでらっしゃい。私は書斎にいるから」
素っ気ない言い方だったが、そのままさっさと奥へ引っ込んでいく後ろ姿に、俺は密かに驚いた。いつもなら興味津々でこちらの反応を窺ってきそうなものなのに、今日は妙に気を利かせてくれたらしい。
・・・
自分の部屋で、俺は封を切った。
『アレンへ
急な話だけど、近々そっちに行くことになった。父さんが、王都の騎士団で表彰されることになって、家族として出席させてもらえることになったの。せっかくだから、少し長めに滞在するつもり。
川辺で交わした約束、覚えてる? まだ胸を張れるほどじゃないかもしれないけど、そろそろいい頃合いだと思って。
こっちも、この二年でそれなりに強くなったつもり。剣術学校の入学試験、来年受けるつもりでいる。父さんのいる王都で、って決めてたから、ちょうどいい機会だと思ってる。
詳しい日取りはまた連絡する。ヒスイにも会えるの、今から楽しみにしてる。
ノエルより』
・・・
読み終えて、俺はしばらく手紙を持ったまま、ベッドに腰掛けていた。文面から伝わってくる弾んだ調子と、それでも所々に滲む緊張の跡が、二年経っても変わらないノエルらしさを感じさせた。頭の中で、あの日の光景が、勝手に蘇ってくる。
村を出る三日前、二人で座り込んだ川辺。かつてノエルを助けた、あの川だった。日が傾き始めた頃、ノエルが不意に立ち上がり、俺の方に向き直って言った。
「アレン。対等に強くなったら、会いに行くから」
「僕からじゃなくて、ノエルから?」
「あんたは村を出るんでしょ。だったら、追いかける側は、わたしでいい」
そう言って、俺たちは互いの小指を絡めた。その言い方には、いつものぶっきらぼうさと、初めて見せる真剣さが、両方混ざっていた。夕陽に染まる川辺で、ノエルはいつもの強気な口調とは違う、少し弱々しい声でこうも聞いてきた。
「――アレンは、私のこと覚えててくれる?」
「忘れるわけないだろ」
「口だけかもしれないし」
「じゃあ、もう一回約束する。何回でも約束する」
ノエルは小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。
そういえば、と俺は思い出す。あの同じ川辺で、ノエルはこんなことも言っていた。
「もし、王都で父さんに会うことがあったら――わたしが元気にしてるって、伝えてくれる? わたしが頼んだ、っていうふうにじゃなくて、世間話みたいに、さらっとで」
「変な条件つけるなよ」
「いいから」
押し切られる形で、俺は頷いた。あの約束は、結局、今日まで果たせないままだった。王都は広く、騎士団の人間と縁のある暮らしをしているわけでもない。ノエルの父の顔さえ、俺は未だに知らない。
三日後の出発の朝、村の入り口では、もう言葉すら交わさなかった。ただ黙って指だけを重ね、同じ誓いをなぞっただけだった。あの日から、二年。「対等」という言葉の意味を、俺はまだうまく測れずにいる。剣とこの得体の知れない力、比べようのないものを比べる約束に、あの頃のノエルはどんな覚悟を込めていたのだろう。
・・・
昼過ぎ、書斎に顔を出すと、フィリアは山積みの資料に埋もれながらも、こちらにちらりと目をやった。
「読み終わった?」
「はい。……ノエルが、近々王都に来るそうです。父親の表彰式で」
「へえ。それで、あの締まりのない顔になってるわけね」
「そんな顔してますか、俺」
「さっき部屋から出てきた時から、ずっとよ」
図星を突かれて、俺は何と返せばいいか分からなくなった。
「先生、人のこと見過ぎです」
「二年も一緒にいれば、嫌でも分かるようになるものよ。……それに、あんたみたいに分かりやすい子供、逆に見過ごす方が難しいわ」
「子供扱いしないでくださいよ」
「あんたが何歳になろうと、私からすればずっと子供よ」
「それ、フィリア先生が言うと、あんまり説得力ないんですけど」
「あら、失礼ね」
軽い調子で流されて、俺はそれ以上の反論を諦めた。
「ノエルは、剣士志望で、口が悪くて、人一倍負けず嫌いなんです」
「あんたの周りって、揃いも揃ってそういうのばっかりね」
指摘されて、俺は思わず言葉に詰まった。レイド、フィリア、そしてノエル。口の悪さと負けん気の強さだけは、誰もが人後に落ちない面々だった。
「ノエルも、来年、剣術学校の受験を控えてるそうです。王都で」
「ふうん。じゃあ、しばらくはうちも賑やかになりそうね。……あんたが村にいた頃、どんな子供だったのか、興味はあるわね」
「余計なこと話さないでくださいね」
「さて、どうかしら」
意味深な返事に、俺は密かに嫌な予感を覚えた。この師匠は、面白がっていると見境がなくなるところがある。ノエルが来る日までに、せめて口止めくらいはしておこうと、密かに心に決めた。
「王都に来るなら、あんたの近況もあれこれ話すことになるでしょうね」
フィリアの指摘に、俺は今更ながら考え込んだ。ヒスイのこと、弟子入りのこと、廃村での一件。手紙では書けなかったことが、いくつも積み重なっている。
「二年分、何から話せばいいのか、正直今から悩みます。……色々ありすぎて、自分でもうまく整理できてない部分もあるので」
「そんなの、今更でしょ。誰だって、自分のことが一番分からないものよ」
その言葉には、いつになく実感のこもった響きがあった。フィリア自身、姉のことを含め、いまだ自分でも整理のつかない感情をいくつも抱えている人だ。
それにしても、と俺は思う。皮肉屋で人付き合いを避けがちなフィリアと、物怖じしない性分のノエルが顔を合わせたら、いったいどんな空気になるのだろう。想像しかけて、途中でやめた。悪い予感しか湧いてこなかったし、考えたところで、どうせ当日になれば嫌でも分かることだった。
・・・
翌日の鍛錬場で、その話をすると、レイドとミラの反応はやはり対照的だった。
「幼馴染が来るのか。剣士志望なら、俺と手合わせできるかもな」
「攻撃魔法一辺倒のレイドと、剣一筋のノエルじゃ、そもそも土俵が違うと思いますけど」
「土俵が違うからこそ、面白いんだろうが」
理屈になっているような、なっていないような返しだったが、レイドらしいと言えばそれまでだった。
「へえ、女の子なんだ」
隣で話を聞いていたミラが、目を輝かせて割り込んできた。
「そうですけど」
「じゃあ、私からも紹介してよね。アレンの村での話、根掘り葉掘り聞きたいし」
「面白い話なんて、特にないですよ」
「それ、本人が言うと余計に怪しいやつだよね」
レイドも横から頷いて同調してくる。二人がかりでからかわれ、俺はそれ以上取り合わないことに決めた。
「表彰式のことも聞いてやれよ。親父さんの晴れ舞台なんだろ」
レイドの意外な気遣いに、俺は少し驚いた。
「単純に、騎士団の話に興味あるだけだけどな」
「素直に格好つければいいのに」
ミラに茶化されて、レイドは決まり悪そうに視線を逸らした。ミラはそれを見て笑ってから、ふと表情を緩めた。
「その子は、剣一本でここまでやってきたんでしょ。……ちょっと羨ましいかも」
意外な本音に、俺は少し驚いた。水系統の扱いも着実に上達し、順調に見えていたミラの口から、そんな言葉が出るとは思っていなかった。
「羨ましいって、どういうことですか」
「私たちはまだ、何も証明できてないじゃん。系統だけは立派に見えても、それが試験で通用するかなんて、実際受けてみるまで分からないし。……その点、剣術は分かりやすくていいなって、単純にそう思っただけ」
「証明なんて、これからいくらでもできますよ」
「ま、分かってるけどさ。……それに、そうやってすぐ言い返してくるとこ、二年前とは大分変わったよね、アレン」
不意に真面目な調子で言われて、俺は少し面食らった。ミラはそんな反応を面白がるように笑うと、それ以上は深追いせず、自分の稽古に戻っていった。レイドとミラの掛け合いを聞きながら、俺はノエルが来る日には、想像以上に賑やかなことになりそうな予感がした。
・・・
その夜、机に向かいながら、俺はノエルへの返事を書いた。
「王都で待ってる。話したいことが多すぎて、何から書けばいいか分からないくらいだけど、会って話せる日が来るのが、素直に楽しみだ」
書き終えてから、少し気恥ずかしくなって、最後の一文を何度か書き直しかけた。それでも結局、飾らない言葉のまま送ることにした。ノエルなら、変に取り繕った文面より、こういう方を喜ぶ気がした。
ペンを置いて、俺はふと、今朝のグレタとのやり取りを思い出した。相変わらずの軽口、いつも通りの受け答え。あの喧騒に満ちた大通りも、この見慣れた部屋も、二年前にはまだ何もかもが他人事だった王都という場所も、今ではもう、俺にとっての「いつもの場所」になっている。そこに、村から積み重ねてきたものが、また一つ運ばれてこようとしている。
思えば、この二年は「対等」を測るためだけの時間ではなかった。フィリアという師匠を得て、レイドやミラという競い合える相手ができて、グレタのような、名前も知らなかった町の誰かとの繋がりまで積み重なった。ノエルが剣の道で積み上げてきたものと、俺がこの得体の知れない力で積み上げてきたものは、きっと今も比べようがないままだ。それでも、互いに積み重ねてきたものを見せ合う日が、ようやく来る。それだけで、十分な意味があるように思えた。
窓の外、王都の夜はいつもと変わらず静かだった。それでも、近づいてくる再会の日を思うと、これまでとは違う種類の落ち着かなさが、胸の奥にじんわりと広がっていくのを感じた。
外套の中で、ヒスイが小さく身じろぎした。答えを求めたわけではなかったが、その重みが、いつもより少しだけ柔らかく感じられた。




