30 曇った水晶、掴めない結論
面会の日は、思っていたよりずっと早くやってきた。
「明日の午後、王立学園まで来なさい、って」
フィリアがそう告げたのは、手紙が届いてからわずか三日後のことだった。
「学園まで、行くんですか」
「クラリスの仕事場、あそこにあるから」
その一言に、俺は思わず息を呑んだ。まだ先だと思っていた入試の舞台に、こんな形で先に足を踏み入れることになるとは、想像もしていなかった。
・・・
翌日、王立学園の門をくぐると、外から眺めていた時よりもさらに大きな石造りの建物が、視界いっぱいに広がった。行き交う生徒らしき人影は、まだ夏休みなのかまばらだったが、それでも漂う空気の張り詰め方が、王都の大通りとはまるで違っていた。
「ここが……」
「圧倒されてる場合じゃないわよ。本番はまだ先」
フィリアの声に急かされ、俺は慌てて表情を引き締めた。それでも、視界の端に映る尖塔や、擦れ違う生徒たちの制服姿から、目を離すことができなかった。
敷地内を進みながら、俺はふと、七歳の頃に遠目で見上げたこの尖塔を思い出した。あの時感じた漠然とした憧れが、今、少しずつ輪郭を持ち始めている気がした。
案内された鑑定局は、学園の敷地の隅、装飾の少ない実務的な建物だった。他の校舎とは明らかに違う、無骨な佇まいをしている。
・・・
「入りなさい」
扉の向こうから聞こえた声は、思っていたよりずっと低く、鋭かった。
部屋の主――クラリスは、黒髪を後ろできっちりと束ね、眼鏡の奥から値踏みするような視線をこちらに向けていた。年齢はフィリアと同じくらいに見えるが、纏う空気はずっと硬質だった。机の上には、寸分の乱れもなく整理された書類の山が積まれている。フィリアの荒れ放題の書斎とは、何もかもが対照的だった。
「久しぶりね、フィリア。相変わらず、身なりに構わない性分は直ってないみたい」
「余計なお世話よ」
挨拶にしては刺々しいやり取りだったが、二人の間には、それだけの年月が積み重なった気安さも同時に見え隠れしていた。
「で、こっちが例の?」
クラリスの視線が、まっすぐ俺に向いた。
「アレンです。よろしくお願いします」
「よろしくされる義理はまだないけど、まあいいわ」
取り付く島もない返事だったが、フィリアの「苦手なタイプ」という前評判ほどではないと、俺は密かに思った。
・・・
「単刀直入に聞くけど、あんたの理論、今回も破綻してないでしょうね」
「破綻はしてない。ただし、まだ完成もしていない」
「正直なことね。昔から、そこだけは変わらない」
クラリスは呆れたように息を吐くと、机の上に古びた鑑定用の水晶を置いた。
「一応、形だけでも見ておくわ。額、出しなさい」
言われるまま額を差し出すと、クラリスの指先が、慣れた手つきで触れた。数秒の沈黙。水晶は、何の反応も示さないまま、静かに曇ったままだった。
「……見事に、何も視えないわね」
「知ってるでしょう、それは」
「知ってるからこそ、呆れてるのよ。よくこんな曖昧な状態のまま、二年も面倒見てきたわね」
その言い方には、皮肉と同時に、隠しきれない感心の色も滲んでいた。
「昔のあんたなら、こんな地道な記録の取り方、面倒くさがってやらなかったでしょうに」
「昔の私と一緒にしないでよ」
「変わったのね、少しは」
クラリスは、そう言うと、意外にも柔らかい目で紙束を見つめ直した。
「理由、聞いてもいい?」
「……姉のことがあってから、ずっと同じよ。今更変わりようがないでしょう」
フィリアの声が、わずかに硬くなった。クラリスは、それ以上踏み込まず、静かに頷いた。
「そう。それなら、いいわ」
短いやり取りだったが、そこには、二人にしか分からない重みが確かに存在していた。
・・・
「それで、あんたの言う『強化・召喚の複合型』とやら、根拠は」
「二年分の観察記録。実戦での反応、修行の伸び方、細かい兆候まで、全部まとめてある」
フィリアは、道具袋から分厚い紙束を取り出し、机に置いた。クラリスは片眉を上げ、ぱらぱらと頁をめくり始めた。
「……これ、あんた一人でまとめたの」
「当然でしょう」
「呆れた執念ね」
そう言いながらも、クラリスの目は、真剣に紙面を追っていた。しばらくの沈黙の後、彼女は紙束を置き、腕を組んだ。
「悪くない記録だとは思う。でも、これだけじゃ、特例申請の審査は通せない」
「分かってる。今日は、その足がかりを作りに来たの」
「足がかり、ね」
クラリスは、そこで初めて、値踏みするような目を俺に戻した。
「アレン、自分の力について、何か言いたいことはある?」
急に話を振られ、俺は一瞬言葉に詰まった。それでも、正直に答えることにした。
「自分でも、まだよく分かってません。でも、先生の観察が的外れだとも思ってません」
「随分と、師匠を信頼してるのね」
「信頼してます。この二年、ずっと見てもらってきたので」
その一言に、クラリスはしばらく無言で俺を見つめた。それから、眼鏡を押し上げ、ふと表情を緩めて言った。
「フィリア、あんた、本当にこの子のこと、大事にしてるのね」
「当たり前でしょう。弟子なんだから」
「その割に、随分と誇らしげな顔してるじゃない」
指摘されたフィリアが、慌てたように咳払いをした。その反応に、クラリスは初めて、口元をわずかに緩めた。
「昔のあんたなら、絶対に認めなかったでしょうね、そういう顔」
「うるさいわね」
軽口の応酬だったが、そのやり取りには、長年の付き合いだからこそ許される気安さが確かに感じられた。
・・・
「……分かった。正式な受理はできないけど、審査の際に参考記録として添付することは認める。それが、今日できる精一杯」
「十分よ、それで」
フィリアの声に、隠しきれない安堵が滲んだ。
「勘違いしないでよね。あんたに免じてじゃない。この記録の質が、それだけのものだっただけ」
そう言うクラリスの声には、素っ気なさの中に、確かな敬意が混じっていた。
「参考記録として添付できても、最終的に空白の結果を覆せるかは、また別問題よね」
「分かってる。そこから先は、私たちの側で何とかする」
「何とかする、ねえ。具体的な当てはあるの」
「まだ、ない。でも、探す」
フィリアの即答に、クラリスは呆れたように肩をすくめた。それでも、その表情には、どこか懐かしむような色も混じっていた。
「相変わらず、行き当たりばったりね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてないんだけど」
そんな噛み合わないやり取りにも、二人の間に流れる年月の長さが滲んでいた。
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、クラリスは面倒くさそうに手を振った。
「礼はいい。……入試当日、本当に空白のままだったら、それはそれで、私の首も少し危ういんだから。せいぜい、恥をかかせないでちょうだい」
その一言は、脅しのようでいて、どこか激励にも聞こえた。
部屋を出る間際、クラリスがフィリアにだけ聞こえるような小さな声で、何かを付け加えた。
「……その子、本当に大事にしなさいよ。前みたいに、抱え込みすぎて共倒れにならないようにね」
「分かってる」
「分かってないから言ってるのよ」
短いやり取りだったが、俺の耳にも、その一部始終は届いていた。聞かなかったふりをするべきか迷ったが、結局、何も言わないことにした。
・・・
鑑定局を出て、学園の敷地を歩きながら、俺はまだ緊張の抜けきらない体で、大きく息を吐いた。
「先生、あの人、思ってたより」
「話が分かる人でしょう。口は悪いけどね」
「口が悪いところは、正直、先生とそっくりでした」
「……減らず口ね」
軽口を交わしながらも、フィリアの足取りは、来た時よりずっと軽かった。完全な確約ではない。それでも、越えるべき関門の一つに、確かな足がかりができた。
窓の外に見える学園の校舎を振り返りながら、俺はいつかここに正式に通う日のことを、少しだけ具体的に想像してみた。まだ実感は薄い。それでも、今日という日が、その未来を少しだけ近づけてくれた気がした。
・・・
翌日、鍛錬場でレイドとミラに報告すると、二人の反応は対照的だった。
「学園の鑑定官に直接会ったのかよ。すげえな」
レイドは素直に感心した様子だったが、ミラは少し違う角度から食いついてきた。
「その人、厳しかった? 私たちの受験の時も、同じ人が担当するのかな」
「厳しいというか……口は悪いですけど、ちゃんと話を聞いてくれる人でした」
「ふうん。じゃあ、そんなに怖がらなくてもいいのかな」
ミラはそう言うと、少し安心したように息をついた。この二人にとっても、鑑定官という存在は、決して他人事ではないのだと、今更ながら気づかされた。
「まあでも、結局はお前の実力次第だろ。鑑定官がどうこうより先に、俺との差を埋める方が先決だぞ」
「その理屈、今関係あります?」
「あるだろ、多分」
いつも通りの噛み合わない軽口だったが、それすらも、今日は妙に心地よかった。
その夜、机に向かいながら、俺は今日一日の出来事を、頭の中で何度も反芻していた。クラリスの刺々しい歓迎、水晶の曇ったままの反応、参考記録という形での小さな一歩。どれも、劇的な解決とは程遠い。それでも、何も動かなかったこれまでと比べれば、確かな前進だった。
「共倒れにならないように」というクラリスの一言が、まだ耳の奥に残っていた。フィリアが、これまでどれだけのものを一人で抱え込んできたのか、その一言だけで、改めて思い知らされた気がした。




