29 古い紹介状、鑑定という関門
ヴィクトルの訪問から数週間、日々は淡々と積み重なっていった。重石は前より重く、座学の課題は前より厚く、鍛錬場での模擬戦も前より激しい。変化らしい変化のない毎日だったが、その分厚みだけは確実に増していた。
「アレン、今日の強化、維持時間が伸びてる。悪くないじゃない」
「先生の指導のおかげです」
「調子いいこと言うようになって」
そう言いながらも、フィリアの声には満更でもない響きがあった。この手のやり取りにも、いつの間にかすっかり慣れてしまった自分がいる。
座学の方も、竜血族の歴史書だけでなく、この国の法体系や学園の入試制度に関する頁が、少しずつ増えてきていた。前世で細かい規約や資料を読み込まされていた経験が活きたか、存外すらすらと頭に入った。
鍛錬場では、レイドとの実力もほぼ拮抗したままだった。
「そろそろ、俺が勝ち越す番だと思うんだけどな」
「先週も同じこと言ってましたよね」
「今週は本当だ」
「先週もそう言ってました」
軽口を交わしながらも、その拮抗した実力差そのものが、二人にとってはちょっとした誇りになっていた。
「先生、そろそろ話しておきたいことがあるんですけど」
ある晩、夕食を終えたところで、俺は思い切って切り出した。
「なに」
「入試の鑑定のこと。前に『伝手がある、なんとかする』って言ってましたけど、具体的に何か決まってるんですか」
これまで何度か聞きかけては、そのたびに話を逸らされてきた話題だった。フィリアは、一瞬だけ気まずそうな顔をしてから、諦めたように息を吐いた。
「……そろそろ時期だとは思ってた。分かった、ちゃんと話す」
・・・
「王立学園の入学鑑定を担当してる魔法使いに、一人、古い知り合いがいるの」
フィリアは、道具袋の奥から一枚の古びた紹介状のような紙を取り出した。
「クラリスっていう人。……昔、駆け出しの頃に一緒に研究してた仲」
「今は?」
「今は学園の鑑定官。皮肉なもんよね。似たようなことを研究してたのに、片方は在野で、片方は学園の正職員」
その口調には、羨望とも呆れともつかない複雑な色が滲んでいた。
「研究の内容が違ったんですか」
「同じよ、ほとんど。分類できない力の測定方法。……ただ、あの人は途中で、私の物差し理論に見切りをつけて、学園の正式な鑑定術式の方に鞍替えした」
「それで、仲が」
「気まずいだけ。裏切られたとかじゃない。あの人なりの、堅実な選択だっただけ」
フィリアの言い方は、あくまで淡々としていた。それでも、その淡々とした口調の下に、簡単には割り切れていない何かが透けて見えた。
「先生は、鞍替えしようと思わなかったんですか」
「思わなかった、って言えば嘘になるかしらね。……でも、姉さんのために作った理論を、途中で投げ出す気にはなれなかった。それだけ」
その一言に、俺は返す言葉を失った。フィリアが選んだ茨の道の重みが、今更ながら、実感を伴って胸に落ちてきた。
「クラリスさんの方は、その理論、今どう思ってるんでしょうか」
「さあ。……役に立たない道楽だと思ってるかもしれないし、案外、気にかけてくれてるのかもしれない。今の時点じゃ、何とも判断のしようがないわ」
「その人に、頼むんですか」
「頼む。……ただし、簡単には頷いてもらえない相手だと思っておいて」
その口調には、気まずさを承知の上で頭を下げに行く覚悟が滲んでいた。それ以上は聞かないことにした。踏み込んでいい話とそうでない話の境目くらいは、この二年で分かるようになっていた。
・・・
「具体的に、何を頼むんですか」
「あんたの鑑定結果が空白になった時、その場で不合格にせず、事前に提出する所見と照らし合わせて判断してもらう。……つまり、私の『強化・召喚の複合型』っていう仮説を、正式な所見として先に受理させておくの」
「そんなこと、できるんですか」
「制度としては、あるにはある。特例申請、っていう仕組みが。ただ、鑑定官の裁量次第の部分が大きくて、まず取り合ってもらえないことの方が多いらしいわ」
「よく調べてたんですね、そんな制度」
「あんたを弟子に取った日から、ずっと調べてたわよ。……こういうことだけは、手を抜かないの」
その一言に、俺は何と返せばいいか、しばらく言葉を探した。結局、素直に頭を下げることにした。
フィリアの声には、確信よりも、賭けに近い響きがあった。
「もし、断られたら」
「その時は、また別の手を考える。今から悲観することもないでしょ」
強がりなのか、本当にそう思っているのか、俺には判断がつかなかった。それでも、その言い切り方に、俺はいつも通り助けられていた。
「先生」
「なに」
「頼みにくい相手に、俺のために頭を下げに行くんですよね」
「今更、何を言ってるのよ」
「ありがとうございます、って言いたかっただけです」
フィリアは一瞬、虚を突かれたような顔をしてから、そっぽを向いた。
「……分かってるなら、いいのよ」
そう言うと、フィリアはさっさと立ち上がり、片付けにもならない片付けを始めた。誤魔化す時の、いつもの癖だった。
・・・
数日後、クラリスから返事が届いた。フィリアは、封を切るなり、しばらく無言で文面を睨んでいた。
「先生?」
「……会うだけは、会ってくれるって」
「よかったじゃないですか」
「よくはない。会うだけ会って、断る気満々の文面よ、これ」
フィリアはそう言うと、疲れたように頭を抱えた。それでも、その口元には、微かな闘志のようなものが見えた。
「文面、見せてもらってもいいですか」
「……どうぞ」
差し出された手紙には、達筆だが刺々しい字で、簡潔な近況報告と、面会を承諾する一文、そして最後にこう添えられていた。
『あんたの理論、まだ懲りずに続けてるのね』
その一文だけで、二人の間に流れてきた年月の重さが、なんとなく伝わってきた。
「これ、褒めてるんですか、貶してるんですか」
「さあ。……多分、どっちもね」
フィリアの声には、苦笑と、それでいてどこか懐かしむような響きが混じっていた。
「先生一人で会うんですか」
「いいえ。あんたも連れていく。……向こうの狙いは、多分、私じゃなくてあんたを直接見ることだと思うから」
その一言に、俺は思わず居住まいを正した。試されるのは、ヴィクトルの時とはまた違う種類の緊張だった。
「何か、気をつけることはありますか」
「変に取り繕わないこと。あの人、そういう嘘くさい態度には人一倍敏感だから」
「素のままでいい、ってことですか」
「素のまま、かつ、粗相はしない。矛盾してるようだけど、あんたならできるでしょ」
無茶な要求のようで、フィリアなりの信頼の言葉でもあるらしかった。俺は素直に頷くことにした。
・・・
外套の中のヒスイに、そっと目を落とす。相変わらず、何を考えているのか分からない。それでも、その静かな重みに、少しだけ落ち着きを取り戻せた気がした。
「クラリスさんって、どんな人なんですか」
「頭が切れて、口も悪い。あんたも、多分苦手なタイプだと思うわ」
「先生と似てません?」
「……減らず口ね」
フィリアは片眉を上げてそう返したが、それ以上は否定しなかった。
「会う日取りは、いつになりそうですか」
「向こうの都合次第。……多分、そう遠くないうちに、って感じの書き方だった」
「準備しておいた方がいいこと、ありますか」
「今更、準備でどうにかなる相手でもないわよ。……あんたはいつも通りでいい。それが一番の準備」
その言い方には、根拠のなさそうな気安さと、それでいて確かな信頼が同居していた。
・・・
翌日、鍛錬場でミラに事情を話すと、興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「学園の鑑定官って、結構偉い人でしょ。大丈夫なの、そういうの」
「正直、俺にもよく分かりません」
「まあ、フィリア先生がついてるなら平気でしょ。あの人、たまに無茶苦茶だけど、詰めが甘いところは見たことないし」
根拠のありそうでなさそうな励ましだったが、それでも素直に嬉しかった。
「アレンも、これで正式に受験の話が動き出すんだね」
「みたいです。……正直、まだ実感が薄いですけど」
「そのうち嫌でも実感するようになるんじゃない? 私たちも、正直まだそんな感じだし」
ミラはそう言うと、いつもの調子で自分の稽古に戻っていった。この気安さが、緊張しがちな心を、ほんの少しだけ和らげてくれた。
レイドにも軽く事情を話すと、いつも通りの調子で返ってきた。
「なんかよく分かんねえけど、うまくいくといいな」
「投げやりですね」
「詳しいこと知らねえのに、それっぽいこと言う方が失礼だろ」
意外と筋の通った理屈に、俺は思わず苦笑した。この距離感も、二年かけて築いてきたものの一つだった。
・・・
その夜、机に向かいながら、俺は今日聞いた話を、頭の中で整理し直した。特例申請、クラリスという人物、鑑定官という立場。入学試験までの道のりに、また一つ、越えるべき関門が増えた。
それでも、と思う。フィリアが古い伝手を頼ってまで、自分のために動いてくれている。その事実だけで、不安よりも、確かな心強さの方が大きかった。
前世では、こうした人間関係の駆け引きや根回しを、いつも他人事のように眺めていた気がする。今世で初めて、誰かが自分のために頭を下げてくれるという経験の重みを、俺は今更ながら噛みしめていた。
外套の中で、ヒスイが小さく身じろぎした。次の関門が何であれ、隣にこの重みがある限り、一人で立ち向かうわけではない。そう思うと、少しだけ気が楽になった。
窓の外、王都の夜は、いつもと変わらず静かだった。それでも、クラリスという新しい名前が、頭の中でいつまでも小さく響いていた。




