28 高い壁、繋がった目標
石板の一件から数日が経っても、フィリアの様子には、以前とは違う何かが残っていた。以前のような、追い詰められた焦燥ではない。かといって、単純な希望でもない。強いて言えば、静かな覚悟に近いものだった。
外套の中のヒスイも、ここ数日は落ち着いた様子を取り戻していた。あの廃村での一件から遠ざかったせいか、それとも、単に日常が戻ってきたからか、俺には判断がつかなかった。
「今日は、ヴィクトル様が来られるそうよ」
朝食の席で、フィリアがそう切り出した。
「例の件について、ですか」
「そう。セドリックから連絡があった。……多分、今後の方針を伝えに来るんだと思う」
その口調には、期待と不安が、ほぼ同じ重さで滲んでいた。
鍛錬場では、レイドが相変わらずの調子で絡んできた。
「今度こそ本気で来いよ。手加減なしで行くからな」
「先生の用事が終わってからにしてください。今日は上の空になりそうなので」
「なんだよ、それ。逃げんなよ」
「逃げてません。ただの正直な自己申告です」
軽口を交わしながらも、レイドは意外にも深追いしてこなかった。最近の俺の様子を、それなりに察してくれているのかもしれなかった。
・・・
昼過ぎ、ヴィクトルは杖の音を響かせながら、いつも通り前触れなく訪れた。居間に通されるなり、単刀直入に切り出す。
「石板の件、報告は読んだ。……よくぞ、あそこまで辿り着いたものだ」
「ありがとうございます。それで、この先は」
フィリアの声に、隠しきれない前のめりさが滲んだ。ヴィクトルは、それを見て取ったように、一度杖を軽く床につき、少し間を置いてから続けた。
「先に言っておく。あの符牒が示す先――国境の向こう、帝国領内へ足を踏み入れる調査は、私の一存では動かせん」
「……そうですか」
フィリアの声から、すっと力が抜けた。予想していた答えではあったのだろう。それでも、実際に言葉にされると、堪えるものがあったらしい。
「王国と帝国は、今も表向き平和条約下にあるが、実態は薄氷の上だ。魔導院の人間が、民間人の捜索を理由に国境を越えれば、それだけで外交問題になりかねん」
「分かっています。……分かっているつもりでした」
フィリアは、膝の上で拳を握りしめた。俺は、隣で何も言えずにいた。
・・・
「ただし」
ヴィクトルは、そこで一度言葉を切った。
「道が完全に閉ざされたわけではない。国境地帯の出入りに関する報告書には、私も定期的に目を通せる立場にある。分類できない魔力反応、不審な越境者、そういった情報が上がってくれば、私の方で拾い上げることはできる」
「それは……」
「時間はかかる。何年もかかるかもしれん。それでも、何もしないよりはましだろう」
ヴィクトルの声には、慰めというより、事実を淡々と述べるような響きがあった。それが、かえって信頼できる気がした。
「何年も、ですか」
俺が思わず口を挟むと、ヴィクトルの視線がこちらに向いた。
「不満そうだな」
「不満というか……もっと早く、何かできないのかと思って」
正直な気持ちだった。ここまで来て、あとは待つしかないという現実が、どうしても腑に落ちなかった。
「気持ちは分かる。だが、性急に動いて外交問題にでもなれば、今度はフィリアの立場そのものが危うくなる。……お前が焦って動いて、師匠を巻き込む結果になっても構わんのか」
その一言に、俺は返す言葉を失った。焦りが、自分でも思っていた以上に顔に出ていたらしい。
「もう一つ、伝えておきたいことがある」
「なんでしょうか」
「お前の弟子だが」
ヴィクトルの視線が、フィリアから俺の方へと移った。
「王立学園に進む予定だと聞いている」
唐突に話を振られ、俺は姿勢を正した。
「はい」
「学園には、他国からの留学生も一定数在籍している。帝国からの者もいる。……卒業生の中には、外交や国境警備に携わる者も少なくない」
その言葉の意味を、俺はすぐには飲み込めなかった。フィリアの方が、先に気づいたようだった。
「つまり、学園で正式な地位を得れば、いずれ、こういう調査にも正式に関われる可能性がある、と」
「あくまで可能性の話だ。約束はできん。……だが、何の伝手もない在野の魔法使いと、王立学園出身の魔法使いとでは、動かせる範囲が違う。それだけは、事実だ」
「学園を出れば、国境を越える調査にも、正式に関われるようになるんですか」
「そう単純な話でもない。学園を出ただけで、誰でも国際的な任務に就けるわけじゃない。だが、少なくとも今のお前より、選べる道の数は、間違いなく増える」
ヴィクトルの言い方は、あくまで慎重だった。楽観的な希望を持たせすぎないよう、意図的に言葉を選んでいるようにも見えた。
その視線が、ふと、俺の外套の膨らみに落ちた。
「その召喚獣も、学園では正式に届け出が必要になるだろうな」
「はい。先生から、そう聞いています」
「まあ、今から心配することでもない。……とにかく、目の前のことを一つずつだ」
ヴィクトルはそう言うと、話を締めくくるように杖を軽く床についた。それ以上深く踏み込む気配はなく、俺は密かに胸を撫で下ろした。
「先生の代わりに、俺が動ける日が来る、ということですね」
「そうとも言えるし、言えないとも言える。……とにかく、今のお前にできることは、目の前の一歩を確実に積むことだけだ」
その言葉は、これまでフィリアから何度も聞かされてきた台詞と、不思議なくらい重なって聞こえた。
「一つ、お伺いしても」
フィリアが、改まった調子で尋ねた。
「なんだ」
「なぜ、そこまでこの子の将来に、目をかけてくださるんですか。ただの弟子の話のはずです」
もっともな疑問だった。ヴィクトルは、一瞬だけ考える素振りを見せてから、静かに答えた。
「お前の姉の件は、当時、私が力になれなかった案件の一つだ。……古傷、と言ってもいい。今度こそ、できる範囲のことはしておきたい。それだけのことだ」
その答えは、いつもの淡々とした口調とは裏腹に、確かな重みを持っていた。フィリアは、それ以上何も言わず、ただ深く頭を下げた。
古傷、という言葉の重みを、俺はまだ十分には量れずにいた。それでも、大人にも大人なりの、抱え続けている後悔があるのだと、今更ながら思い知らされた気がした。
・・・
ヴィクトルが帰った後、居間には長い沈黙が流れた。フィリアは、両手で顔を覆うようにして、しばらく動かなかった。俺は何も言わず、その隣に座り続けた。
「悔しい、というのとは、少し違うのよね」
やがて、フィリアがぽつりと呟いた。
「これだけ近づいたのに、って気持ちはある。でも、それ以上に……今日、初めて、ちゃんと"次の一歩"を教えてもらえた気がする。今までは、ただ闇雲に探してただけだったから」
その声には、疲れと、それを上回るかすかな希望が、同時に滲んでいた。
「……あんたの学園受験、今までとは、また違う意味を持つことになったわね」
フィリアの声は、静かだったが、確かな熱を帯びていた。
「残り一年もない受験、今まで以上に本気でやります」
「本気でやってもらわないと困るのよ、これからは」
軽口めいた言い方だったが、その目には、これまでにない強さが宿っていた。
「先生」
「なに」
「俺も、先生と同じくらい、この件、大事に思ってます。だから」
「分かってる。……分かってるから、これ以上は言わなくていい」
フィリアはそう言うと、俺の頭を、いつになく優しく撫でた。子供扱いされているようで、それでいて、対等に扱われているような、不思議な感触だった。
・・・
翌日から、鍛錬場での稽古にも、以前とは違う張り詰めた空気が混じるようになった。
「なんか、今日も気合入ってんな」
レイドが、汗を拭いながら呆れたように言った。
「そういう時期なので」
「よく分かんねえけど、まあいいや。付き合ってやるよ」
ミラも、水系統の新しい技を見せながら、興味深そうに聞いてきた。
「アレン、なんか目標できたって顔してる」
「そんなに顔に出てますか」
「めちゃくちゃ出てる。……いいことなら、応援するけど」
「はい。多分、いいことです」
素直にそう答えると、ミラは満足そうに笑って、また自分の練習に戻っていった。この気安い距離感が、今の自分にはちょうどよかった。
レイドとの模擬戦も、以前より一段激しさを増していた。決着はまた五分に終わったが、互いに息を切らしながら地面に座り込む瞬間だけは、今日も変わらなかった。
「なんか、今日のお前、いつもよりしつこかったな」
「今日は、負けるわけにいかない気分だったので」
「よく分かんねえけど、まあ、悪くなかったぜ」
レイドはそう言うと、汗を拭いながら満足そうに笑った。この単純な充実感が、今の自分には、ひどく貴重なものに思えた。
・・・
その夜、机に向かいながら、俺はレイフ村への手紙を書いた。長らく後回しにしていた、ノエルへの返事だった。
「王都では、色々なことがありました。詳しくは会った時に話します。今は、前より少しだけ、目指すべきものがはっきりした気がします」
書きながら、少し前に届いたノエルの手紙を、机の端から引っ張り出した。「剣術の師範代に、また一本取った」という、いつも通りの威勢のいい報告に混じって、最後にこう添えてあった。
『あんたも、そっちで色々あるんでしょ。無理しすぎないでよね。……なんて、柄にもないこと言った。今の忘れて』
素っ気ない文面の裏に隠れた気遣いに、俺は思わず笑ってしまった。返事には、忘れずにそのことにも触れておこうと決めた。
丘の向こうの世界に憧れていた、あの頃の自分を思い出した。今の自分は、あの頃よりずっと遠くまで来ている。それでも、まだ見えていない景色の方が、圧倒的に多いままだった。
書き終えた手紙を封じながら、俺は今日一日の出来事を、頭の中でもう一度なぞってみた。国境という高い壁。ヴィクトルの言う"次の一歩"。フィリアの静かな覚悟。どれも、すぐに答えの出るものではない。それでも、闇雲に足搔いていた頃とは、明らかに何かが違っていた。
外套の中のヒスイが、机の端でこちらを見上げていた。何を考えているのか、いつも通り分からない。それでも、その静かな眼差しに、少しだけ励まされている気がした。
窓の外、王都の夜は、いつもと変わらず静かだった。それでも、残り一年を切った受験までの日々が、今日を境に、これまでとは違う重みを持ち始めていた。国境の向こうにいるかもしれない誰かのために。そして、自分自身のために。俺は、その両方を胸に抱えたまま、ランプの火を落とした。




