27 解読された文字、十年前の足跡
石板を持ち帰ってから、フィリアの家には、見慣れない顔がたびたび出入りするようになった。魔導院の言語学者だという、白髪頭の老学者――ゲルハルトと名乗った、痩せた小柄な人物だった。セドリックも、記録係としてほぼ毎日のように顔を出している。
「この字体、王国内のどの文献にも一致しません。竜血族独自の書法である可能性が高いですね」
ゲルハルトがそう唸るのを、俺はもう何度も聞いていた。石板を挟んで交わされる議論は、専門用語ばかりで半分も理解できなかったが、その熱量だけは、隣で見ているだけでも伝わってきた。
「坊や、そこの分厚い辞書、取ってもらえるかね」
「これですか」
「ああ、それだ。……ふむ、若いのに、こういう地味な手伝いを厭わないのは感心だ」
ゲルハルトに褒められると、なぜかフィリアに褒められた時とは違う照れくささがあった。俺は曖昧に頷いて、また次の資料を探しに書棚へ向かった。
「先生、進み具合はどうですか」
「牛の歩みね。……でも、止まってはいない」
フィリアはそう答えると、また拡大鏡を覗き込んだ。目の下の隈は、以前にも増して濃くなっていたが、その目に宿る光だけは、少しも曇っていなかった。
鍛錬場でも、レイドから最近の様子を心配されるほどだった。
「お前んとこの師匠、なんか根詰めてるって聞いたけど」
「まあ、色々あって」
「相変わらず詳しく言わねえのな」
「言えることが少ないだけです」
レイドはそれ以上追及せず、代わりに模擬戦の強度を上げてきた。気を紛らわせようとしているのが見え見えで、俺は少しだけおかしくなった。この不器用な気遣いも、レイドらしいといえばらしかった。
・・・
数週間が経つ頃、老学者がようやく、一部の文字列の意味を絞り込めたと言い出した。
「これは、恐らく"境界"を意味する語です。あなたが以前見た石碑の紋様とも、同じ語根を持っている」
「境界……ヴィクトル様が言っていた通りですね」
セドリックが手帳を繰りながら頷く。老学者は続けて、別の一節を指し示した。
「こちらは、もう少し複雑です。直訳すれば、"測ることのできぬ者を、匿う場所"、といったところでしょうか」
その一言に、俺とフィリアは、思わず顔を見合わせた。
「測ることのできぬ者、って」
「分類できない力を持つ者、という意味だと思われます。竜血族に限らず、そういう人間を保護する目的で、この手の遺構が各地に築かれていた可能性がある」
「各地に、ですか」
セドリックが身を乗り出す。
「あくまで可能性です。同種の意匠を持つ遺構が、他にも存在するという記録の断片が、魔導院にいくつか眠っています。今回のように、ちゃんと調査されたのは、恐らくこれが初めてでしょうが」
ゲルハルトの推測は、あくまで慎重な言い回しだった。それでも、その一言が、俺たちにとってどれほどの重みを持つかを、当人は知らないはずだった。
「つまり、竜血族は、自分たちだけじゃなく、他の"分類できない者"も匿っていた、ということですか」
俺が尋ねると、ゲルハルトは興味深そうに片眉を上げた。
「面白い質問だね、坊や。……あくまで推測だが、そうなのかもしれない。竜血族自体、時の権力から見れば、常に"測れない側"だったろうからな。同じ境遇の者への、ある種の共感があったとしても、不思議ではない」
その言葉が、俺の中で何かと静かに繋がった気がした。だが、それを言葉にする前に、フィリアが口を開いた。
「先生」
「……分かってる。まだ、確証じゃない」
フィリアの声は、震えを抑え込むように硬かった。
・・・
さらに数日、解読作業は続いた。石板の表面の大部分は、竜血族時代の古い書法で、格式ばった祈りの文句のような文章が刻まれていた。だが、その中に一箇所だけ、明らかに異質な部分があった。
「ここだけ、彫りの深さも角度も違いますね」
セドリックが、石板の隅を指でなぞりながら指摘した。他の文字が、丁寧に均一な深さで刻まれているのに対し、その一角だけは、荒々しく、急いで彫られたような跡が残っている。
「新しい、ということですか」
「恐らく。……古代の職人の手によるものではなく、後から何者かが刻み足した可能性が高い」
ゲルハルトはそう言うと、眼鏡を押し上げて、その一角に顔を近づけた。
「刃物ではなく、恐らく金属の欠片か何かで、急いで刻んだ跡です。専門の職人の技術ではありません。……素人の手による、何らかの意思表示、というところでしょうか」
「意思表示、ですか」
「メッセージ、と言い換えてもいい。誰かが、後になって、ここに何かを書き残したがった。そう考えるのが自然です」
その説明に、フィリアの手が、微かに震え始めているのに、俺は気づいた。ゲルハルトは、拡大鏡を使って、その部分を慎重に写し取り始めた。彫られていたのは、複雑な文様ではなく、単純な図形の連なりだった。
数日後、その図形が、古代文字ではなく、もっと後の時代――今から十年前後の様式で使われていた、私的な符牒に近いものだと判明した。
「これは……」
写し取られた図形を見た瞬間、フィリアの顔から、すっと血の気が引いた。
「先生?」
「これ、姉さんの……セレナの、癖字。手紙に書く時、いつも文末に添えてた印」
その声は、ほとんど息だけで発されているようだった。
・・・
居間に戻ってからも、フィリアはしばらく、写しを握りしめたまま動かなかった。ゲルハルトとセドリックは、興奮した様子で他の解読作業を続けていたが、その空気に、フィリアだけが取り残されているように見えた。
「先生」
呼びかけても、しばらく反応がなかった。俺は黙って、フィリアの隣に腰を下ろした。
「間違いない、んですか」
ようやく絞り出すように、フィリアが答えた。
「間違えようがない。……この癖、私が真似しようとして、何度もからかわれた覚えがあるもの」
フィリアは、震える指先で、写しの図形をなぞった。何度も、何度も。まるで、その感触を確かめずにはいられないというように。
「じゃあ、姉さんは、あそこに」
「少なくとも、一度は。……十年前、失踪した頃と、時期的にも矛盾しない」
その言葉に、俺の中で何かが強く反応した。婆ちゃんの昔語り、竜血族の伝承、フィリアの十年間。ずっとばらばらだった点が、今、初めて一本の線で繋がった気がした。
「じゃあ、姉さんは、今も」
「分からない。……そこまでは、まだ何も」
フィリアは、慎重にそう言葉を選んだ。期待に飲まれてしまわないよう、自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
「あそこに何かの印を残せたってことは、少なくともその時点では、無事だったってことですよね」
「そう考えるのが、自然だとは思う。……国境を越える前の、最後の中継地点として使ったのかもしれない。あるいは、ただの偶然、通りすがりに残しただけかもしれない。理由は、いくらでも考えられる」
フィリアは、そこまで一気に言うと、ようやく少し落ち着いたように息を吐いた。
「でも――」
フィリアは、そこで一度言葉を切った。
「十年前の"無事"が、今の"無事"に繋がってる保証は、どこにもない。それでも」
「それでも?」
「それでも、何もなかった十年間に、初めて足跡が見つかった。それだけで、今日は十分」
その言い方には、これまでの十年分の重さと、それでも折れなかった意地のようなものが、同時に滲んでいた。
俺は何も言わず、ただフィリアの隣に座り続けた。慰めの言葉を探そうとしたが、どれもしっくりこなかった。結局、こういう時に一番役に立つのは、下手な言葉よりも、ただ隣にいることなのだと、この二年で少しずつ学んでいた。
・・・
夜、机に向かいながら、俺は今日聞いたことを、頭の中で何度も反芻していた。測ることのできぬ者を匿う場所。姉の印。十年前の足跡。答えの出ない問いは、今日また一つ形を変えた。それでも、確かに何かが、少しずつ輪郭を持ち始めている。
測ることのできぬ者、という言葉が、頭の奥でいつまでも小さく響いていた。自分がそれに当てはまるのかどうか、はっきりした答えはまだどこにもない。それでも、耳慣れないはずのその響きが、今日もまた、不思議なくらいすんなりと胸に馴染んでいくのを感じた。理由を突き詰めて考える気には、なぜかなれなかった。
外套の中のヒスイは、いつもの寝息を立てていた。あの日、跪いた影の意味も、まだ何一つ分かっていない。それでも、今日という日が、これまでとは違う一日だったことだけは、確かだった。
翌朝、フィリアはいつも通りの顔で朝食の支度をしていた。
「今日から、修行は少し強度を上げるわ」
「昨日のことと、関係あります?」
「大ありよ。……姉さんのために動くにしても、あんたが一人前になってくれないと困る」
理屈になっているような、なっていないような言い分だった。それでも、その言葉に込められた意志の強さだけは、はっきりと伝わってきた。
「セドリックさんたちには、あの符牒のこと、話すんですか」
「話す。……ただし、私の個人的な事情としてね。あんたの正体に繋がる話じゃない、そこだけは、ちゃんと線を引く」
フィリアの声には、これまでにない確かな覚悟が滲んでいた。俺は、それに応えるように、深く頷いた。
その日のうちに、フィリアはゲルハルトとセドリックに、あの符牒が姉のものである可能性を伝えた。二人とも、しばらく言葉を失ったように黙り込んでいたが、やがてセドリックが、いつもの事務的な口調に戻って言った。
「……分かりました。この件は、正式な調査記録とは切り分けて、個人的な追加調査として扱いましょう。ヴィクトル様にも、その形で報告します」
「助かるわ」
「礼には及びません。……ヴィクトル様も、恐らく同じ判断をされるでしょうから」
ゲルハルトは、何も言わず、ただ深く頷くだけだった。その沈黙が、下手な慰めの言葉よりも、よほど誠実に感じられた。
「先生」
「なに」
「一緒に、探しましょう。今度こそ」
「……生意気」
そう言って笑うフィリアの目元は、いつもよりわずかに赤く見えた。それが朝日のせいなのか、他の何かのせいなのか、俺はあえて聞かないことにした。
朝食を終えると、フィリアはいつも通りの調子で、重石を担いだ走り込みのメニューを言い渡してきた。以前より一段重いその指示に、俺は思わず唸ったが、不思議と気持ちは重くなかった。
鍛錬場では、ミラが早速、興味津々といった様子で駆け寄ってきた。
「アレン、なんか今日、雰囲気違わない?」
「そうですか?」
「うん。なんていうか、目つきが」
「気のせいだと思います」
誤魔化しながらも、俺は密かに、今日という日の重みを噛みしめていた。何かが劇的に変わったわけではない。それでも、確かに一歩、前に進んだ。その実感だけは、はっきりと胸の中にあった。
窓の外、王都の朝は、いつもと変わらず穏やかだった。それでも、今日という日を境に、俺たちの探し続けてきた答えが、少しだけ近づいた気がしてならなかった。




