26 目覚めた守り人、跪いた影
ひと月は、あっという間に過ぎた。
重石の重量はまた一段重くなり、座学の課題も日を追うごとに厚みを増していった。フィリアの指導は、以前にも増して容赦がなかった。「腑抜けてる暇はない」という宣言は、どうやら本気だったらしい。
「先生、これ以上重くしたら、俺、腕がもげます」
「もげないわよ。人体はそこまで柔じゃない」
「先生の理論、たまに医学から逸脱してる気がします」
「気のせいよ」
軽口を叩き合いながらも、俺は密かに、自分の中の何かが確かに底上げされていく感覚を掴んでいた。強化の維持時間は、以前よりさらに安定している。座学の方も、竜血族の歴史に触れる頁が増えるたび、以前より深く読み込むようになっていた。
外套の中のヒスイは、出発の日が近づくにつれ、また少しずつ落ち着きをなくしていった。あの廃村の名前を口にするたび、腕の中の重みがわずかに強張るのが分かった。
鍛錬場では、レイドとの模擬戦にも、以前より一段踏み込んだ緊張感が混じるようになっていた。
「なんか、最近顔つき変わったよな、お前」
「そうか?」
「気合入りすぎだろ、普段の練習にしては」
図星だった。何と答えればいいか分からず、俺は曖昧に笑ってごまかした。レイドはそれ以上追及せず、ただ「まあ、いいけどよ」とだけ言って、木剣を構え直した。この距離感も、二年かけて積み上げてきたものの一つだった。
・・・
出発の朝、家の前には見慣れない荷馬車が二台停まっていた。前回の、御者一人だけの心細い旅とは違う。
「今回は、私が同行させていただきます。セドリックと申します」
丁寧に一礼したのは、フィリアより少し年上に見える、几帳面そうな身なりの魔法使いだった。眼鏡の奥の目は、値踏みするというより、事務的に状況を整理するような光を宿していた。
「ヴィクトル様の代理で、記録係を務めます。……在野の魔法使いに同行するのは、正直、慣れませんが」
「あら、随分と正直ね」
フィリアが皮肉っぽく返すと、セドリックはわずかに眉を動かしただけで、それ以上取り合わなかった。仕事に徹する、という姿勢が、態度の端々から伝わってきた。
「弟子の彼が、アレンくんですね。話は伺っています」
「よろしくお願いします」
「ええ。……ただし、危険な場面では、私の指示に従っていただきます。素人判断で動かれては困りますので」
前回の反省を踏まえた、正式な調査団らしい物言いだった。フィリアは面白くなさそうな顔をしたが、反論はしなかった。
「そちらの召喚獣も、道中は大人しくしていてくださいね。魔導院の記録に残る調査ですので、想定外の事態は困ります」
セドリックの視線が、外套の膨らみに一瞬だけ向いた。事務的な確認、という以上の含みはなさそうだった。
「大人しくしてます。人見知りが激しいだけの、気の弱い子なので」
「そうですか。それなら結構」
セドリックはそれ以上追及せず、手帳に何かを書きつけて背を向けた。この手の相手には、下手に隠そうとするより、平然と言い切ってしまう方が案外通じるらしい。フィリアの流儀が、いつの間にか自分にも移っている気がした。
・・・
五日の道のりは、前回よりずっと落ち着いたものだった。護衛の兵が数人同行し、荷馬車も装備で満載になっている。フィリアは相変わらず紙束を睨んでいたが、その表情には、前回のような追い詰められた色は薄れていた。
「今回は、心強いですね」
「心強い、というか、監視されてる気分ね」
「セドリックさん、悪い人ではなさそうですけど」
「悪い人じゃないから、逆に厄介なのよ。ああいうタイプは、正論で外堀を埋めてくる」
軽口の中にも、以前と違う余裕が感じられた。一人で全部を背負っていた頃とは、明らかに何かが変わっている。
・・・
廃村に着くと、村の様子は前回と何一つ変わっていなかった。崩れた家々、静まり返った空気。それでも、大人数での到着は、村そのものの印象を少しだけ違って見せた。
「あの石碑まで、案内してもらえますか」
セドリックの指示で、俺たちは中央の広場へと向かった。石碑は、あの日のままそこに立っていた。ただ、周囲を囲むように、護衛の兵が慎重に距離を取って配置についていく。
「あなたが持ち帰った、あの金属片をお借りできますか」
セドリックの求めに応じてフィリアが差し出すと、彼はそれを慎重に受け取り、石碑の根元――以前、金属片が埋もれていた場所に、そっとかざした。
その瞬間、石碑の根元が、かすかな光を帯びた。
「これは……」
地面が、音もなく沈み込んでいく。埋もれていた石段が、少しずつ姿を現した。
「隠し通路ですか」
「金属片が、鍵の役割を果たしていたようですね。……よく持ち帰ってくれました」
セドリックの声には、初めて素直な感心の色が滲んでいた。
・・・
石段は、思っていたよりずっと深く続いていた。壁面には、戸口や石碑で見たのと同じ意匠が、途切れることなく刻まれている。松明の灯りに照らされたその光景は、廃村の地上部分とはまるで違う、張り詰めた静けさを湛えていた。
「これほどの規模とは……記録にすら残っていない」
先頭を行くセドリックの声が、わずかに上ずっていた。普段の事務的な口調が崩れるのを、俺はこの短い付き合いの中で初めて見た気がした。
段を下るごとに、空気が冷たく、そして重くなっていく。護衛の兵たちも、無駄口一つ叩かず、慎重に足元を確かめながら進んでいた。
外套の中のヒスイの気配が、いよいよ張り詰めていくのが分かった。
「ヒスイ、無理そうなら言えよ」
答えは返ってこない。それでも、腕の中の震えが、いつもより明らかに強かった。
「アレン、あんたも辛かったら――」
「大丈夫です。行きましょう」
フィリアの気遣いに、俺は素直に頷いた。ここまで来て、引き返すという選択肢は、もう自分の中になかった。
石段を下りきった先に、開けた空間があった。中央には、石碑と同じ意匠を持つ、一回り大きな石の台座。その上に、人型の輪郭をした、淡く発光する影が、静かに佇んでいた。
・・・
「……動くな」
セドリックが、鋭く小声で制した。護衛の兵たちが、一斉に武器を構える。
影は、鎧のような硬質な輪郭と、長い外套を纏った姿をしていた。顔と思しき部分は、光の輪郭だけで、表情は読み取れない。それでも、その佇まいには、まぎれもない威厳があった。
「竜血族の……守り人、か」
フィリアが、掠れた声で呟いた。
影が、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。視線らしきものが、部屋の中を一巡する。護衛、セドリック、フィリア――そして、俺の胸元で止まった。
正確には、俺自身ではなく、外套の中のヒスイに向けられているのが分かった。
・・・
その瞬間、影の輪郭が、大きく揺らいだ。
セドリックが何か指示を叫ぶ声が、やけに遠く聞こえた。護衛の兵たちが構えを取る。だが、影はこちらへ向かってこなかった。
代わりに、影はゆっくりと、片膝をつくように沈み込んでいった。まるで、何かに対して、恭しく頭を垂れるような仕草だった。
外套の中で、ヒスイが激しく身じろぎした。今までのどの反応とも違う、切実な震えだった。伝わってくる感覚はない。それでも、その震えの意味が、自分でも説明できないまま、腹の奥にじわりと沁みてくる気がした。
「……何なの、これ」
フィリアが、呆然と呟いた。セドリックも、構えたまま動けずにいる。
影は、跪いたまま、しばらく動かなかった。護衛の兵たちも、武器を構えたまま、動くに動けずにいた。誰も、この静止をどう解釈すればいいのか、判断がつかないようだった。
「……攻撃の意志は、なさそうですね」
セドリックが、辛うじてそう絞り出した。声には、まだ隠しきれない緊張が残っていた。
やがて、影の輪郭が徐々に薄れ、光の粒子となって、静かに崩れていった。
・・・
「……古い記録用の護符か、それに類するものかもしれません」
我に返ったセドリックが、震える声でそう推測した。
「召喚獣に対して、何らかの識別反応を示した、ということでしょうか」
フィリアが尋ねると、セドリックは眼鏡の位置を直しながら、慎重に言葉を選んだ。
「断定はできませんが……可能性はあります。古い護符の類には、特定の魔力の質に反応する仕掛けが施されていることがありますから」
もっともらしい説明だった。それが的外れなのか、案外核心を突いているのか、俺自身にも判断のしようがなかった。
「戦闘用の守り人じゃ、なかったみたいですね」
俺がそう口にすると、セドリックは小さく頷いた。
「そのようですね。……ただ守るためだけの存在というより、番人か、あるいは証人に近いものだったのかもしれません」
セドリックはそう呟くと、影が消えた台座に慎重に近づいた。そこには、小さな窪みができており、中に、古びた布に包まれた何かが収まっていた。
「これは……」
フィリアが、震える手でそれを取り上げる。布を開くと、中から出てきたのは、掌に収まるほどの、風化した小さな石板だった。刻まれた文字は、この場の誰にも読めない、古い字体だった。
「持ち帰って、解読しましょう。今回の調査で、最も重要な収穫かもしれません」
セドリックの声には、はっきりとした興奮が滲んでいた。
フィリアは、石板を布ごと丁寧に胸に抱えると、しばらくその重みを確かめるように黙り込んでいた。
「先生、大丈夫ですか」
「……大丈夫。ただ、これが本当に何かの答えだったら、って考えると、少し足が竦むだけ」
その正直な弱音に、俺は何と返せばいいか迷った。結局、何も言わず、ただ隣に並んで立つことにした。フィリアは、それだけで十分だとでも言うように、小さく息を吐いた。
・・・
地上に戻る石段を上りながら、俺はまだ、あの影の視線を振り払えずにいた。外套の中のヒスイは、いつの間にか、いつもの寝息を立て始めている。それでも、その体は、まだどこか強張ったままだった。
「先生、まだ何か引っかかってます?」
「ええ。……あの石板、姉さんと何か関係あるのか、正直まだ何とも」
フィリアの声には、期待と警戒が、同じくらいの重さで混じっていた。答えの出ない予感を、今日もまた一つ抱えたまま、俺たちは地上へと戻る石段を上り続けた。
村を出て、荷馬車に揺られながら、俺は自分の胸の内を、そっと手で押さえてみた。あの影が最後に見せた、跪くような仕草。その意味を、俺はまだ、自分の言葉にできずにいた。
外套の中のヒスイに、そっと目を落とす。眠っているように見えて、その瞼の下では、何かをずっと考え続けているような気配があった。何を思っているのか、聞いたところで答えが返ってくるわけではない。それでも、今日ばかりは、問いかけずにはいられなかった。
「なあ、ヒスイ。お前、あれが何なのか、知ってるのか」
答えは、いつも通り返ってこなかった。ただ、腕の中の重みが、ほんの少しだけ、こちらに寄り添うように動いた気がした。それが答えなのか、単なる寝返りなのか、俺には判断のしようがなかった。
隣に座るフィリアは、膝の上の石板を、ずっと大事そうに抱えていた。時折、布の上から指でなぞるように触れては、また何か考え込む。セドリックは向かいの席で、興奮を隠しきれない様子で手帳に何かを書きつけていた。
「先生」
「……なに」
「もし、あの石板に、お姉さんに繋がる何かが書いてあったら」
「その時は、また、あんたに助けてもらうことになるんでしょうね」
フィリアはそう言うと、小さく笑った。皮肉でも強がりでもない、初めて見る種類の笑い方だった。
窓の外を流れていく荒野を眺めながら、俺は今日という一日を、頭の中で何度も反芻した。跪いた影、震えるヒスイ、掌の中の古い石板。答えの出ない問いは、今日また一つ増えた。それでも、その一つ一つが、確かに何かへと繋がり始めている気がしてならなかった。




