25 持ち帰った欠片、ヴィクトルとの対面
廃村から王都へ戻る道のりは、行きよりも口数が少なかった。フィリアは馬車に揺られる間、ずっと懐から取り出した紙束を睨んでいた。書き写した文様と、あの金属片。二つを見比べては、時折小さく唸り、また睨み直す。その繰り返しだった。
「先生、休憩挟まないんですか」
「あんたこそ、寝ておきなさい。着いてからが本番よ」
取り付く島もない返事だったが、声色に苛立ちはなかった。ただ、いつもの気だるさが、今は別の何かに置き換わっているだけだった。
外套の中のヒスイは、村を離れてしばらく経つと、少しずつ落ち着きを取り戻していった。それでも、以前のような気ままな寝息が戻るまでには、もう半日ほどかかった。
「ヒスイ、大丈夫か」
問いかけても、答えはなかった。それでも、腕の中の重みが、少しずつ元の柔らかさを取り戻していくのが分かった。
三日目の宿場で、フィリアが久しぶりに紙束から目を上げた。
「あんた、疲れてない?」
「先生の方が、顔色悪いですけど」
「それは言われたくないわね」
軽口を返しながらも、フィリアの目の下には、いつもよりずっと濃い隈ができていた。それでも、その目の奥には、これまで見たことのない種類の光が灯っていた。
・・・
王都に着いてからの数日、フィリアの生活は一変した。
朝食もそこそこに書斎へこもり、日が暮れても出てこない。差し入れた食事は、半分も減らないまま冷めていることが多かった。机の上には、あの金属片と、拡大鏡や見慣れない薬品の瓶が所狭しと並んでいる。
「先生、少しは寝てください」
「寝てるわよ、ちゃんと」
「昨日と同じ服です」
「……着替える暇が惜しいだけ」
苦しい言い訳だったが、それ以上強く言う気にはなれなかった。姉のことに繋がるかもしれない手がかりを前にして、平静でいられる人間の方が少ないだろう。
「何か、分かったんですか」
「あの意匠、記録にある竜血族の紋様と、七割方一致する。でも、残りの三割が、どうしても引っかかるの」
「引っかかる、というと」
「見たことのない癖がある。まるで、別の系統の文様が混ざり込んでるみたいに」
フィリアはそう言うと、拡大鏡を置いて、深く息を吐いた。一人で抱え込むには、あまりに大きすぎる謎らしかった。
「俺にも、何か手伝えることありますか」
「今のところはないわ。……いいえ、あるとしたら、ちゃんとご飯を食べさせること、かしら」
自嘲気味な言い方だったが、俺は素直にそれを実行することにした。市場でグレタから買ってきた焼き立てのパンを机の端に置くと、フィリアは無言でそれを一口齧り、また拡大鏡に向き直った。会話にすらならなかったが、それでも少しは腹に入れてくれたことに、俺は密かに安堵した。
膝の上のヒスイも、机に積まれた紙束の匂いを、時折不思議そうに嗅いでいた。何かを感じ取っているのか、単に人間の道具に興味があるだけなのか、いつも通り判断はつかなかった。
・・・
五日目の朝、玄関の扉を叩く音がした。これまでのような使いの青年ではなく、フィリアが自ら扉を開けると、そこに立っていたのは杖をついた老齢の男だった。
「……ヴィクトル様、直接来られるとは」
フィリアの声が、珍しくうわずっていた。
白髪を後ろに撫でつけ、深い皺の刻まれた顔立ちに、鋭い眼光だけが年齢に似合わず鋭かった。羽織った外套には、宮廷魔導院の紋章が控えめに縫い付けられている。
「文で済ませるには、惜しい話だと思ってな。……この子が、噂の弟子か」
「アレンです」
俺が名乗ると、ヴィクトルの視線が、値踏みするように俺の頭からつま先までを一往復した。何かを確かめるような、それでいて結論を急がない目つきだった。杖を持つ手の甲には、長年の研究を物語るような、細かな薬品の染みがいくつも残っていた。
「フィリアが弟子を取るとはな。……珍しいこともあるものだ」
「珍しがられるのも、今更ですけどね」
フィリアが素っ気なく返す。二人の間には、長年の付き合いだけが持つ、遠慮のない間合いがあった。
居間に通す間、ヴィクトルの視線が、俺の外套の膨らみに一瞬だけ留まった。
「その中の気配、召喚獣か」
「はい」
「懐かないのが、召喚獣の性質か。それとも、その子だけの気性か」
思いがけない問いだった。フィリアが横から答えるより早く、ヴィクトルは興味を失ったように視線を外した。深追いする気はないらしい。それでも、何かを見透かされたような、落ち着かない感触だけが胸に残った。
杖をつく音を響かせながら、ヴィクトルは慣れた様子で居間の椅子に腰を下ろした。散らかった書物の山にも、一瞬たりとも眉をひそめなかった。この家に来るのが初めてではないのだろう、という気がした。
・・・
「あの金属片、預かってもいいか」
ヴィクトルは居間に通されるなり、単刀直入にそう切り出した。フィリアは一瞬だけ躊躇う素振りを見せたが、結局、布に包んだそれを差し出した。
老人の指先が、慎重に布を開く。表面の意匠に目を落とした瞬間、その眉間に深い皺が寄った。
「……やはりな」
「何か、心当たりが」
「これは、竜血族が"境界"を示すために使っていた印だ。集落そのものではなく、何か特別なものを守る場所に刻まれる意匠だと言われている」
「境界、ですか」
「ただの生活の跡地なら、こんな意匠は残らない。この村には、村人たちの暮らしとは別に、何か守るべきものがあった――そう考えるのが自然だろう」
その言葉に、フィリアの顔から血の気が引くのが分かった。
「先生が書き写した石碑の文様も、見せてもらえますか」
俺が持ちかけると、フィリアは無言で紙束を差し出した。ヴィクトルはそれを丁寧に広げ、しばらく無言で見比べていたが、やがて一枚の紙を指先で示した。
「この一角、境界紋の中でも、特に古い書式に近い。……本物なら、伝わっている記録の中でも、指折りの古さになるだろうな」
「古い、というのは、どれくらい」
「少なくとも、この国が今の形になるより前だ。竜血族が、まだ表立って力を振るっていた時代の代物、ということになる」
想像していたよりずっと遠い時代の話に、俺は思わず息を呑んだ。婆ちゃんの語ってくれた昔語りが、急に現実の重みを持って迫ってくる感覚があった。
「守るべきもの、というのは」
「そこまでは、この欠片一つでは分からん。ただ……お前が持ち帰った石碑の記録、あれと合わせて考えると、もう一段深い調査が要る。素人の手には余る」
・・・
「一つ、聞いてもよろしいですか」
俺は思い切って口を挟んだ。ヴィクトルの視線が、こちらに向く。
「あなたは、竜血族の記録に詳しいんですよね。……昔、この国で、分類できない力を持って生まれた人間について、記録に残っていたりしませんか」
フィリアが、はっとしたようにこちらを見た。踏み込みすぎたかもしれない、と思ったが、もう遅かった。
ヴィクトルは、しばらく黙って俺を見つめてから、静かに尋ね返した。
「……なぜ聞く」
「先生の姉さんも、そうだったと聞いているので。今回の廃村の件と、繋がってたりしないかなと」
正直に言ってしまってから、しまった、と思った。だが、もう取り消せない。
ヴィクトルの視線が、ゆっくりとフィリアへ移る。
「……十年前、お前が頭を下げに来た時と、同じ話か」
フィリアは、しばらく何も答えなかった。それから、絞り出すように、小さく頷いた。
「……そう、かもしれません」
ヴィクトルは、それ以上深く追及しなかった。ただ、杖を握る手に、一瞬だけ力がこもったのを、俺は見逃さなかった。
「昔の記録を、当たってみよう。約束はできんが」
「……お願いします」
フィリアが、深く頭を下げた。俺がこの二年で見た中で、一番深い辞儀だった。
・・・
「それと、もう一つ」
ヴィクトルは話を切り替えるように、杖の先で床を軽く叩いた。
「あの廃村への調査は、もう一度、正式な体制を組んで行う。フィリア、お前と、その弟子にも同行してもらいたい。……今回のような、個人の裁量任せの調査では、危険すぎる」
「石碑の一件、報告書に書いた通りです」
「読んだ。……よく無事に戻ったものだ」
その一言には、労いと同時に、隠しきれない懸念が滲んでいた。
「次は、いつ頃に」
「支度に、ひと月はかかるだろう。守り人がいるとすれば、生半可な備えでは近づけん」
「守り人、ですか」
「境界を示す印がある以上、それを守る何かがいても、おかしくはない。……あくまで、可能性の話だがな」
その言葉に、外套の中のヒスイが、久しぶりに小さく身じろぎするのを感じた。伝わってくる感覚はなかったが、その気配だけは、いつもより張り詰めていた。
・・・
ヴィクトルが帰った後、居間には長い沈黙が残った。フィリアは、しばらく窓の外を見つめたまま動かなかった。
「先生」
「……なに」
「勝手なこと聞いて、すみませんでした」
「いいのよ。……私にはまた聞くことはできなかった」
その声には、責める色は少しもなかった。むしろ、どこか安堵しているようにも聞こえた。
「ひと月後、ですね」
「ひと月後」
フィリアはそう繰り返すと、ようやくいつもの調子を取り戻したように、小さく伸びをした。
「それまでは、普通に修行の続きよ。腑抜けてる暇はないわ」
「厳しいですね、相変わらず」
「甘やかしたところで、姉さんは戻ってこないもの」
その一言は、いつもの軽口よりずっと重かった。それでも、フィリアの目には、これまでよりわずかに強い光が宿っている気がした。
・・・
翌日から、修行の日々は本当にいつも通りに戻った。重石を担いで走り込み、強化の維持時間を計り、座学で新しい頁を開く。ヴィクトルの来訪も、廃村での一件も、まるでなかったことのように、日課は淡々と積み重なっていく。
「先生、思ったより普通ですね」
「腑抜けてる暇はない、って言ったでしょう」
「言いましたけど、本当にその通りにするとは思いませんでした」
「あんた、私のことなめてない?」
軽口を叩き合いながらも、フィリアの指導は、以前よりわずかに厳しくなっていた。ひと月後の調査に向けて、できることを増やしておきたいのだろうということは、口に出されずとも伝わってきた。
鍛錬場では、久しぶりに顔を合わせたレイドが、開口一番に絡んできた。
「随分長く姿見せなかったな。逃げてたのか」
「遠出してました。詳しくは言えませんけど」
「なんだよ、それ。気になるだろ」
「気になっても、言えないものは言えないので」
「じゃあ、次の模擬戦で勝ったら教えろ」
「負けても教えません」
軽い言い合いの後、いつも通りの一戦を交わした。結果は、辛くも俺の勝ちだった。悔しがるレイドの顔を見ながら、こういう当たり前の日常が、今はひどく貴重なものに思えた。
「アレン、また会わない間に強くなった?」
見ていたミラが、興味深そうに割り込んでくる。相変わらずヒスイに手を伸ばしては、案の定するりと避けられていた。
「先生がひと月、みっちり鍛えてくれたので」
「ひと月って、遠出してたんじゃないの」
「移動中も、暇さえあれば鍛えられました」
半分本当で、半分は誤魔化しだった。ミラはそれ以上追及せず、興味を失ったように、また別の受験組の輪へと駆けていった。この気安さも、二年前と少しも変わっていない。
・・・
その夜、寝る前に机に向かいながら、俺はヴィクトルの言葉を、頭の中で何度も反芻していた。境界紋、守り人、竜血族。そんな言葉の連なりが、日々の修行の合間にも、ふとした瞬間に頭をよぎるようになっていた。
婆ちゃんが暖炉端で語ってくれた昔語りは、あくまで遠い伝承のはずだった。それが今、ヴィクトルという実在の人物の口から、記録という確かな形を伴って語られている。伝承と現実の境目が、少しずつ曖昧になっていく感覚があった。
外套から出て床に丸くなったヒスイは、いつもの寝息を立て始めていた。それでも、その体は、まだどこか強張っているように見えた。ひと月後、また同じ土地に足を踏み入れることを、こいつも分かっているのかもしれない。
窓の外、王都の夜はいつもと変わらず静かだった。それでも、この静けさの向こうに、ひと月後、また新しい何かが待っている。答えの出ない予感だけを抱えたまま、俺はランプの火を落とした。




