03 流れの旅人、丘の向こうへの憧れ
レイフ村は、四方を低い丘にぐるりと囲まれた、鍋の底のような土地だった。
村外れの丘には、ギードが時々連れていってくれた。畑仕事の合間、羊の様子を見に行くついでに、俺を肩車したまま丘の中腹まで登ってくれるのが常だった。
「今日はここまでだ」
丘の中腹、ちょうど村全体を見渡せるあたりまで来ると、ギードは決まってそう言って足を止めた。
「どうして、頂上まで行かないの」
「頂上まで登ったところで、大して変わらんさ。……それに、これ以上は、まだお前には早い」
理由になっているようで、なっていない答えだった。ギードの声には、どこかはぐらかすような響きが混じっていた気がしたが、それを問い詰めるだけの粘り強さは、四歳の俺にはまだなかった。
丘の中腹から見下ろすレイフ村は、思っていたよりずっと小さかった。木組みの家々、畑の畝、井戸の周りに集まる人影。そして、そのすべてを取り囲む、なだらかな丘の稜線。
俺はまだ知らない。
この丘の向こうには、なにがあるんだろう。
・・・
その旅人が村にやってきたのは、収穫を控えたある日のことだった。
「旅の魔法使いが来たぞ!」
村の外れから、そんな声が響き渡ったのは、俺が井戸端でギードの手伝いの真似事をしている時だった。声のした方を見ると、村人たちが一斉に、村の入り口へと駆けていくのが見えた。
「魔法使い?」
俺が首をかしげると、ギードが手を止めて笑った。
「流れの魔法使いだろう。年に一度か二度、こうして村を通りかかる。日用品を色々売ってくれる、ちょっとした行商人みたいなもんだ」
行商人と魔法使い、という組み合わせに、俺は素直に興味を惹かれた。この世界に生まれて四年、それらしい魔法を実際に目にしたことは、一度もなかった。祝福の儀式の時ですら、エルサの指先が触れただけで、目に見える現象は何も起きなかった。
「僕も見に行きたい」
「よし、じゃあ一緒に行くか」
ギードが肩車してくれて、大股で村の入り口へと歩き出した。
・・・
集まった人だかりの手前で、ギードは俺を地面に下ろした。人だかりの中心にいたのは、砂色の髪を無造作に後ろで束ねた、痩せた男だった。灰色の瞳は、どこか眠たげに細められている。背負った大きな荷袋からは、鍋やら布やら、様々な生活用品がのぞいていた。
「今年もよろしく頼むよ、ガイルさん」
村長らしき老人が声をかける。旅人――ガイルは、面倒くさそうに片手を上げて応えた。
「毎年言うことは変わらんよ。今年の品揃えは、あんまり期待しないでくれ」
気だるげな声だった。
村人たちが次々と荷を検分する中、ギードも一枚の手鏡を手に取って、あれこれと吟味し始めた。俺はその隣に立って、やり取りをじっと観察していた。
「この鏡、もう少し安くならないか」
「勘弁してくれ、これでも原価スレスレなんだ」
ギードとガイルのやり取りを聞いているうちに、前世で培った勘のようなものが、うずうずと疼き出した。この手の交渉には、多少の覚えがある。
覗き込んだ鏡面の隅に、細い傷が一筋走っているのが見えた。同時に、そこに映る自分の顔が、目に飛び込んできた。
こうしてまじまじと自分の顔を見るのは、初めてかもしれない。瞳は、両親のどちらにも似ていない、深い緑色をしていた。髪は父に似た焦げ茶色。まだ丸みの抜けきらない、四歳児らしい幼い顔立ち。
「でも、この鏡、ここに傷があるよ」
思わず口を挟むと、ギードが驚いた顔でこちらを見た。ガイルも、片眉を上げてこちらを見る。
「……坊主、目がいいな。どこに傷がある」
「隅の方、細い線が入ってる」
指をさすと、ガイルは面倒くさそうに鏡を持ち上げて確かめ、渋い顔で認めた。
「……まあ、確かに。坊主、将来は商人にでもなるつもりか」
大人たちがどっと笑う。得意げな気分になりかけて、俺はすぐに我に返った。四歳児が値切り交渉に口を出すこと自体が、そもそも異様な光景なのだと、笑い声を浴びて初めて気づいた。頬が、少しだけ熱くなった。
騒ぎが一段落したところで、ガイルは荷袋の脇に腰を下ろすと、指先で小さな火をひょいと灯した。焚き火の準備をするでもなく、ただ煙管に火をつけるためだけの、あまりに気軽な仕草だった。
その瞬間だけ、俺は瞬きも忘れて見入っていた。
――これが、魔法。
理屈も、詠唱も、大仰な身振りもない。ただ指先から、当たり前のように火が生まれた。
「坊主、そんなに珍しいか」
視線に気づいたガイルが、気だるそうな目をこちらに向けた。俺は正直に頷いた。
「はい。すごいと思って」
「まあ、この程度は誰でもできる火系統の初歩だ。大したもんじゃない」
ガイルはそう言って、煙管の煙をゆっくりと吐き出した。それから、ふと何かに気づいたように、俺の顔をわずかに覗き込んだ。
「……坊主、いくつだ」
「四歳」
「そうか」
ガイルはそれだけ言うと、興味を失ったように視線を逸らした。ほんの数秒のことだったが、俺は妙な居心地の悪さを覚えた。何かを確かめられて、そして、その答えに肩透かしを食らったような――そんな空気だった。
気のせいだと思いたかった。だが、この手の「気のせい」には、既に何度も覚えがあった。
・・・
その夜、ガイルは村長の家に一晩泊めてもらうことになったらしい。夕食の席で、ギードがぽつりと切り出した。
「アレン、大きくなったら、王都に行ってみたいか」
唐突な質問に、俺は口に運びかけたスプーンを止めた。
「王都?」
「ヴァイスハイムの王都だ。ここよりずっと大きくて、賑やかな街らしい。ガイルさんの話を聞いていたら、ふと思ってな」
リナが横から、少し困ったように笑う。
「あなた、気が早いわよ。アレンはまだ四歳なんだから」
「いや、まあ、そうなんだが」
ギードは頭をかきながら、それでも俺の答えを待つように、じっとこちらを見ていた。
「俺も、ガイルさんくらいの歳の頃は、村を出て王都を見てみたいと思ってたもんだ。結局、こうして畑を継いで終わったが」
ギードがぽつりと漏らした一言に、リナが少し驚いたように目を丸くした。
「初めて聞いたわ、そんな話」
「言う機会もなかったからな」
ギードは照れくさそうに鼻の頭をかいた。その横顔に、俺は少しだけ、前世の自分と重なるものを感じた。叶わなかった夢を、誰にも語らないまま抱え続けている――そういう生き方に、心当たりがありすぎるくらいあった。俺は少し考えてから、正直に答えることにした。
「……行ってみたい」
丘の向こうに何があるのか、まだ何も知らない。だが、知らないということ自体が、今の俺には、たまらなく気になることだった。前世では、決まった通勤経路の外に出ることすら億劫だった自分を思うと、我ながら現金なものだと思う。
ギードは、俺の答えに満足そうに頷いた。
「そうか。まあ、まだ随分先の話だがな」
「随分先、というほどでもないかもしれませんよ」
不意に割り込んできたのは、リナだった。その声には、いつもの穏やかさとは少し違う、真剣な響きが混じっていた。ギードと目を見合わせたリナの表情に、俺はまた、あの薪の一件の夜の空気を思い出した。
「……そうだな」
ギードは短くそう答えると、それ以上は何も言わなかった。夕食の席には、それきり、いつも通りの他愛のない会話が戻ってきた。
・・・
翌朝、ガイルは村を発っていった。
「世話になったな、坊主」
出発の直前、ガイルは俺の頭に軽く手を乗せて、そう言った。灰色の瞳が、一瞬だけ、真剣な色を帯びた気がした。
「またな」
それだけ言い残すと、ガイルは荷を担ぎ直し、丘へと続く道を、気だるげな足取りで歩いていった。
俺はリナの手を握ったまま、その背中が丘の稜線に消えるまで、ずっと見送っていた。
「もう見えなくなっちゃったね」
リナが、隣でぽつりと呟く。
「うん」
短くそう答えながら、俺は丘の向こうに広がっているはずの世界を、想像してみようとした。王都、ヴァイスハイム、この村よりずっと大きくて賑やかな街――言葉だけは知っていても、その景色は、まだ何一つ思い描けない。
それでも、その分からなさが、不思議と嫌ではなかった。今はただ、丘の向こうを知りたくてたまらない。




