02 崩れる薪、拭えない予感
二年という月日は、あっという間に過ぎていった。
首が据わり、寝返りを打ち、四つん這いで家中を這い回るようになり、やがてよちよちと二本の足で歩き出す。前世で培った理屈も分別も、この一つ一つの過程を少しも早めてはくれなかった。ひたすら、体の成長を待つしかない。そういう二年だった。
言葉も、少しずつ増えてきている。もっとも、頭の中でどれだけ複雑なことを考えていても、口から出てくるのは「まんま」だの「んー」だのという、あやふやな音の羅列でしかない。前世で培った語彙は、二歳児の舌と喉に阻まれて出てこない。もどかしさに任せて地団駄を踏んだことも、一度や二度ではなかった。
レイフ村の朝は、いつも同じ音から始まる。鶏の声、井戸端で水を汲む音、隣家の戸が軋む音。木組みの家の隙間から差し込む光の角度で、だいたいの時刻の見当がつくようにもなっていた。
「アレン、起きてる?」
母のリナが寝床を覗き込む。窓の外はまだ薄暗い。
答える代わりに、俺は布団の上でごろりと寝返りを打った。二歳児の体は、朝がとことん弱い。前世の几帳面さも、この眠気の前ではまるで役に立たなかった。
「もう、また二度寝?」
リナは笑いながら俺を抱き上げる。抱き上げられる感覚には、もうすっかり慣れていた。慣れて、少しだけ悔しい。前世では、誰かに抱え上げられるような真似、想像したこともなかったのに。
・・・
家の外では、父のギードがすでに薪割りを終えて、畑仕事の支度をしていた。耕す前に薪を割っておくのが、ここ最近の朝の日課らしい。俺はリナに抱かれたまま、庭先に積まれた薪の山を、なんとなく眺めるのが好きだった。
「今日も達者だな、アレン」
ギードが手を止めて振り返り、笑いかけてくる。今はまだ、その顔の意味を深く考えたりはしない。ただ、大きな背中と、規則正しく響く斧の音に、なんとなく安心するだけだった。
コン、コンという音が、朝の静けさの中に響く。積み上げられた薪の山は、二歳児の背丈からすると、見上げるほどに高かった。
「危ないから、あんまり近づかないようにね」
リナが俺を庭の隅に下ろしながら言う。頷いた……つもりだったが、二歳児の体は、頷いた通りには動いてくれない。気づけば、いつの間にか足は薪の山の方へ向いていた。
好奇心のせいだと言えば聞こえはいいが、正直に言えば、ただの落ち着きのなさだった。前世で培った分別があるくせに、体の欲求には勝てない。面白そうなものを見つけると、足が勝手に動き出す。頭で分かっていても、止められない。
我ながら、情けない話だった。
・・・
その日、隣家の女房――マーサが、味噌を借りにリナを訪ねてきた。二人が戸口で立ち話を始めた隙に、俺はいつもの調子で庭をよちよちと歩き回っていた。ギードは薪の山を組み直している最中で、俺には背を向けていた。
「マーサさんとこの鶏、また逃げ出したんですって?」
「まったく、あの鶏だけは言うことを聞かなくて」
大人二人の会話は、俺の耳をすり抜けていった。代わりに、俺の注意を引いたのは、薪の山の隙間から覗く、艶やかな木肌の色だった。ただそれだけの、他愛のない好奇心だった。
積み上げた薪の一部が、ぐらりと傾いだのは、本当に一瞬の出来事だった。
「――っ、アレン!」
ギードの声が裏返る。振り返った先で、俺は崩れてくる薪の真下に立っていた。逃げる、という判断すら、間に合わなかった。
考えるより先に、体の方が勝手に何かをした。……というより、反応らしい反応すら、なかったように思う。ただ、薪が崩れ落ちるその瞬間、俺を中心にした一角だけが、まるで何か目に見えないものに守られているかのように、薪をよけていった。
ごとん、ごとん、と乾いた音を立てながら、薪は俺を避けるように円を描いて転がり落ち、俺の体には一本たりとも触れなかった。
・・・
静寂が、やけに長く感じられた。
「……アレン」
ギードが斧を放り出して駆け寄ってくる。転がった薪をかき分けながら、俺を抱き上げる腕は、震えていた。全身を確かめるように、何度も何度も俺の体を撫で回す。
「怪我は……怪我は、ないな」
「アレン!」
騒ぎを聞きつけたリナとマーサも、戸口から飛び出してきた。リナは俺の顔を見た瞬間、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、震える腕で俺を抱きしめた。安堵の涙をこぼしながらも、俺を抱く腕からは、いつまでも力が抜けきらなかった。
マーサだけが、少し離れた場所で、転がった薪の山と俺を交互に見比べながら、何も言わずに立ち尽くしていた。その視線が、やけに長く俺の体に留まっていたのを、俺はどこか他人事のように眺めていた。
俺自身は、何が起きたのかを半分も理解できていなかった。ただ、薪が落ちてくる瞬間、恐怖よりも先に、妙に静かな確信のようなものがあった気がする。
――大丈夫だ。
そう思った直後には、もう薪は俺の周りに転がっていた。理屈も感覚も、何一つ伴わない確信だった。
・・・
マーサが帰った後、家の中には、しばらく重い沈黙が居座った。
夕食の席でも、ギードとリナは何度も目を見合わせては、言葉を飲み込むような素振りを繰り返していた。俺は俺で、二歳児らしく黙々と器の中のものをつつき、時折スプーンを床に落としてはリナに拾わせるという、我ながら大人げない振る舞いに終始した。空気の重さに気づかないふりをする方が、今は楽だった。
その夜、寝床に入ってからも、隣の部屋から途切れ途切れに聞こえてくる両親の話し声は、いつまでも止まなかった。
「……ただの偶然、ってわけでもなさそうだ」
ギードの低い声。
「薪が、あの子を避けたように転がってた。そんなこと、ある?」
リナの声は、震えを隠しきれていなかった。
「神殿の……あの時のことと、関係あるんだろうか」
その一言に、俺は寝床の中で、わずかに息を止めた。神殿での祝福の儀式――エルサの指先が、ほんの一瞬だけ震えていたこと。あの日感じた小さな引っかかりが、不意に大きさを増したような気がした。
「分からない。……分からないから、余計に」
「マーサさんに、口止めしといた方がいいかしら」
「……そうだな。今は、まだ」
会話は、そこで途切れた。両親のどちらかが、深く息を吐く音だけが、薄い壁の向こうから聞こえてきた。
・・・
俺は天井を見上げながら、掌をじっと開いたり閉じたりしてみた。何か特別なものが宿っている、というような実感は、どこにもない。ただの、二歳児の小さな掌があるだけだった。
それでも、薪が転がり落ちるあの一瞬だけは、確かに何かが働いていた。
前世でなら、こういう現象には、きっと理屈をつけたがっただろう。物理法則がどうとか、確率がどうとか、分かった気になって安心する材料を探しただろう。今の俺には、そんな理屈をこねる材料さえない。
ただ、両親の腕に抱きしめられた時の力強さと、それでも隠しきれなかった震えだけが、はっきりと体に残っていた。守られている、と同時に、何か得体の知れないものを恐れられてもいる。そのどちらもが、今の俺には、ひどく落ち着かないものだった。
眠気は、思いのほか早くやってきた。二歳児の体は、感情の混乱にも容赦なく眠りを要求してくる。抗う術もないまま、俺は今日もまた、拭いきれない小さな違和感を抱えたまま、眠りに落ちていった。
・・・
翌朝、目を開けると、覗き込んでくるリナの顔があった。
「おはよう、アレン。今日もいい天気よ」
昨夜のあの重い沈黙が嘘のように、いつもと変わらない、穏やかな声だった。窓の外は、本当によく晴れていた。
噓か本当か、俺にはまだ判断がつかない。それでも、その声を聞くと、なぜか安心して、もう一度目を閉じたくなるのだった。
昨日のことについて、両親は何も言わなかった。まるで何事もなかったかのように、朝食の支度が始まり、ギードはいつも通り畑へ出ていった。
けれど、俺を見るリナの目の端に、これまでにはなかった小さな影が差していることに、俺は気づいていた。それが心配なのか、恐れなのか、あるいはその両方なのか――幼い頭では、答えの出ない問いだった。




