01 最後の残業、最初の産声
初めまして。異世界に転生した元社畜が、今度は自分のために生きようとする物語です。
じんわり温かい雰囲気を目指しています。気に入っていただけたら嬉しいです。
更新は基本1日1話ペースで進めていく予定です。よろしくお願いします
蛍光灯の光が、やけに白く感じられた夜だった。
時刻は、たしか午前二時を回った頃。オフィスに残っているのは俺一人で、キーボードを叩く音だけが、妙に大きく響いていた。ここ二週間、まともに眠った記憶がない。胃の奥がずっと重くて、たまに視界の端がちかちかと光ることがあったが、明日の会議資料さえ終わらせれば休める、そう思って騙し騙し椅子に座り続けていた。
誰かに助けを求めればよかったのだろう。上司に「手が回らない」と一言、頭を下げればよかったのだろう。だが俺は、そういう頼み方を知らない性分だった。弱音を吐くくらいなら、黙って倒れる方がまだましだと、どこかで本気で思っていた。もっとも、それが大した美学でもなかったことくらい、今の俺には分かる。
資料の最後の一行を打ち終えた瞬間、視界がすとんと暗くなった。痛みはなかった。ただ、椅子から崩れ落ちる感覚だけが、やけにゆっくりと流れていくのを覚えている。
――ああ、これは駄目なやつだ。
他人事のように、そう思った。走馬灯というものが流れるのかと少し期待していたが、実際に頭をよぎったのは、来月払われるはずだった残業代の金額だった。誰も計算してくれないし、誰も払ってくれない。そんな当たり前のことに今さら思い至って、俺は少しだけおかしくなった。ろくでもない人生の締めくくりとしては、悪くない気もした。
意識が途切れる直前、最後に浮かんだのは、後悔でも恐怖でもなく、ただの静かな諦めだった。
・・・
次に感じたのは、圧倒的な暗闇と、水の中にいるような重たい浮遊感だった。
音が、ひどく遠い。誰かの心臓の音だろうか、規則正しい低い響きが、四方から包み込んでくる。手足を動かそうとしても、思うようにいかない。指の一本一本が、自分のものとは思えないほど頼りなかった。
――これは、まさか。
考えがまとまるより先に、体が勝手に押し出される感覚があった。狭い場所を無理やり通り抜けるような圧迫感、そして次の瞬間、耳をつんざくような光と冷たい空気が、全身を叩いた。
「――っ、ふぎゃあああっ!」
自分の口から出た声だとは、しばらく信じられなかった。情けないほど甲高い、赤ん坊の泣き声だった。
「元気な男の子だよ、ギード!」
弾んだ声を上げたのは、取り上げ役の産婆――たしかサラ、と呼ばれていた女性だった。手際よく俺の体を布でくるみながら、安心したように息をついている。
「ああ……ああ、本当に。よくやった、リナ」
続いて聞こえたのは、低く掠れた男の声だった。何かに耐えるように震えていて、それが喜びの震えなのだと理解するまでに、少し時間がかかった。
視界は、まだひどくぼやけていた。それでも、覗き込んでくる二つの顔の輪郭くらいは、かろうじて捉えることができた。
一人は、日に焼けた浅黒い肌の男。短く刈った焦げ茶色の髪に、垂れ気味の目元。無骨な顔立ちのくせに、今にも泣き出しそうなほど表情が崩れているのが、妙にちぐはぐで、少しおかしかった。
もう一人は、線の細い女性。長い黒髪が汗で額に張りついていて、疲れ果てているはずなのに、その顔には隠しきれない喜びがにじんでいた。飾り気のない、けれど見ているこちらが安心するような顔立ちだった。
――俺は、どうやら赤ん坊として生まれ直したらしい。
状況を理解した瞬間、真っ先に浮かんだのは、恐怖でも混乱でもなく、乾いた実感のなさだった。三十四年生きた人間の意識が、生まれたばかりの体に押し込まれている。そんな、安っぽい小説の導入みたいな出来事が、よりにもよって自分の身に起きている。信じろという方が無理な話だった。
だが、腕の中で自分を抱く二人の重みと体温だけは、疑いようもなく確かなものだった。
「名前は、決めてるのか」
男が問うと、女性は少し考えるように目を細めた。
「アレン。……アレンにしましょう」
「アレン、か。いい名だ」
そうして俺は、アレンという名前をもらった。前世の名前は、もう思い出せない。いや、正確には、思い出そうとする気力が湧かなかった。それよりも今は、自分の指すら満足に動かせないこの体を、どうにか把握することの方が先決だった。
サラは最後にもう一度、俺の顔を覗き込んで笑った。
「よく泣く子だね。……この村じゃ、それが一番の証拠さ。丈夫に育つよ」
そう言い残して、産婆は夜の中へ帰っていった。窓の外は、まだ真っ暗だった。
・・・
数日が経つと、視界も耳も、少しずつはっきりしてきた。自分の体が、思っていた以上に不自由だということを、俺はその数日で嫌というほど思い知らされた。首も据わらず、寝返りひとつ打てず、腹が減れば泣くしか意思を伝える術がない。前世で積み上げてきた理屈は、この体の前ではほとんど役に立たなかった。
家は、木組みの小さな平屋だった。窓の外に広がるのは、なだらかな丘と、区切られた畑。ここは、メルダーン王国の外れにある、レイフ村という土地らしい。父と母の会話の端々から、そう理解するまでに数日かかった。
父――ギードは、畑仕事から戻るたびに、真っ先に俺の寝床を覗き込んだ。土と汗の匂いを纏ったまま、太い指先でそっと俺の頬をつつく。
「今日も達者だな、アレン」
その一言のためだけに、一日の疲れを忘れているような顔をしていた。
その一言のためだけに、一日の疲れを忘れているような顔をしていた。
――まずい。他人の顔色ひとつに、こんなに簡単に安心させられている自分がいる。
前世では、誰かに頼られることはあっても、自分から頼ったことなど数えるほどしかなかった。弱みを見せるくらいなら、一人で抱え込む方が性に合っていたはずだ。それが、たった一つの不器用な笑い方に、赤ん坊の分別もなく絆されかけている。生まれてまだ数日の赤ん坊が、渋い顔で何を分析しているんだ。我ながら滑稽だった。
母のリナは、俺を抱く時間が誰よりも長かった。前世の記憶がある分、赤ん坊らしい甘え方が分からず、俺はどちらかというと大人しい部類の子供だったと思う。それでもリナは、俺が目を開けるたびに、飽きもせず同じ言葉をかけてくれた。
「おはよう、アレン。今日もいい天気よ」
窓の外が曇っていても、リナはいつも同じ調子でそう言った。噓か本当か、俺には判断がつかなかったが、その声を聞くと、なぜか安心して眠気が戻ってくるのだった。
・・・
生まれて数日後、村の神殿で、簡単な祝福の儀式が行われた。この村――レイフ村では、生まれた子供に神官が魔力の流れを診て、簡単な祝福を授けるのが習わしらしい。父に抱かれたまま連れていかれた神殿は、古びてはいるが、掃除の行き届いた清潔な建物だった。石造りの壁には、蔦のような文様が彫り込まれていて、前世で言うところの田舎の小さな教会を思わせた。
出迎えてくれたのは、白髪交じりの初老の女性だった。名を、エルサ神官という。深い皺の刻まれた顔に、穏やかな笑みを浮かべていた。
「この子が、噂のアレン坊やですね」
エルサは俺の額に指先を当て、目を閉じてしばらく集中していたが、途中でふと、その指先が止まった。指先が、微かに震えていた。
「……どうかされましたか」
母が、不安げに尋ねる。エルサはすぐに目を開け、いつもの穏やかな表情に戻った。指の震えなど、最初からなかったかのように。
「いえ。少し、珍しい流れをしているだけです。心配はいりません」
「珍しい、とは」
「うまく言葉にできないのですが……色が、視えないんです。生まれたばかりの赤ん坊は、たまにこういうこともあります。魔力がまだ定まっていないだけでしょう」
父と母は、顔を見合わせた。エルサはそれ以上深く追及することなく、いつも通りの祝福の言葉を唱えて儀式を締めくくった。両親も、幼子の些細な個性程度にしか受け取らなかったようで、帰り道では俺の名を呼びながら、これからの暮らしを楽しげに話していた。
・・・
その夜、母に抱かれながら、俺はぼんやりと天井を見上げていた。木組みの梁と、そこから吊るされた干し草の束。前世で見慣れた白い天井とは、何もかもが違う。
もう戻れないのだろう、という実感が、今さらのように胸に落ちてきた。悲しいかと聞かれれば、正直よく分からない。ただ、あの生活に未練がなかったと言えば嘘になるし、かといって取り戻したいとも思わない。中途半端な気持ちのまま、俺はこの新しい人生を受け入れるしかなさそうだった。
「アレン。おやすみ」
母の声に、俺は言葉にならない声で応えた。腕の中の温もりは、思っていたよりずっと心地よかった。
隣の部屋から、父が薪を割る音が、コン、コンと途切れ途切れに聞こえてくる。前世では気にも留めなかったであろう、そんな些細な生活音が、なぜか今は妙に心地よく耳に残った。
まどろみの中、ふいに昼間の神殿での光景が蘇った。「珍しい流れをしているだけです」と、いつもの穏やかな声で言ったエルサ。だが、あの一瞬――額に触れた指先は、たしかに震えていた。
大したことではないのかもしれない。両親も、気にした様子はなかった。それでも、あの微かな震えだけが、眠りに沈んでいく意識の隅に、小さな棘のように引っかかったまま消えてくれなかった。
俺はまだ何も知らない赤ん坊のまま、拭いきれない小さな違和感だけを抱えて、静かな眠りに落ちていった。
第1話、最後まで読んでいただきありがとうございます。
アレンの物語は、この後もレイフ村での幼少期を中心に、ゆっくりと進んでいきます。
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それでは、次話でまたお会いできれば。




