22 積み重ねる日々、聞こえてきた声
時の流れは早いもので、フィリアの弟子になってから二年、俺は九歳になっていた。歴史書の頁数に音を上げていた日々も、今ではすっかり遠い記憶だった。
「今の"強化"、維持できた時間、計ってみましょうか」
フィリアの指示に頷き、両腕に意識を集中させる。以前は数秒と保たなかった強化の効果が、今では危なげなく十分近く安定するようになっていた。
「悪くないわね。……本当に、二年でここまで伸びるとは思わなかった」
「毎日の走り込みのおかげだと思います」
「素直に私のおかげって言えばいいのに、そういうところ、意地っ張りよね」
「否定はしません」
フィリアは面倒くさそうに手を振ったが、口元は緩んでいた。この人は、褒められることに、いまだに慣れていないらしい。
七歳の頃には、発動させるだけで精一杯だった強化の効果が、今では手足の先まで、迷いなく行き渡るようになっている。鏡に映る自分の背丈も、この二年で村にいた頃とは比べ物にならないほど伸びていた。それでも、フィリアの背には、まだ半分ほどしか届かない。
服も、この二年で三度は買い替えている。最初は袖を余らせて着ていた上着が、今ではぴったりと収まるようになっていた。成長というものを、こんなに具体的な形で実感する日が来るとは、前世では想像もしていなかった。
・・・
彼女の家に来た頃には想像もしなかった量の魔法理論書を、俺はいつの間にか読み終えていた。前世の"やれと言われたらやる癖"だけは、こういう時に役立つらしい。それでも、理論だけでは説明のつかない部分――手の中で魔力の流れを保ち続ける感覚は、結局、地道な繰り返しでしか身につかなかった。
「頭で分かってるのと、体で分かってるのは、別物だからね」
フィリアの口癖の一つだった。最初はただの精神論だと思っていたが、二年かけて、その意味を体で理解できるようになっていた。
読み終えた歴史書の中には、竜血族の滅亡にまつわる記述も、断片的にいくつか出てきた。どの本も、はっきりとした結論までは書いておらず、「滅ぼされた」とも「自ら姿を消した」とも取れる、曖昧な書き方で締めくくられていた。フィリアの姉セレナのことを思い出さずにはいられなかった。分類できない者が、最後にはこの国から姿を消す――その構図だけは、時代が変わっても、どこか変わらず繰り返されている気がした。
・・・
ヒスイは相変わらず、あの小さな四足の姿のまま、俺の膝や肩を定位置にしている。二年経っても、出会った日の姿と何一つ変わらない。
その代わり、ここ最近、新しい変化があった。
ある晩、書き物机に向かっていると、頭の中に、声とも呼べない何かが、ふっと浮かんだ。
――ねむい。
言葉というより、感覚に近い何かだった。それでも、意味だけは不思議とはっきり伝わってきた。顔を上げると、ヒスイが机の端から、じっとこちらを見ていた。
「……今の、お前か」
返事の代わりに、もう一度同じ感覚が伝わってくる。――ねむい。今度は、さっきよりも少しだけ、はっきりしていた。
「先に寝ててよかったのに」
伝わるかどうか半信半疑のまま話しかけると、ヒスイは短く一声鳴いて、机から飛び降り、寝台の方へと歩いていった。
その夜以来、ヒスイの感覚が伝わってくる回数は、少しずつ増えていった。腹が減った時、外を歩きたい時、単に構ってほしいだけの時。言葉と呼ぶにはあまりに素朴な、それでいて誤解しようのない感覚の断片が、ふとした瞬間に頭の中に滑り込んでくる。
翌日、フィリアにその話をすると、珍しく驚いた顔をされた。
「念話ね。……あんたたち、思ってたより早く辿り着いたのね」
「これも、修行の成果ってことですか」
「さあ。こういうのは、修行でどうにかなる類のものじゃない気がするけど」
はぐらかすような言い方だったが、その横顔は、どこか感慨深そうにも見えた。
フィリアはそう言うと、興味深そうにヒスイの様子を観察し始めた。研究者としての顔が、少しだけ覗いている。
「懐いてる相手にだけ、少しずつ心を開いていくものなのかもね。あんたたちの場合、そこはとっくに済んでたみたいだけど」
その一言に、俺は何と返せばいいか分からず、黙って膝の上のヒスイを撫でた。ヒスイは気持ちよさそうに、ただ目を細めるだけだった。
・・・
「アレン、そろそろお腹周りの心配をした方がいいんじゃない」
夕食の席で、フィリアが唐突にそう言った。
「急に何の話ですか」
「あんたじゃなくて、そっちの話」
視線の先には、俺の膝で丸くなったヒスイがいた。
「召喚獣のお腹周りを気にする発想、俺にはなかったです」
「気のせいかもしれないけど、心なしか丸みが増してる気がするのよね」
「俺には、いつもと同じに見えますけど」
こういう、何の生産性もないやり取りが、いつの間にか二人の間で当たり前になっていた。難しい魔法理論を語る顔と、くだらない軽口を叩く顔。同じ人間なのに、こんなに違う表情を持っているとは、出会った頃は想像もしていなかった。
・・・
鍛錬場では、ミラとも顔を合わせる機会が続いていた。彼女は最近、水系統の扱いにめきめきと腕を上げているらしく、会うたびに新しい技を得意げに見せびらかしてくる。
「見て見て、これ。先生にもまだ半分しか教わってないんだから」
「器用ですね、相変わらず」
「でしょ? ……ねえ、それより、今日こそヒスイ触らせてくれない?」
期待に満ちた目を向けられたが、ヒスイは案の定、興味なさそうにそっぽを向いた。ミラが分かりやすく肩を落とすのを見て、俺はいつも通り、少しだけ申し訳ない気持ちになる。二年経っても、この光景だけは変わらなかった。
・・・
買い出しの道すがら、市場に立ち寄ることも増えた。グレタのパン屋は相変わらず繁盛していて、顔を出すたびに焼き立てを一つ持たされる。ノアムの露店も、あの一件以来、時折覗くようになっていた。
「また来たのか、坊主」
「坊主って歳でもないと思うんですが」
「背は伸びたが、まだ坊主だろう」
素っ気ない返しに、俺は思わず笑ってしまう。ノアムの周りだけ空気の密度が違う、というあの感覚は、二年前と少しも変わっていなかった。それでも、彼と言葉を交わす人の数が、ほんの少しずつ増えているようにも見えた。大多数がそうしている、という現実そのものは、まだ大きくは動いていない。それでも、変わらないものの中にも、小さな変化は確かに紛れ込んでいるらしかった。
・・・
夜、机に向かってノエルへの返事をしたためる。この二年で、彼女とのやり取りはすっかり生活の一部になっていた。彼女の直近の手紙には、「剣術の師範代に一本取った」という得意げな一文があった。字面からでも興奮が伝わってくるような、勢いのある筆跡だった。負けていられない、と思う自分がいることに、俺は密かに苦笑した。
こちらの近況は、修行の進み具合と、ヒスイの近況を中心に綴った。念話のことも書こうか迷ったが、うまく言葉にできる自信がなくて、結局その部分だけ書きかけて消した。会って直接話す時のために取っておく、というのも、悪くない理由に思えた。
レイドからの手紙も、相変わらず不定期に届いていた。文面はいつも短く、そっけない。それでも、行間から滲む負けん気の強さだけは、二年前と少しも変わっていなかった。彼の攻撃魔法の腕も、俺の知らないところで、確実に鋭さを増しているらしい。
『今度こそ、絶対に勝つ。首を洗って待ってろ』
たったそれだけの一文に、俺は思わず笑ってしまった。返事には、「首は洗っておくので、腕の方も磨いておいてください」とだけ書いて送り返した。
この二年の間に、鍛錬場での再戦は、既に何度か実現していた。最初の一勝は、俺の側に転がり込んだ。だが二度目、三度目と重ねるうちに、レイドの成長速度は、俺の予想を軽々と超えてきた。特に印象に残っているのは、一年ほど前の再戦で、あと一歩まで追い詰められた一戦だった。とっさに繰り出した強化の力が、間一髪でレイドの一撃を受け止めた瞬間、観客に回っていたミラたちが大きく沸いたのを、今でもよく覚えている。今では、勝敗はほぼ五分。互いに一歩も譲らない攻防が続くようになっていて、それが単純に、悔しいと同時に楽しかった。
「あんたたち、いい加減、けじめをつける気はないの」
観戦していたフィリアに呆れられたこともある。だが、けじめをつけるつもりなど、俺にもレイドにも、最初からなかった。決着をつけてしまえば、この関係も終わってしまう気がしたからだ。試合の後、二人でぐったりと座り込みながら「次はもっと本気出す」と言い合うのが、いつの間にか決まった締めくくりになっていた。
・・・
こうして積み重なっていく日々は、地味で目立たない代わりに、噓のない重みを持っていた。前世の三十四年間、俺は何かを積み上げているつもりで、実際には他人の評価という、いつ崩れるとも知れない足場の上に立っていただけだったのかもしれない。今はもう、そんな不安定さとは無縁だった。積んだ分だけ、確かに自分の内側に残っていく。
その違いに、ちゃんと言葉を与えられるようになったのは、つい最近のことだった。
「次、これも頭に入れておきなさい」
新しい課題を差し出されて、俺は思わず唸った。
「今日はもう十分やった気がするんですが」
「まだ足りないから渡してるのよ」
「休憩という概念、先生の辞書にはないんですか」
「あるわよ。私の気が向いた時だけね」
フィリアの理不尽な師弟関係は、二年経っても少しも変わらなかった。それでも、その理不尽さを、俺はもう、嫌だとは思っていなかった。
膝の上で、ヒスイが小さく身じろぎした。――ねむい、という感覚が、また静かに伝わってくる。
「もう少しだけ、待っててくれ」
声には出さず、心の中でそう返してみる。届いたかどうかは分からなかったが、ヒスイは薄く目を開けてこちらを一瞬だけ見ると、また静かに閉じた。それだけで、十分な返事のような気がした。
残された猶予は、あと一年。数字だけを見れば、随分と減ったものだと思う。それでも、焦りよりも、この二年で積み上げてきたものへの確かな手応えの方が、今は勝っていた。
窓の外、王都の夜は、出会った頃と変わらず静かだった。だが、その静けさの向こうに広がる景色は、二年前とはもう違って見えた。丘の向こうに何があるかも知らないまま村を出た七歳の自分と、今こうして机に向かっている自分との間には、確かな成長があった。次の一年で、そこからどこまで積み上げられるのか。まだ何も分からないが、悪くない予感だけはあった。




