21 正式な弟子入り、三年後への一歩
鍛錬場での一件から数日後のことだった。あの日以来、フィリアの課す訓練の密度が、心なしか上がっていた。重石の重量が増え、走り込む距離も倍近くになっている。文句を言う暇もないほど忙しい日々の中、レイドから「次はいつだ、逃げてんじゃねえぞ」と急かす手紙が一通届いたが、返事を書く時間すら惜しくて、そのまま机の隅に置きっぱなしにしてあった。
夕食を終えたところで、フィリアが妙に改まった顔で俺を机の前に座らせた。窓の外はとっぷりと日が暮れ、暖炉の火だけが部屋を橙色に照らしている。皿を片付ける手を止めさせられたことに、まず違和感を覚えた。
「アレン。話がある」
「怒られる話ですか」
「なんでそう思うのよ」
「先生が改まる時、大抵ろくでもない話だった記憶しかないので」
「否定できないのが悔しいわね」
フィリアは小さく咳払いをすると、椅子に座り直した。いつもの気だるげな空気が、心なしか薄れている。
「最初に言った通り、私はあなたを研究対象として引き受けた。居候として面倒を見る、とも言った。……でも、そろそろ、どっちの言い方も、実態に合わなくなってきたと思うの」
「というと?」
「鍛錬場での、あんたの様子を見て決めたの。あの場にいた大人たちの反応、見たでしょう。あそこまでの反応を引き出しておいて、これ以上『ただの居候』で通すのは、無理があるって」
「先生の指導のおかげです」
「調子いいこと言うのね。……まあ、悪い気はしないけど」
フィリアは、そう言って一度言葉を切ると、続けた。
「正式に、私の弟子として、これからもあなたを鍛えるわ。異論はある?」
「ないです」
即答すると、フィリアは呆れたように、それでも満足そうに笑った。
「返事が早すぎるのよ。少しは迷う素振りくらい見せなさい」
「迷う理由がないので」
「そういうところ、将来おかしな相手に言いくるめられそうで、心配なのよね」
「今まさに、先生がそのおかしな相手をやってる気がしますけど」
フィリアは、それを聞いて一瞬固まった後、机を軽く叩いた。
「生意気」
「否定はしません」
そのやり取りに、俺は思わず笑ってしまった。この数ヶ月で、俺たちの間には、こういう軽い言い合いが当たり前になっていた。
・・・
「弟子は取らない、が先生の方針だったはずですけど」
「そうよ。だから、これは私にとっても、結構な方針転換なの」
フィリアは、それだけ言うと、外套の裾を軽く弄んだ。誤魔化す時の癖だと、いつの間にか俺は気づくようになっていた。
「なんで、方針を曲げてまで」
「……さあ。強いて言うなら、あんたが、思っていたより手のかかる拾いものだったから、かしらね」
はぐらかしているようで、はぐらかしていない言い方だった。この人は、いつもこうだ。素直に「大事に思ってる」とは、絶対に言わない。それでも、行動の端々に、その言葉より確かなものが滲んでいる。
「光栄です」
「皮肉のつもりで言ったのに、真に受けるのね、あんた」
「先生の皮肉、大体本音混じりなので」
「……鋭いところだけ、無駄に育つんだから」
フィリアは、そっぽを向きながらそう漏らした。耳の先が、心なしか赤らんで見えたのは、暖炉の火のせいということにしておいた。指摘したところで、素直に認めるような人ではないと、この数ヶ月でよく分かっている。
・・・
「これからは、もっと本格的にやるわよ」
フィリアは、いつもの調子に戻って続けた。
「体を動かすだけの修行はもう卒業。明日から、座学も始めるわ。歴史、系統論、それから、この国の成り立ち」
「座学、ですか」
「意外そうな顔ね。魔法使いが体力任せだけでやっていける時代は、とうの昔に終わってるの」
正直、少し面食らった。これまでの日々が、重石を運び、水瓶を抱えて走る、そういう肉体労働的な修行ばかりだったから、机に向かう時間が増えることを、どこかで想像していなかった。体を動かす方がまだ性に合っている、というのが本音だったが、口に出せば余計な仕事を増やされそうな気がして、黙っておくことにした。
フィリアは席を立つと、棚の奥から分厚い本を一冊引っ張り出してきた。表紙には、うっすらと埃が積もっている。
「これ、いつから開いてないんですか」
「知らないわよ、そんなの。開く前に埃を払わなかった私が悪いっていうの?」
「悪いとは言ってません」
「顔がそう言ってる」
軽口を叩きながらも、フィリアはその本を丁寧に払い、机の上に置いた。表紙には『メルダーン王国略史』という、あまり面白みのない題名が刻まれていた。
「本格的に読むのは明日からだけど、さわりだけ」
フィリアはぱらぱらと頁をめくり、ある一節で手を止めた。
「この国の成り立ちは、竜血族という一族が治めていた土地を、人間たちが少しずつ引き継いでいった歴史から始まる。……あんたが前に少し話してた、婆さんの昔話。あれの元ネタは、大体この本に書いてあることと重なるはずよ」
竜血族、という単語に、俺は思わず本を覗き込んだ。ノーラが暖炉の前で語ってくれた昔語りと、目の前の無機質な活字が、少しずつ像を結んでいく感覚があった。もっとも、活字で書かれているのは、あくまで公式に伝わる歴史の表面だけらしい。婆ちゃんが語ってくれた、竜血族の血を密かに引く者がいるという噂までは、少なくとも、今フィリアが見せてくれた一節には記されていなかった。
「明日は、ここから読んでもらうから。今夜のうちに、頁の順番くらいは覚えておきなさい」
「予習させる気満々じゃないですか」
「弟子なんだから、当然でしょう」
フィリアは、悪びれもせずそう言い切った。
膝の上に乗ってきたヒスイが、開かれた本の頁に興味を示すように鼻先を近づけ、すぐに興味を失ったように顔を背けた。
「ヒスイは、座学に興味ないみたいですね」
「賢いじゃない。人間の書物になんて興味を持たない方が、よっぽど健全よ」
「先生がそれ言います?」
「私は仕事だからやってるだけ」
開き直った物言いに、俺は思わず笑ってしまった。
「三年後には学園受験、って前に言ったでしょう。あれ、思いつきで言ったわけじゃないの。今日から正式に、そこを目標に据える」
「三年後、王立学園、この国で一番の魔法学校」
「復唱しなくていいから」
「先生が急に真面目な話をするから、こっちも身構えるんです」
軽口を返しながらも、腹の底では、じわりと実感が広がっていた。曖昧な将来の話だったものが、今日を境に、はっきりとした期限のついた目標に変わった。前世で漠然と抱いていた「いつか」という言葉とは、重みがまるで違った。
「学園に入ったら、俺の力を隠すのは、もっと難しくなりますよね」
「そうね。あそこは、王国中から集まった魔法使いの卵が、毎日互いを観察し合う場所だもの。ごまかしが利く相手ばかりじゃない。寮生活も含めて、四六時中誰かの目があると思っていい」
寮生活、という一言に、俺は思わず身構えた。フィリアと二人きりの生活にすっかり慣れた今、四六時中誰かに見られる暮らしを想像すると、それだけで気が重くなった。膝の上のヒスイを見下ろす。こいつのことも、そこでは今のようには隠しておけないかもしれない。
フィリアの声に、初めて隠しきれない緊張のようなものが混じった。
「学園の入試って、その場で系統鑑定もされるんですよね。俺の結果、多分また空白のままだと思うんですけど……それで大丈夫なんですか」
「普通なら、まず無理でしょうね。空白の結果一つで、その場で不合格にされてもおかしくない」
「じゃあ」
「だから、そこは私がなんとかする。伝手はあるの、これでも」
自信ありげな口ぶりだったが、具体的に何をどうするつもりなのかまでは、教えてくれなかった。踏み込んで聞こうとしたが、それ以上は触れるなという空気をフィリアの表情から感じ取り、俺は素直に口を噤んだ。
その場で不合格にされる、という想像に、市場で見たノアムの姿がふと重なった。分類できない、名前の付けようがない、それだけで扉の前で弾かれる側に回る。系統も、種族も、違う話のはずなのに、仕組みとしてはどこか似ている気がした。
「それでも、目指すんですか」
「隠しきれなくなった時のことも、その時が来たらちゃんと一緒に考える。あなたは、一人でそれを背負う必要はないの」
その言葉に、俺は素直に頷いた。前世では、抱えている仕事の重さを誰かに分けてもらう、という発想自体がなかった気がする。弱音を吐けば評価が下がる、そういう空気の中で、一人で抱え込むことを美徳だと勘違いしていた。今世でも、誰かに「一人で背負わなくていい」と言われたことは、数えるほどしかなかった。この王都に来てから、その数えるほどの一言が、確実に増えている。
・・・
「先生」
「なに」
「弟子入りの台詞、もう少し重々しくてもよかった気がします」
「重々しく言ったら、あんた真顔で吹き出しそうじゃない」
「吹き出さないです」
「絶対吹き出す」
「……まあ、可能性はゼロではないです」
「素直でよろしい」
そんな他愛のない押し問答をしながら、俺は、この師弟関係が、案外悪くないものだと、改めて実感していた。研究対象、居候、拾いもの、そして今度は弟子。呼び方は目まぐるしく変わってきたが、その一つ一つに、フィリアなりの不器用な誠実さが積み重なっている気がした。
考えてみれば、「弟子」という言葉には、これまでの呼び方にはなかった重みがある。研究対象や居候は、いつでも関係を解消できる、緩やかな繋がりだった。だが弟子と師匠は、もっと踏み込んだ、簡単には解消できない意味を持つ言葉のはずだった。フィリアがその重さを分かっていて、あえてこの言葉を選んだのだとしたら、皮肉屋の師匠にしては、ずいぶん思い切った選択だった。
外套の中で丸くなっていたヒスイが、話が一段落したのを見計らったように、俺の膝に頭を擦りつけてきた。祝福のつもりなのか、単に構ってほしいだけなのか、いつも通り判断はつかなかったが、その温かさだけは確かだった。
・・・
その夜、寝台に入ってからも、しばらく目が冴えていた。
弟子、という一語が、思っていたよりずっしりと胸に残っていた。居候という立場のまま何となく続いてきた日々に、初めてはっきりとした輪郭が与えられた気がする。同時に、寮生活・座学・鑑定結果の壁と、新しく積み上がった課題の多さに、少しだけめまいのようなものも覚えていた。それでも、不思議と嫌な感覚ではなかった。
三年後。数字にすれば、たったそれだけの隔たりだった。だが、その先に何が待っているのか、今の俺にはまだ何も見えていない。竜血族の伝承、フィリアの姉セレナのこと、そして、俺自身のこの力の正体。答えの出ていない謎は、数えるほどにまだ多い。
それでも、と思う。レイフ村での日々が、今の自分の土台を作った。そして今、この王都でフィリアと積み重ねている日々が、次の土台になっていく。焦る必要はない。ただ、目の前の一歩を、一つずつ積み重ねていけばいい。
今度レイドやミラに会った時、なんと名乗ればいいのだろう。居候でも拾いものでもなく、正式な弟子。その響きに、まだ自分でも慣れていなかった。口に出して誰かに言う場面を想像すると、少しだけ気恥ずかしくもあった。それでも、慣れていないなりに、悪くない響きだとも思う自分がいた。
窓の外、王都の夜空には、村では見たことのないほど多くの明かりが灯っていた。その中のどれか一つが、いつか自分の通うことになる学園のものかもしれない。そう思うと、まだ見ぬ場所への漠然とした不安の中に、ほんの少しだけ、楽しみのようなものが混ざっているのに気づいた。
机の隅に置きっぱなしだったレイドの手紙が、ふと目に留まった。返事もろくに書かず放っておいたことを、今更ながら申し訳なく思う。明日にでも、一言だけでも書いておこうと決めて、俺はようやく瞼を閉じた。




