20 鍛錬場のライバル、抑えきれない意地
フィリアの家で暮らし始めて、季節が一つ変わるほどの月日が過ぎた。
居候生活にもすっかり慣れ、フィリアの言いつけで一人で外を出歩くことも、もう珍しくなくなっていた。ヒスイは相変わらず、俺以外には興味を示さず、フィリアが差し出す餌にも、未だに見向きもしない徹底ぶりで、こちらが呆れるほどだった。
この数ヶ月、フィリアからは基礎体力づくりと"強化"の初歩ばかりを叩き込まれていた。重石を抱えて走り込む、満杯の水瓶を両手に運ぶ、そんな地味な反復練習の連続に、正直何度も音を上げかけた。「地味なことすら我慢できないようじゃ、系統がどうこう以前の問題よ」と一蹴されては、渋々また同じ作業に戻る、その繰り返しだった。それでも、日々の中でふと、前より疲れにくくなっている自分に気づく瞬間があった。積み重ねというのは、案外こういう地味な形でしか姿を現さないものらしい。
一度など、あまりの単調さに音を上げて「意味あるんですか、これ」と食ってかかったこともある。フィリアは涼しい顔で「意味を疑う元気があるなら、まだ足りてない証拠ね」と言い放ち、追加で一往復させられた。あの時ばかりは、本気で師匠を恨んだ。
そんなある朝、朝食を片付けたところで、フィリアが唐突に切り出した。
「そろそろ、あなたの力がどの程度か、ちゃんと確かめておきたいわ」
「今更ですか」
「観察と、実戦はまるで別物よ。今日は、王都の郊外にある鍛錬場に連れていく」
支度を整える間も、フィリアはいつになく上機嫌だった。理由を尋ねても、「行けば分かるわ」とはぐらかされるだけだった。
郊外までの道すがら、フィリアが珍しく詳しい説明をしてくれた。
「今日集まるのは、私の古い伝手をたどった、腕に覚えのある子供たちよ。実戦形式で軽く模擬戦をする、それだけの集まり。危険なことはさせないから、安心なさい」
「先生が危険なことをさせないなんて、逆に緊張するんですけど」
「あら、失礼ね」
軽口を叩き合っているうちに、王都の喧騒が少しずつ遠ざかっていった。
・・・
鍛錬場は、村の広場よりもさらに広く、ところどころに的や訓練用の人形が立てられていた。既に数人の少年少女が集まり、思い思いに準備運動をしている。
到着すると、集まっていた子供たちの視線が一斉にこちらへ向いた。フィリアが軽く手を挙げて挨拶を交わす相手が、思っていたよりずっと多い。荒れた家に一人で暮らしている割に、存外顔が広いらしい。
「今日はこの子も交ぜてもらうわ。反応を見るだけでいいから、本気でやってちょうだい」
紹介と呼ぶには随分素っ気ない言い方だった。集まった子供たちは、値踏みするような視線を俺に向けてくる。見慣れない顔だというだけで、大半が値踏みするように舐めてかかっているのが、態度から透けて見えた
「彼らは、アレンと同じくらいの年頃で、将来的に王立学園を受験する予定の子たち。ちょうどいい練習相手になるでしょう」
緊張と気合いの入り混じった空気が、その一角だけ張り詰めていた。
その中の一人、三つ編みの少女が、興味津々といった様子で俺とヒスイを見比べていた。
「その子、何?」
不意に聞かれて、俺は外套の隙間から覗くヒスイを、そっと隠すように抱え直した。
「召喚獣です」
学んだ通りの返答を、なるべく平坦な声で口にする。
「ふうん、可愛いじゃん。……あんたが例の子? フィリア先生の」
「例の、とは」
「なんか、すごい拾いものをしたって、先生が前に自慢げに話してたから」
拾いもの、という言い方に、俺は少しだけひっかかりを覚えた。研究対象、居候、拾いもの。呼び方は変われど、フィリアが誰かに俺のことを話す時、どこか誇らしげな響きがあるらしいと分かって、悪い気はしなかった。
その中に、一人、やたらと自信に満ちた表情でこちらを見ている少年がいた。刈り上げた赤毛に、いかにも喧嘩っ早そうな鋭い琥珀色の瞳をしている。
「先生、その子が例の? 思ったより、普通の子供じゃないですか」
その一言に、俺は正直、少しむっとした。頭の中は落ち着いているはずなのに、腹の底の方が先に反応している。前世でこの手の挑発をされたら、大抵は「本気になるほどのことでもない」の一言で片付けてきたはずだった。今は、片付ける前に、顔がすでに強張っていた。
「口だけは達者ね、レイド。じゃあ、実際に見てみたら」
フィリアが、面白がるように口の端を上げた。どうやら、俺を試すというより、レイドとやらを黙らせる口実に俺を使うつもりらしい。
・・・
レイドと呼ばれた少年は、鼻で笑うと、初歩の攻撃魔法を軽く放ってきた。挨拶代わりの、力の差を測るような一撃。周りで見ていた他の受験組の子供たちが、わずかにどよめく。
俺は、"強化魔法"で身体能力を引き上げ、それを難なくかわした。外套の中で丸くなっていたヒスイが、興味深そうに顔だけを覗かせた。
「……今、避けただけか?」
レイドの声に、初めて動揺の色が混じった。
「たぶん」
「たぶん、って」
「本当に、たぶんとしか言えないので」
半分は正直な答えだった。自分の中で何が起きているのか、俺自身、いまだにはっきりとは説明できない。
「なら、こっちも本気出すぞ」
引かない性分らしい。レイドは仕切り直すように距離を取ると、今度は明らかに威力を上げた炎の塊を放ってきた。先程より遅く、大きく、隙の少ない一撃だった。
避けるだけでは足りない、と体の方が先に判断していた。踏み込みながら半歩だけ横にずれ、頬に風圧だけを感じながら、通り過ぎていく火球を見送る。至近距離で見た炎は、思っていたよりずっと熱かった。
「……本気だったんだけどな。今のは何だよ」
「よけただけです」
「いや、今の距離でよける方がどうかしてるだろ」
レイドの声には、悔しさよりも、もはや呆れに近い響きが混じっていた。それでも、目だけは、まだ諦めていないと言わんばかりに鋭く光っていた。
「……嘘だろ、あの年で今のを避けたのか」
近くで見ていた誰かが、そう漏らすのが聞こえた。会場が、わずかにざわついた。フィリアだけが、満足そうに小さく頷いている。鍛錬場の隅で監督役をしていた老齢の男も、興味深そうにこちらを一瞥し、フィリアに小さく会釈を送っていた。顔なじみらしい、気安いやり取りだった。
・・・
正直に言うと、俺は少し、いい気分になっていた。挑発してきた相手を、実力で黙らせる。この感覚は、前世では、望んでも手に入らなかった種類のものだった。会社では、実力よりも上下関係や社歴の方が物を言うことの方が多かった。ここでは、少なくとも今この瞬間だけは、力そのものが結果を語っていた。
周りにいた受験組の子供たちも、先程までの値踏みするような視線を引っ込め、代わりにどこか居心地悪そうな沈黙を漂わせていた。その優越感が顔に出ていたのか、フィリアが横から小さく釘を刺した。
「調子に乗らないの。まだ本当の実力じゃないから」
「分かってます」
「分かってなさそうな顔よ、今」
図星だった。俺は、慌てて表情を引き締めた。周りにいた別の受験組の少女が、その一部始終を見て、くすりと小さく笑ったのが視界の端に映った。名前も知らない相手にまで様子を見られていたのだと思うと、今更ながら気恥ずかしくなった。
「今日はこれくらいにしておきましょう。アレン、悪くない出来よ。予想より、ずっとね」
フィリアの評価は、いつも通り素っ気なかった。それでも、その一言だけで、胸の奥がわずかに満たされるのを感じた。
同時に、小さな戸惑いもあった。なるべく目立たないようにするつもりだったはずが、気づけば人前で実力を見せつけて悦に入っている。隠すことと、認められたい気持ち。この二つも、存外簡単には両立してくれないものらしかった。
・・・
さっきの三つ編みの少女――ミラが、興奮した様子で駆け寄ってきた。
「今の、本当にすごかった! ねえ、その召喚獣、名前は?」
「ヒスイです」
「ヒスイかあ。今度、ちゃんと触らせてよ」
懐いた相手以外には興味を示さないヒスイが、その手をするりと避けるのが見えた。ミラは心底残念そうな顔をしたが、それ以上は無理強いしなかった。
帰り支度を整えていると、レイドが俺の隣までやってきた。悔しそうな、それでいてどこか興味を惹かれたような顔をしている。
「……今度また、やろうぜ。今度は、俺が勝つ」
「いつでも」
「絶対だぞ。次負けたら、承知しねえからな」
「負けた後に言う台詞じゃないと思いますけど」
「うるせえ」
レイドはそう吐き捨てると、照れ隠しのように鼻の頭をこすって背を向けた。短いやり取りだったが、俺はその名前を、しっかりと記憶に刻んだ。この少年と、また顔を合わせる日が来る気がした。
「レイド、負けたのに、あんまり悔しそうじゃなかったわね」
鍛錬場を出てすぐ、フィリアがそう漏らすのを聞いて、俺は思わず口を挟んだ。
「悔しそうでしたよ、ちゃんと」
「そう?」
「……先生こそ、人の顔見るの下手ですね」
フィリアは、それを聞いて心底不服そうな顔をした。年季の入った観察眼で張り合おうとしてくる師匠に、こちらから物申すのは、正直分の悪い賭けだったかもしれない。それでも、今日ばかりは言い返さずにいられなかった。
「言うようになったわね、あんたも」
「先生の教育の賜物です」
「白々しい」
軽口を叩き合いながら、俺たちは大通りへの道を歩き出した。
・・・
しばらく歩いたところで、フィリアが、ぽつりと言った。
「あなた、今日、少し嫌な顔してたわね。レイドに挑発された時」
「気づいてたんですか」
「気づかないわけないでしょう。……悪いことじゃないわよ。たまには、あんたも子供らしいとこあるのね」
その言葉に、俺は少し救われた気がした。冷静で、賢く、聡明な自分を、俺はいつの間にか、自分自身に期待していたのかもしれない。だが、腹が立つことに素直に腹を立てる、その普通さも、案外悪くないものだった。前世では、感情の波を表に出すことを、ずっと弱さだと思い込んでいた気がする。
「それに」
フィリアは続けて、少し声のトーンを落とした。
「三年後には、あんたも学園を受けることになる。今日みたいな場に慣れておいて、損はないわ」
三年後、という数字が、思っていたよりずっしりと胸に落ちてきた。まだ随分先の話のはずなのに、今日この場に立たされた理由が、急に現実味を帯びて感じられた。
「先生は、そういうところ、俺よりずっと大人げないですよね」
「あんたね……」
フィリアが片眉を上げてこちらを睨んだが、本気で怒っている様子はなかった。むしろ、その反応こそが答えなのだと、俺は密かに確信した。
・・・
外套の中で、ヒスイが小さく身じろぎした。それでも、その静かな佇まいに、俺は妙な安心感を覚えていた。
窓の外、王都の夕暮れが、大通りを橙色に染めていた。人混みの中を歩きながら、俺は今日一日を振り返る。挑発に乗って意地を張った自分。それを咎めるでもなく、面白がってくれたフィリア。実力を認め合った、名前も知らなかったはずの少年。ヒスイを珍しがって駆け寄ってきた、三つ編みの少女。
村にいた頃の俺は、ノエルという一人の幼馴染以外に、名前で呼べる相手を持たなかった。それが今では、数えるだけでも指が足りなくなりつつある。悪くない変化のはずなのに、増えていく名前の分だけ、隠さなければならないものの重さも増えていく気がして、少しだけ複雑な気分だった。
村にいた頃には、これほど多くの人間と関わり合う一日など、想像もしていなかった。積み重ねてきたものが、今日また一つ増えた。それだけで、悪くない一日だった。
【修正のお知らせ】
第20話のレイド・ミラを含む鍛錬場に集まった子たちですが、アレンより「年上」の設定にしていたのですが、後々の展開を考えると同い年の方が都合が良いことに気づき、こっそり修正しました……。長編あるあるということでご容赦ください。




