19 研究対象、姉の名前
今日のフィリアは、どこか様子がおかしかった。窓の外はとっくに夕暮れを過ぎ、部屋の隅々まで薄闇が満ちていくのを、ランプの灯りだけがぼんやりと押し返していた。
いつもなら真っ先に夕食の支度に取りかかるはずが、今日はしばらく卓に着いたまま、窓の外をぼんやり眺めていた。床でくつろいでいたヒスイに目を向けても、目線だけを寄越して、いつもの軽口の一つも飛んでこない。
「先生、夕飯は」
「……ああ、そうね。作らないと」
我に返ったように立ち上がる仕草が、いつもよりわずかに鈍かった。俺も台所に立ち、いつもより口数の少ないフィリアの代わりに、皿を並べる作業を買って出た。手を動かしていないと、こちらまで妙に落ち着かない気分だった。何かを引きずっているのは、俺にも分かった。昨日、路地裏で起きたこと。力を隠して助けを呼びに走った俺の選択。あの一件が、彼女の中に何かを引っかけていったのかもしれない。
帰り道、俺の問いに「正しいかどうかなんて、私にも分からない」と答えたフィリアの横顔を思い出す。あの素っ気ない答えの裏に、何があったのか。今夜のこの様子を見ていると、少しだけ想像がついた。
夕食を終えても、フィリアは席を立とうとしなかった。
片付けようと器を重ねかけた俺を手で制すと、戸棚の奥から埃をかぶった小瓶を取り出す。栓を抜いた瞬間に漂ってきた匂いだけで、度数の強い酒だと分かった。フィリアが酒を飲むところを見るのは、居候を始めてから初めてのことだった。
「先生、飲むんですか」
「たまにはね。……今日みたいな日は」
杯に注がれた琥珀色の液体を、フィリアはゆっくりと傾けた。一杯目はまだ普段と変わらない顔をしていたが、二杯目を過ぎる頃には、頬にうっすらと赤みが差していた。いつもの気だるげな目とは違う、どこか遠い場所を見ているような色が、そこに浮かんでいた。
床で丸くなっていたヒスイが、珍しく顔を上げ、フィリアの方をじっと見た。何かを感じ取っているのか、鼻先を小さく動かしている。俺はその視線に釣られるように、フィリアを見つめた。
「聞きたい? 私が、なんで分類できない力に興味があるのか」
問われるより先に、フィリアはもう語り始めていた。
・・・
「昔ね、私の姉が、あんたと似たようなことで苦しんでた」
杯の縁を指先でなぞりながら、フィリアは続けた。
「分類できない力を持って生まれてね。祝福の儀式でも、専門の鑑定でも、何一つはっきりしなかった。学園の入試すら受けさせてもらえなかった。系統が分からない人間を、まともに扱ってくれる場所なんて、どこにもなかったから」
淡々とした口調だった。だが、その裏にある重さだけは、七歳の体にも確かに伝わってきた。
「昨日の、あの人と、似てますね」
思わず口をついて出た言葉だった。ノアムの、あの疲れたような目を思い出す。フィリアは、わずかに目を見開いてから、小さく頷いた。
「……そうね。似てる。分類できない、名前の付けようがない、それだけで避けられる。中身がどんな人間かなんて、誰も見ようとしない」
「だから、昨日、あそこまで踏み込んだんですか」
「さあ、どうかしらね。……あんたに聞かれるまで、自分でも考えたことなかったけど」
フィリアはそう言って、杯の中身を見つめたまま、少し笑った。笑っているのに、目の奥は少しも笑っていなかった。
「見つからなかったんですか、お姉さんは」
「見つからなかった。ある日、置き手紙一枚残して、家からいなくなった。それきり」
「手紙には、何て」
「『迷惑をかけたくない』。それだけ」
フィリアは杯を置き、しばらく黙り込んだ。俺は次の言葉を待った。急かすのは、この空気では正しくない気がした。
「もう十年になる。生きてるのか、死んでるのかも、私は知らない」
「捜さなかったんですか」
「捜したわよ。当時、私にできることは全部やった。国境の外まで人をやったこともあるし、伝手のある魔導院にも頭を下げた。……それでも、見つからなかった」
その一言には、諦めというより、まだ消化しきれていない何かが滲んでいた。杯を持つ指先が、ほんの少しだけ震えていた気がしたが、確かめる勇気は、俺にはなかった。
「お姉さんの力は、どんな感じだったんですか」
「発動条件も、威力も、日によってばらばらだった。ある時は隣の畑を燃やしかけて、ある時は井戸を丸ごと凍らせた。姉自身、次に何が起きるか、分かってなかったはずよ」
「それで、周りから」
「気味悪がられた。制御できない力ってだけで、化け物扱い。……あんたと、似てるでしょ」
フィリアの口ぶりに、責めるような色はなかった。それでも、その言葉は、静かに俺の胸の奥に落ちてきた。
「先生が、初めて会った日に言ってた、物差しの理論も」
「そう。あれは、元々は姉のために考えた理屈だった。姉の力を測れる物差しが、当時どこにもなかった。だから、私が自分で作るしかないと思った」
「でも、間に合わなかった」
「間に合わなかった」
フィリアは短くそう言うと、杯の中身を一息に飲み干した。あの日、俺に向かって得意げに語ってみせた「物差し」の理屈は、たった一人の妹が、長い時間をかけて磨き上げた、届かなかった刃だったのだと、俺は今更ながら思い知った。
「お姉さんは、どんな人だったんですか」
「うるさいくらい、よく笑う人だった。……こんな性格の私とは、似ても似つかなかったわ」
フィリアは杯を弄びながら、初めてわずかに口元を緩めた。今夜、初めて見る種類の表情だった。
「不器用だったけどね。誰かのために動きすぎて、自分のことはいつも後回しにするタイプだった」
「先生と、似てません?」
「……減らず口ね」
そう言いながらも、フィリアはそれを否定しなかった。
・・・
「だから、分類できない力の研究をしてる。もし姉と同じような子がまた現れたら、今度こそ、ちゃんと理解してあげたいから」
「それで、俺を」
「そう。最初は、正直、ただの研究対象だと思ってた」
その一言が、思っていたよりずっと深く刺さった。研究対象。前世の会社でも、使える人材かどうかで値打ちを測られていた記憶が、ふと重なった。数字と成果でしか評価されなかった、あの息苦しさ。ここでもまた、誰かの目的のための道具でしかないのだろうか。
顔に出ていたのか、フィリアは俺の様子に気づいたように、わずかに困った顔になった。
「……でも」
「でも?」
「もういいわ、この話は。今日はちょっと、喋りすぎた」
彼女はそう言ったきり、それ以上は続けなかった。俺は追及したい気持ちを飲み込み、それ以上は聞かなかった。ただ、初めて会った夜に言われた「同情じゃない、研究対象としての興味」という言葉の裏に、ずっと隠されていたものの輪郭を、今、少しだけ見た気がした。
・・・
「先生」
「なに」
「俺は、今も研究対象ですか」
あまりに直球な質問だった。フィリアは一瞬驚いたように俺を見て、それから、いつもの素っ気ない口調に戻った。
「さあね。……あんたが、それをどう思うかは、あんたの自由よ」
はぐらかしているようで、はぐらかしていない気もした。この人は、簡単な言葉で慰めてくれるタイプではない。だが、その不器用さの方が、俺にはむしろ信じられるものに思えた。
「そう思われてても、別にいいと思ってます」
「そう?」
「研究対象でも、居候でも。先生が、俺のために動いてくれてることに、変わりはないので」
言ってしまってから、少し気恥ずかしくなった。柄にもないことを口にした自覚はあった。
フィリアは、しばらく俺を見つめた後、小さく笑った。今度は、目の奥にもわずかに温かさが戻っていた。
「子供のくせに、生意気な返し方するわね」
「体は七歳ですけど、頭の中は、もう少し上なので」
「知ってる、というか……薄々、感じてた。出会った時から、妙に物分かりが良すぎるもの」
「それだけで、そこまで分かるものですか」
「それだけで十分よ。子供は、大抵もっと聞き分けが悪いの」
その言い方に、俺は少しだけ安堵した。フィリアが察しているのは、あくまで「様子がおかしい」という程度のことで、俺の正体そのものを見抜いているわけではないらしい。それでも、深く問い詰めることなく、こうして受け入れてくれている。今は、それだけで十分だった。物分かりが良すぎる、という指摘は、あまりに図星すぎて、笑うに笑えなかった。
・・・
竜血族の昔語り、消えた種族、分類できない力を持って姿を消した人。まだ繋がらない点が、また一つ増えたことを、俺は静かに自覚していた。姉の話と、婆ちゃんが語った古い伝承。どこかで重なっている気がしたが、その正体を言葉にできるほどの材料は、まだ俺の手元にはなかった。
「姉さんの名前、聞いてもいいですか」
「セレナ。……もういいでしょ、この話は」
短い名前だった。それでも、口にした瞬間のフィリアの表情は、これまでのどの言葉より重かった。
フィリアはそれだけ言うと、杯を置いて立ち上がった。話を切る合図だった。俺はそれ以上は追わなかった。
立ち上がりざま、フィリアの体がわずかに傾いだ。慌てて支えようとした俺の手を、素っ気なく振り払う。
「大丈夫よ、これくらい」
そう言った直後、テーブルの角に軽く腰をぶつけて小さく呻いていた。足取りは、お世辞にもしっかりしているとは言えなかった。それでも、俺はそれ以上何も言わなかった。今日ばかりは、彼女の意地を尊重してやりたい気分だった。普段の澄ました顔からは想像もつかない、間の抜けた姿だった。
片付けの手を止めていたことに気づいて、慌てて器を重ね直す。フィリアは台所に立ったまま、しばらく窓の外を見ていた。振り返った時には、もういつもの気だるげな顔に戻っていた。
「今日は、ちょっと飲みすぎたわ。あんたも早く寝なさい」
「先生も、ちゃんと寝てくださいね」
「言われなくても、分かってるわよ」
軽口を返しながら、フィリアはそれでも、いつもより少しだけ長く、俺の頭のあたりを見ていた気がした。
・・・
その夜、寝台に入ってからも、しばらく寝つけなかった。
昨日の路地裏で選んだこと、力を隠して助けを呼びに走ったこと。あの選択を、まだ自分でも正しかったのか分からずにいた。だが今、フィリアの話を聞いて、少しだけ分かったことがある。
隠すことと、守ること。この二つで板挟みになったのは、俺だけではなかったのだ。フィリアの姉も、きっと同じ天秤の上にいた。そして、その天秤から、最後には自分ごと姿を消すことを選んだ。
俺はまだ、その選択の重さを、本当の意味では分かっていない。それでも、フィリアが十年間、その重さを一人で抱えたまま研究を続けてきたことだけは、今夜、はっきりと分かった。彼女が「弟子は取らない」と言いながら俺を居候として引き受けたのも、最初は研究対象としての興味だったのかもしれない。それでも今、こうして酒に頼ってまで昔話をこぼしたのは、少なくとも興味だけでは説明のつかない何かだと、俺には思えた。
隣で丸くなっていたヒスイが、俺の膝に鼻先をそっと押し当ててきた。慰めるつもりなのか、単に眠いだけなのか、その判断はいつも通りつかなかった。それでも、その重みと温かさに、俺は少しだけ救われた気がした。
研究対象として引き受けられた自分が、いつの間にか、それ以上の何かになっているのかどうか。答えは、まだ出ていない。
それに、俺だってフィリアに、何もかも明かしたわけではない。前世の記憶は、誰にも話していない。秘密を抱えているのは、彼女だけではなかった。それでもこうして、互いの抱えているものの重さを、少しずつ分け合えている気がするのは、悪くない感覚だった。
だが少なくとも、今この瞬間、俺はこの家に、確かな居場所を感じていた。居候として転がり込んだだけのはずのこの家が、いつの間にか、少しずつ「帰る場所」と呼べる何かに近づいている。そのことに、俺自身が一番驚いていた。
同時に、拭いきれない不安もあった。もし俺の正体がすっかり暴かれる日が来たら、俺もまた、セレナと同じように、この家から姿を消さなければならなくなるのだろうか。その想像は、思っていたよりずっと重く、胸の奥に沈んだ。
窓の外、王都の夜は静かだった。セレナという名前だけが、頭の中でいつまでも小さく響いていた。会ったこともない、顔も知らない人の名前が、これほど重く心に残る夜が来るとは、思ってもみなかった。
第19話・了




