18 路地裏の騒動、選ばなかった力
「これを、仕立て屋まで届けてきて」
フィリアが差し出したのは、蝋で封をした小さな包みだった。近頃は、こういう一人での使いを言いつけられることが増えている。
「今日は一人でですか」
「あんたも、そろそろ道くらい覚えたでしょ。……私はこれから薬種屋に買い出しがあるから、一緒には行けないの」
信頼されているのか、単に面倒なだけなのか、判断がつかない言い方だった。
「迷子になっても知りませんよ」
「迷子になったら、あんたの方から声を張り上げて誰かに聞きなさい。あんた、意外とそういうのは平気でしょ」
言い返せなかった。市場での値切り交渉を思えば、確かに人に話しかけること自体は苦にならない性分だった。外套の中にヒスイを潜ませて、俺は一人で家を出た。
・・・
仕立て屋までの道は、もう迷わずに歩けるようになっていた。大通りを避けて路地を抜ける近道も、いつの間にか覚えている。石畳の隙間から雑草が伸びる、日の当たらない裏通り。両側に積まれた木箱と、干された洗濯物の隙間から、細く空が見えるだけの道だった。
前世なら、こんな薄暗い路地を一人で歩くことに、多少なりとも警戒心が働いただろう。今の俺は、むしろこの静けさを気に入っていた。人混みに揉まれ通しの大通りより、よほど歩きやすい。
その路地の途中で、いつもとは違う気配に足が止まった。
・・・
角の先、数人の男たちが、一人を取り囲んでいた。
フードを目深に被った、痩せた背中。灰色がかった青い肌が、めくれた袖口から覗いている。見覚えのある佇まいだった。市場で、一瞬だけ目が合った、あの人だ。
「場所代、まだ払ってもらってないんだが」
がっしりとした体格の男が、露店の荷を蹴った。積まれていた小瓶が、乾いた音を立てて転がる。
「そんな話は、聞いていない」
低く掠れた声に、聞き覚えがあった。それでも、怯んだ様子は見せなかった。むしろ、静かに突っぱねるような響きがあった。
「聞いてないじゃ、通らないんだよ。この辺りで商売したけりゃ、な」
「他の露店には、そんな取り立てをしていないと聞いている」
「お前のとこだけ特別ってわけだ。文句あるか」
もう一人の男が、下卑た笑い声を上げた。周囲に、足を止める通行人はいない。この路地では、誰も助けに来ないことを、男たちは知っているようだった。
「大体、お前らみたいなのが大通りで店開いてること自体、本当は目こぼしされてるだけなんだぜ。分かってんのか」
侮蔑の色を隠しもしない言い方だった。フードの人物は何も言い返さず、ただ静かに男たちを見返している。その沈黙が、かえって男たちの苛立ちを煽っているようにも見えた。
・・・
心臓が、いつもと違う速さで鳴っていた。
考えるより先に、体の奥が熱くなる感覚があった。薪の時、川の時、山犬の時――あの感覚と同じだった。だが今回、目の前で危機に晒されているのは、自分でも、親しい相手でもない。名前も知らない人だ。
このまま踏み込めば、何が起きるか自分でも分からなかった。もし何かの拍子に、あの制御できない力が出てしまったら。人前で、この狭い路地で。隠してきたものが、一瞬で崩れるかもしれない。
隠すべき秘密と、目の前で困っている人。どちらを優先すべきか、答えの出せる問いではなかった。それでも、体は動けと言っている。頭は動くなと言っている。板挟みのまま、俺は壁際に立ち尽くしていた。
前世でなら、見て見ぬふりをするのが賢い選択だっただろう。関わらなければ、面倒に巻き込まれることもない。だが、そう分かっていても、このまま見捨てて立ち去ることだけは、どうしてもできそうになかった。
飛び出して、力ずくで割って入る。頭の中には、確かにその選択肢があった。七歳児の見た目からは想像もつかない力で、あの男たちを弾き飛ばすことくらい、きっとできる。だが、それをやれば、人前で力を見せることになる。あの小さな村でさえ、噂はあっという間に広まった。ここは王都だ。広まる速さも、届く先も、比べ物にならない。
俺は、いつの間にか握っていた拳を、ゆっくりと開いた。
・・・
「――先生!」
声の限り、来た道を振り返って叫んだ。届くはずもない距離だと分かっていたが、それでも叫ばずにはいられなかった。
代わりに、足が勝手に動いていた。大通りへ、フィリアのいるはずの薬種屋の方角へ。全力で走った。七歳児の脚では、頼りないことは分かっていた。息が上がって、喉の奥が焼けるように痛んだ。それでも、今できることはそれしかなかった。
・・・
薬種屋の店先で、フィリアはちょうど支払いを終えたところだった。息を切らして駆け込んできた俺を見て、片眉を上げる。
「どうしたの、そんな血相で」
「路地に……男の人たちが、露店の人を、囲んで」
言葉が続かなかった。喉が渇いて、うまく声が出てこない。それでも、フィリアの表情から、いつもの気だるさが一瞬で消えたのが分かった。
「案内して」
短い一言に、俺は頷いて、来た道を駆け戻り始めた。フィリアが、その後ろにぴったりとついてくる。
・・・
戻った路地には、まだ男たちがいた。フィリアは、走ることも慌てることもなく、いつもと変わらない足取りで近づいていく。むしろ、その落ち着きぶりが、俺には頼もしく見えた。
「そこまでにしてもらえる? うるさくて、商売の邪魔なのよ」
素っ気ない声だった。男たちが振り返る。
「なんだ、お前」
「通りすがりの魔法使い。それだけで十分でしょ」
一人が凄んで一歩踏み出したが、フィリアは眉一つ動かさなかった。
「あんたら、ここが私の縄張りだって知らずに稼いでるみたいだけど。魔導院にでも目をつけられたら、ただじゃ済まないわよ」
はったりなのか本当なのか、俺には判断がつかなかった。それでも、堂々とした物言いには、思わず頷きたくなるだけの迫力があった。
フィリアが指先を軽く動かす。それだけで、男たちの足元の石畳が、水面のように揺らめいた。実際に何かが起きたわけではない。ただ、そういう力があると示すだけの、抑えた見せ方だった。
男たちは顔を見合わせ、悪態をつきながらも、それ以上は何も言わずに路地の奥へと去っていった。
・・・
「大丈夫?」
フィリアが、フードの人物に声をかけた。
「……世話になった」
低い声が、少しだけ和らいでいた。転がった小瓶を拾い集める手つきに、俺も慌てて加わった。割れていない瓶を選び出し、汚れを袖で拭って並べ直す。
拾い上げた瓶の一つに、見覚えのある乾いた鱗の欠片が入っているのに気づいた。市場の薬草屋で見た、あの脱皮殻とよく似ている。
「これも、薬の材料なんですか」
「関節の痛みに効くという触れ込みだ。効いたという声を、実際に聞いたことはあまりないがな」
フードの人物の声に、初めて軽い響きが混じった。
「……前にも、市場で君を見た」
「覚えてたんですか」
「忘れるはずがない。あんな顔でこっちを見てくる子供は、そういない」
フードの下から覗く目元が、微かに緩んだ気がした。
・・・
「名は、ノアムという」
その一言に、俺は少し驚いて顔を上げた。名乗ってもらえるとは思っていなかった。
「アレンです」
「アレン、か。……坊主が呼んで来てくれたのか、その師匠を」
「はい」
「なぜだ。子供が首を突っ込むような場面じゃなかったろう」
その問いに、俺はすぐには答えられなかった。何とかしたい、という気持ちはあった。だが、それを表に出せる術を、俺は持っていなかった――少なくとも、人前で使える形では。
「……見て見ぬふりが、できない性分なので」
半分だけ本当で、半分は嘘だった。ノアムは、それ以上は追及せず、ただ小さく頷いた。
「それでも、走ってきたんだろう。逃げることもできたはずだ」
「逃げるなんて、考えもしませんでした」
「そうか」
それだけ言うと、ノアムは荷を担ぎ直した。長居をするつもりはないらしい、素っ気ない背中だった。
「また、市場で会えたら。今度は、なるべく厄介事なしで」
その一言に、俺は思わず小さく笑ってしまった。ノアムも、フードの下でわずかに口元を緩めているように見えた。
・・・
「戻るわよ」
フィリアが、いつもの調子で踵を返した。ノアムに軽く会釈をして、俺もその後に続く。
路地を出たところで、俺は思い出したように懐の包みを握りしめた。届け物は、まだ済んでいない。
「仕立て屋、まだだったわね。付き合うわ」
フィリアにそう言われ、二人で仕立て屋に向かった。用件は、ものの数分で片づいた。
歩き出してしばらく、フィリアが口を開いた。
「――さっき、飛び込まなかったのは、どうして?」
答え方を選ぶ間もなく、正直に答えた。
「怖かったからです。それと……もし僕が何かしたら、余計にややこしくなる気がして」
「なるほどね」
「その判断、正しかったですか」
「さあ。正しいかどうかなんて、私にも分からない」
期待していた答えとは、少し違った。もう少し何か、明確な言葉をもらえるかと思っていた。
「助けを呼びに走ったこと自体は、悪くない判断だったと思うわよ。ただ、それが唯一の正解だったかどうかは、また別の話。あんたが違う選択をしてたら、違う結果になってたかもしれない。それも含めて、誰にも分からないのよ」
はぐらかされたような、突き放されたような、それでいてどこか誠実な答えだった。フィリアはそれ以上何も言わず、家までの道を急ぐように、また足を速めた。
「あと、あの啖呵。魔導院がどうとか、あれは本当なんですか」
「さあね」
「さあねって」
「はったりも、堂々と言えば通じるものよ。あんたも、そのうち分かるようになるわ」
悪びれもせずそう言ってのけるフィリアの横顔に、俺は少しだけ呆れながらも、どこか頼もしさを感じていた。
・・・
外套の中で、ヒスイが小さく身じろぎした。ずっと大人しくしていたが、路地での騒ぎには気づいていたのかもしれない。俺はその重みを、そっと確かめるように手で押さえた。温かかった。
家に戻る道すがら、拳を握ってから開いた、あの一瞬のことを何度も思い返した。力を隠すことと、誰かを守ること。今日は、隠す方を選んだ。次も同じ選択をするとは限らない。そう思うと、少しだけ落ち着かない気持ちになった。
・・・
その夜、机に向かい、ノエルへの手紙の続きを書いた。
前回、書けなかったことを、今日は書いてみようと思った。ペンを持つ手が、少しだけ迷いながら動く。
「今日、市場で見かけたことのある人と、思いがけず再会しました。今度は、少し危ない目に遭っているところでした。僕は結局、何もできませんでした。師匠を呼びに走っただけです」
書き終えて、その一文を見つめ直す。情けない、と自分で思う一方で、あの場でできることは本当にそれしかなかったとも思う。答えは、まだ出ていなかった。
「情けないと思う? でも、あの人は、また会えたら、って笑ってくれました。それだけで、悪くない一日だったと思うことにします」
書きながら、それが情けないことなのか、それとも仕方のないことなのか、まだ自分でも判断がつかなかった。それでも、書かずに終わらせるよりは、ずっとましな気がした。
ヒスイが、机の端でこちらを見ている。答えの出ない問いを抱えたまま、俺はペンを置いて、ランプの火を落とした。
窓の外、王都の夜はいつもと変わらず静かだった。それでも、今日拾い上げた小瓶の重さと、握って開いた拳の感触だけは、いつまでも指先に残っていた。




