17 市場の喧騒、名前のない境界線
「買い出しに付き合いなさい」
朝食の片付けを終えたところで、フィリアがそう言って上着を羽織った。ここの一文修正。断る理由もなく、俺はヒスイを外套の内側にそっと収めて後に続いた。
「はぐれないでよね。人混みに慣れてないでしょ」
「否定はしません」
「あと、そいつのことは、あまり見せびらかさないこと。何を聞かれても『召喚獣です』の一点張りでいいから」
釘を刺すような口調だったが、それが師匠なりの気遣いなのだろうと、俺は素直に頷いた。
・・・
家を出て、大通りに向かう道すがら、フィリアが片手を挙げて挨拶する店が何軒かあった。パン屋のグレタもその一人で、店先で粉まみれの腕を振ってくる。
「今日は市場かい。坊やも一緒とは珍しい」
「買い出しに付き合わせてるだけよ」
「またパン、焼いたら届けるからね」
グレタは俺にだけ、そう耳打ちして笑った。
「グレダさん、いつもお世話になってます」
「気にしなくていいんだよ、坊や。こっちこそ、フィリア先生には世話になってるんだから」
意外な返答に、俺はフィリアの方を見た。だが本人は何も言わず、素っ気ない顔で先に歩き出してしまう。
「先生、グレタさんに何かしたんですか」
「さあ。何のことだか」
はぐらかされて、それ以上は聞けなかった。フィリアの家に来てから、まだ数日しか経っていないはずなのに、この通りには既に俺を知っている顔がいくつもある。王都は広いようで、案外そうでもないのかもしれない。
・・・
王都の市場は、レイフ村の広場とは比べものにならない規模だった。狭い通りに、屋台と人がひしめいている。焼いた肉の匂い、干した香草の匂い、蒸れた布の匂い。あらゆる匂いが混ざり合って、一つの生き物のように渦を巻いていた。
反物を積んだ荷車、干物を吊るした軒先、色とりどりの香辛料を並べた台。声を張り上げる商人たちの掛け声が、四方から重なって聞こえてくる。値切る声、笑い声、子供の泣き声。レイフ村では、これほどの音の種類を一度に聞いたことがなかった。
人間だけではない。長い耳をした女性が布を選び、背は低いががっしりとした体格の男が金物を運び、獣の耳や尻尾を持つ子供たちが露店の間を駆け抜けていく。
――エルフ、ドワーフ、獣人。前世で読んだファンタジー小説の知識が、頭の中で答え合わせされていく。
正直、ちょっとした優越感があった。異世界の種族なんて、本で散々読んで知っている。今さら驚くようなことは何もない。そう高を括っていた。
・・・
最初に立ち寄ったのは、薬草と鉱物を扱う露店だった。フィリアは慣れた様子で瓶の中身を検分し、店主と値切り交渉を始める。
「これ、先月より値上がりしてない?」
「そちらのお嬢さんの目は誤魔化せませんな。乾燥が続いて、仕入れが渋いんですよ」
軽口を叩きながらも、フィリアは結局言い値の八割ほどまで値切り、満足げに紙包みを受け取った。値切り交渉の様子に、ガイルの荷を検分していた父の姿が、ふと頭を過った。
俺はといえば、店先に並んだ乾燥した鱗や爪の標本から、目が離せずにいた。
「これ、何の生き物のですか」
「川トカゲの脱皮殻よ。薬の材料にする」
「脱皮殻って、こんなにきれいな形で残るものなんですね」
「あんた、また変なところに食いつくのね」
呆れたような声にも構わず、しばらくその標本を眺めていた。ヒスイもいつか、同じように鱗を脱ぐ日が来るのだろうか。そんなことを考えながら、俺は名残惜しく店先を離れた。
・・・
途中、果物を並べた露店の前を通りかかると、店主が愛想よく声をかけてきた。
「坊主、りんご一個どうだい。今日は特別に負けとくよ」
言い値は、明らかに相場より高かった。前世で培った勘が、そう告げていた。
「他の店でも同じの見ましたけど、もう少し安かったです」
「……坊主、目利きだね」
店主は苦笑しながら、素直に値を下げた。フィリアが横で片眉を上げてこちらを見ている。
「あんた、そういうところだけ妙にしっかりしてるわね」
「昔取った杵柄です」
「意味、分かって使ってる?」
「……なんとなくです」
正直に答えると、フィリアは呆れたように笑った。買ったりんごを一つ手渡され、俺はそれを齧りながら、また人混みの中を歩き出した。
・・・
露店の奥、フードを深く被った人物が、誰とも目を合わせないように品物を並べていた。フードの隙間から覗く肌は、心なしか青みがかった灰色をしている。周りの客も、その露店の前だけを避けるように歩いている。露骨に嫌な顔をするでもなく、指をさすでもない。ただ、そこだけ空気の密度が違った。目に見えない境界線が、露店の前に一本、確かに引かれていた。
「あの人は?」
「魔人族。詳しくは今は言わないけど……あまり、いい顔をされない種族なの、この国では」
フィリアの声は、いつもと変わらず素っ気なかった。
俺の中にあった「異世界の種族なんて知識としては全部知ってる」という子供っぽい自惚れが、静かに崩れていくのを感じた。本で読んだ設定と、実際にそこにいる人間の、居心地悪そうな肩の縮め方は、まったく別のものだった。
「どうして、嫌われてるんですか」
理由を尋ねようとした俺を、フィリアは軽く手で制した。
「今は覚えておくだけでいいわ。世界は、村で見ていたよりずっと複雑だから」
「今は、っていうことは、いつかは教えてくれるんですか」
「さあ。あんたが、それを知りたいと思い続けてたらね」
「忘れたら、教えてもらえないんですか」
「忘れるくらいのことなら、最初から知る必要もないんじゃない?」
はぐらかしているようで、はぐらかしていない。フィリアはそういう言い方をする人だった。
「せめて一つだけ。あの人たちは、何か悪いことをしたんですか」
「したかどうかは知らない。少なくとも、あそこにいる、あの人自身は何もしてないでしょうね」
その言い方には、微かな苛立ちが滲んでいた。誰に対する苛立ちなのか、俺にはまだ判断がつかなかった。
見ていると、老齢の女性が一人、迷わずその露店に近づいていくのが目に入った。慣れた様子で品物を選び、代金を渡し、ごく普通の世間話まで交わしている。誰もがあの人を避けているわけではないらしい。ただ、大多数がそうしているという、それだけのことだった。
大多数、という言葉の重さを、俺はまだうまく量れずにいた。
・・・
「先生は、あの人たちのこと、どう思ってるんですか」
「私? ……別に何も。ただの客商売の相手よ」
あまりに素っ気ない返答に、俺は少し失望したような気持ちになった。師匠には、もっと何か、正義感のある答えを期待していたのかもしれない。
「その顔、何か言いたそうね」
「いえ」
「言いなさいよ、そういうの溜め込むの、性格に合わないでしょ」
見透かされて、俺は仕方なく口を開いた。
「なんとなく、もっと何か言ってくれるかと思って」
「私は魔法研究者。正義の味方じゃないの。……あなたが何か思うことがあるなら、それはあなた自身の問題として持っておきなさい。私が代わりに正しい答えを用意してあげることじゃない」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。前世でも、こういう場面では、誰かの「正しい意見」に頷いておけば済んだ気がする。だが、フィリアはそれを、俺自身の問題として突き返してきた。
「……冷たいと思った?」
「少しだけ」
「そう。まあ、それも含めて、あんたの問題ね」
投げっぱなしの言い方だったが、突き放されたようには不思議と感じなかった。むしろ、宿題を一つ渡された、そんな感覚に近かった。
・・・
外套の中で、ヒスイが小さく身じろぎした。人混みの匂いに戸惑っているのか、単に暑いだけなのか、判断はつかない。
「そういえば、そいつは平気なの? こんな人混み」
フィリアが思い出したように聞いてきた。
「今のところは。……匂いに敏感な生き物なので、あまり長居はさせたくないですけど」
「詳しいのね、相変わらず」
「趣味なので」
短く答えて誤魔化す。この受け答えにも、そろそろ慣れてきた自分がいる。フィリアはそれ以上追及せず、また視線を前に戻した。通りすがりの子供が、外套の膨らみに気づいて指をさしかけたが、母親らしき女性に手を引かれてすぐに人混みに消えていった。ヒスイは、それにも興味を示さなかった。懐に収まったまま、時折ひんやりとした鼻先を服の内側に押しつけてくる。落ち着かない証拠なのか、単に暖を取っているだけなのか、それも今は判断がつかない。
・・・
市場を歩き終える頃、フードの人物が一瞬こちらを見た。その視線の中に、警戒でも敵意でもない、ただの疲れたような色が浮かんでいたのを、俺は妙にはっきりと覚えている。あの目を、俺はどう受け止めればいいのか、まだ分からなかった。
「今日の買い物、これで終わりよ。帰るわよ」
フィリアが素っ気なくそう言って、俺の考えごとを中断させた。師匠は、あまり深刻な空気を長引かせるのが好きではないらしい。あるいは、俺がまだ子供だということを、忘れていないのかもしれない。
・・・
帰り道、露店で焼いていた串肉の匂いに、俺の腹が正直に鳴った。
「……何よ、その音」
「腹が減っただけです」
「さっきまでの神妙な顔と落差がすごいわね」
フィリアが小さく噴き出した。図星だった。中身がどれだけ大人びていようと、七歳児の腹は、複雑な社会問題より正直に食欲を主張する。俺はそれを恥じるより先に、自分自身に少し呆れていた。人間、腹が減っては、深刻な顔も長続きしないものらしい。
外套の中で、ヒスイがくすぐったそうに身をよじった。腹の音に反応したのか、単に揺れが気に入らなかっただけなのか、それも分からない。
「一本くらい、買っていく?」
「いいんですか」
「今日だけよ。あんたの神妙な顔に免じて」
そう言いながら、フィリアはもう串肉屋の方に足を向けていた。結局、甘いのは口だけではないらしい。串を受け取ると、脂の焼ける香ばしい匂いが、さっきまでの重い空気を少しだけ押し流してくれた気がした。歩きながら齧る一口は、村で食べていたどの串焼きよりも、なぜか美味く感じた。
家に戻ると、フィリアは有言実行とばかりに、ヒスイをひとしきり観察してから、ようやく夕食の支度に取りかかった。「今日のところは、これで十分」とだけ言い残し、それ以上は何も語らなかった。
・・・
その夜、俺は初めて、ノエルに向けて手紙を書いた。
机に向かい、ペンを握ったはいいものの、何から書けばいいのか分からず、しばらく白紙を睨んでいた。まだ実験動物みたいに観察され続けていること、市場で見た色々な種族のこと、フィリアという変わり者の師匠のこと。書きたいことは、思っていたよりずっと多かった。書き始めると、ペン先は思いのほか止まらなくなった。
誰かに向けて近況を報告するという行為が、こんなに気持ちを軽くするものだとは、これまであまり実感したことがなかった。
「王都は、村より何もかもが大きいです。人も、建物も、市場の喧騒も。まだ半分も慣れていません」
書きながら、ノエルがこれを読んでどんな顔をするか、勝手に想像してしまう。呆れた顔だろうか、羨ましそうな顔だろうか。想像したところで答えは分からないのに、ペンを持つ手は自然と軽くなっていた。
ヒスイのことも、少しだけ書いた。「小さな白いトカゲが、うちに居着いた」とだけ。名付けの経緯まで書くと長くなりすぎる気がして、続きはまた今度にした。
魔人族のことは、書かなかった。何度かペンを止めて、書きかけては消し、結局違う話題に逃げた。まだ自分の中で、言葉になっていなかった。ノエルなら、あの光景をどう見るだろう。想像しかけて、答えの出ない問いだとすぐに気づき、やめた。
・・・
窓の外、王都の夜。市場で見た数だけの種族が、数だけの暮らしを営んでいる。俺の頭の中には、村では出会えなかった数だけの疑問が、静かに積み重なっていた。
膝の上で丸くなったヒスイに目を落とす。今日一日、こいつは何を見て、何を感じていたのだろう。聞いたところで答えは返ってこないと分かっていても、つい問いかけたくなる自分がいた。
村にいた頃は、世界はもっと単純だった気がする。丘の向こうに何があるかを知らないまま、知りたいと願うだけでよかった。今は、丘の向こうにあったものの一部を、もう知ってしまっている。知ってしまった以上、見なかったことにはできない。それが成長というものなら、思っていたより、ずっと重たいものだった。
そんな益体もないことを考えながら、俺はランプの火を落とした。




