16 白い鱗、名づけの夜
白い鱗、名づけの夜あの実験の夜、腹の奥の熱はいつまでも収まらなかった。浅い眠りを繰り返しながら、気づけば窓の外はすっかり明るくなっていた。
頬に何か柔らかい重みを感じて、目を開けた。
視界いっぱいに、ぬめりとした緑色の瞳が映った。
「――っ、うわあっ!?」
寝ぼけた頭のまま、俺は思わず声を上げて跳ね起きた。何かが毛布の上を転がった。
心臓が痛いくらいに鳴っていた。
・・・
数秒の沈黙。
恐る恐る、その"何か"に目を向ける。
手のひらに収まるくらいの大きさ。四本の細い足。トカゲ?どこか違う。首元には、小さなフリルのようなものが控えめに広がり、額には、まだ生え揃っていない角の芽が二つ。鱗は白く、真珠のような光沢を帯びている。瞳は深い緑色で、宝石のように透き通っていた。
窓から差し込む朝の光に、白い鱗がほんのりと輝いて見えた。生まれたばかりの何かのような、それでいて既にどこか堂々とした佇まいだった。
「かわいい……」
間の抜けた声が出た。恐怖も警戒も、次の瞬間にはきれいに消えていた。代わりに込み上げてきたのは、うまく説明のつかない高揚感だった。
・・・
「……いや、待って。ちょっと、これ、見ていいですか」
手が勝手に動いていた。毛布の上できょとんとするそれを、両腕でそっと抱え上げる。
「この鱗の重なり方、一枚一枚が美しく配置されてる。四足のバランスも、この体格ならもっと不安定になりそうなのに、妙に安定してる。角の芽の位置も絶妙で……これ、将来ちゃんと威嚇の役に立つ形に育つ気がします」
目の前の生き物は、ただ俺の顔をじっと見上げているだけだった。誰も聞いていない。それでも、口は止まらなかった。
「実は、爬虫類大好きなんです。まともに家に帰れる生活じゃなかったから、飼えないまま終わって……」
言葉が、次から次に溢れてくる。三十四年分の、行き場のなかった熱意だった。
「体温は、明らかに変温動物にしては高すぎるな……あ、匂い、確認してます? 今、舌で」
ぺろり、と指先を舐められて、思わず声が裏返った。
「うわ、くすぐった……いや、これ、匂いで確認する行動ですよね、もう、たまらないんですけど」
「あと、寝床とか、そういうのも整えてやりたいですよね。日当たりのいい場所とか、隠れられる隙間とか……いや、待て。この世界の生物には、そもそも普通の環境作りが当てはまるのか?」
一人で盛り上がっては、一人で疑問に突き当たる。傍から見れば、相当滑稽な絵面だっただろう。
「なあ、お前、名前とかあるのか。……いや、ないよな、うん」
自分で聞いて、自分で頷く。誰も止めてくれる人間がいないというのは、こんなにも危険なことなのかと、他人事のように思った。
・・・
「――何を、朝から一人で騒いでるの」
扉が勢いよく開き、寝間着姿のフィリアが顔を出した。寝ぼけ眼のまま、俺と、俺の腕の中に収まった白い生き物を、交互に見比べる。
フィリアは、しばらく声を失っていた。
「……あんた、いつもそんなに喋る人だった?」
心底不思議そうな声だった。
まさか聞かれていたとは。
「……いえ。すみません、取り乱しました」
「取り乱すと早口になるタイプなのね、あんた」
「……そんなタイプだと、自分でも今初めて知りました」
正直に答えると、フィリアは片手で口元を押さえた。笑いを堪えているようだ。
「まあ、いいわ。それより」
揶揄うような口調だったが、フィリアの目は、もう完全に俺の腕の中の生き物に向いていた。研究者の顔に、一瞬で切り替わっていた。
・・・
「ちょっと、こっちに持ってきて」
有無を言わせぬ声に、俺はおとなしく生き物を抱えたまま、まだ朝食も並んでいない食卓に腰を下ろした。フィリアは、俺の腕の中を覗き込むようにして、観察を始める。
触れようと伸ばした指先に、生き物がすっと尾を持ち上げる。
「懐かないわね、これは」
「僕には、大人しいですけど」
「でしょうね」
フィリアの声に、驚きより納得の色が滲んでいた。
「体温、測らせて」
言うが早いか、フィリアは慣れた手つきで自分の手のひらをそっと近づけた。生き物は今度は逃げず、じっと観察されるままになっている。
「――温かい。普通の獣より、少し高いくらいね。魔力を帯びてる証拠よ」
「僕もそう思いました。変温動物にしては高すぎるんです」
「あんた、さっきからそういうこと、よく気づくのね」
フィリアが片眉を上げてこちらを見た。俺は口を滑らせたことに気づいて、慌てて視線を逸らす。
「……昔からの趣味です」
「変わった趣味ね」
それ以上は追及されず、俺は密かに息をついた。
フィリアの手が離れると、生き物はテーブルの端まで、とことこと歩いていった。身を乗り出すようにして覗き込むと、また引き返してきて、俺の腕の中にすとんと収まる。それを二度繰り返した後、ようやく落ち着いたように丸くなった。まるで、この場所が安全かどうかを確かめているようだった。
・・・
フィリアは続けて、そっと手首を持ち上げるようにして生き物の重さを確かめ、喉元に指を這わせて何かを数えるような仕草をした。
「脈は……あるような、ないような。普通の生き物の理屈じゃ測れないわね、これは」
「じゃあ、何なんですか、一体」
「さあ。生き物か、魔力の塊が生き物の形を取ってるだけか、今の私には判断がつかない」
「判断がつかないのに、そんな真剣な顔で見てるんですか」
「分からないから見てるのよ。分かってるものを、今さら真剣に見る必要ある?」
言われてみればその通りで、俺は口を噤んだ。素っ気ない口調とは裏腹に、その目はまだ生き物から離れていなかった。
・・・
「――召喚系統の発現ね」
「え?」
「昨日の実験、覚えてる? もう一つの色。奥で何かが目を覚ましたって、あんた言ってたでしょ。あれ、比喩じゃなかったってこと」
理屈は通っているように聞こえた。だが、何かが違う気がした。
うまく言葉にできない違和感が、腹の底に小さく残っていた。それを口にする前に、フィリアが続けた。
「無意識に呼び出したのね、寝ている間に。制御できないまま出てきたにしては、随分と大人しいけど」
「これが、僕の……召喚?」
「多分ね。あんたの中の、もう一つの色の正体」
「強化の方はまだ何も分かってないのに、召喚だけ先に形になるものなんですか」
「順番なんて決まってないわよ、魔法は。むしろ、無意識のうちに出てくるものほど、理屈より先に形を取るものなの」
フィリアの声には、迷いのなさそうな響きがあった。それでも、その理屈がどこか自分を納得させるためのもののように聞こえたのは、気のせいだろうか。
・・・
「名前、つけてあげたら?」
フィリアが、気だるげな声で言った。
「名前、ですか」
「召喚獣なら、名前があった方がいいでしょ。呼びやすいし」
俺は、もう一度その生き物の瞳を覗き込んだ。
「……ヒスイ」
「へえ」
「瞳の色が、そんな感じがして」
我ながら安直な気もしたが、他に思いつかなかった。
そういえば、これまで何かに名前をつけたことなど、一度もなかった。前世でも、今世でも、誰かの――何かの名付け親になる機会には、一度も巡り合わなかった。思っていたよりずっと据わりの悪い、それでいて悪くない気分だった。
・・・
呼びかけに応えるように、ヒスイと名付けたその生き物が、小さく身を震わせた。分かっているのかいないのか、判断のしようがなかった。それでも、腕の中の重みが、少しだけ深く、落ち着いたような気がした。
「懐いてるじゃない、もう」
「……そう、見えます?」
「見えるわよ。私には目もくれなかったのに」
いつの間にか、卓上には朝食が並び始めていた。フィリアはそう言うと、焼きたてのパンをヒスイに差し出した。ヒスイは、それにも見向きもしない。代わりに、俺の手の方に鼻先を寄せて、催促するように小突いてくる。
「……見事に無視されたわね、私」
「な、なんか、すみません」
「あんたが謝ることじゃないでしょ」
そう言いつつも、フィリアの口元には、面白がるような笑みが浮かんでいた。俺は苦笑しながら、パンの欠片を一つ千切って差し出した。ヒスイは、それを丁寧に、小さな口でぱくりと咥える。
「もう一回、やってみて」
「え?」
「同じことが続くか、確かめときたいの」
言われるまま、もう一切れ差し出してみる。結果は同じだった。フィリアの前には見向きもせず、俺の手からだけ受け取る。三度目も、同じだった。
「懐いてる相手にしか、興味がないってことですかね」
「みたいね。厄介な性格してるわ、まったく」
「僕は、そこも含めていいと思ってます。四六時中構ってこないところとか、向こうのペースを崩さないところとか」
「妙なところで達観してるわね、あんた」
「先生、餌だけじゃ懐いてもらえませんよ。信頼の方が大事です」
「さっきまであれだけ喋ってた人に言われると、妙に説得力あるわね」
からかうような口調だったが、否定はできなかった。俺は黙って、ヒスイの背をそっと撫でた。
・・・
「これから、何をさせればいいんですか」
「さあ。召喚獣がどこまで力を貸してくれるかは、相性次第よ。無理に働かせようとしないこと。あんたに懐いてるからって、都合よく使えると思わない方がいい」
「そんなつもりは」
「ならいいけど」
釘を刺すような言い方だったが、口調自体は柔らかかった。
「じゃあ、当分は普通に懐かせておけばいいんですか」
「普通に、ね。あんたにとってはどこまで普通か分からないけど」
意味深な言い方だったが、それ以上は説明する気がないらしい。フィリアは、それだけ言うと、あくびを一つ噛み殺しながら椅子から立ち上がった。
「今日はもう一度、詳しく観察させてもらうから。覚悟しておきなさい」
「はい」
言うだけ言って、フィリアは自分の眠気に急かされるような足取りで奥の部屋へ戻っていった。扉が閉まる直前、こちらを振り返って小さく笑ったのを、俺は見逃さなかった。
静かになった食卓を見下ろすと、パンの残りは、ほとんどヒスイの胃袋に収まっていた。結局、自分の分の朝食を食べ損ねたことに、今更ながら気づく。
・・・
朝の光の中、俺は腕の中のヒスイを見下ろした。
「……よろしくな、ヒスイ」
小さな声で呟くと、ヒスイは薄目を開けて一瞬だけこちらを見て、また目を閉じた。返事のつもりなのか、ただ眠いだけなのか、それも分からない。でも安心してくれているようだ。
ふと、ノエルのことを思い出した。まだ手紙すら書いていなかったが、今度書くとしたら、このことも伝えてみようか。……いや、どう説明したものか。「小さな白いトカゲが、朝起きたら腕の中にいた」とだけ書いても、きっと半分も伝わらないだろう。
直接会って、この温かい重みを見せてやりたい。
フィリアの「もう一度観察させてもらうから」という一言が、頭の隅に引っかかっていた。今日はきっと、いつも通りの一日にはならない。それでも、憂鬱さよりも、この先何が起こるのか分からない高揚感の方が、今は大きかった。
ヒスイは相変わらず、俺の腕の中で丸くなったまま、朝の光をぼんやりと浴びている。俺はその小さな重みに、朝の光の中で改めて、腹の奥の温かさを確かめるように、そっと手を当てた。
前世で夢見ていた暮らしが、こんな形で叶うとは思ってもみなかった。飼えないまま終わった、と思っていたものが、向こうから勝手にやってきて、居座っている。理屈はどうあれ、悪くない朝だった。




