12 出発、丘の向こうへ
出発の朝は、よく晴れていた。
「忘れ物はないか」
ギードが荷物を何度も確かめる。もう三度目の確認だった。
「大丈夫。父さんが手伝ってくれた濾過器も、ちゃんと入れた」
「そうか……そうだな」
それだけ言うと、ギードは黙って俺の頭をひと撫でした。いつもの「今日も達者だな」ではなく、もっと不器用で、もっと長い沈黙を挟んだ触り方だった。
・・・
「これ、持っていきなさい」
リナが差し出したのは、小さな布袋だった。中には、乾燥させた薬草と、干した果実が詰まっている。
「王都でも、ちゃんと食べるのよ。無理しちゃだめだからね」
「うん」
「それと」
リナは一度言葉を切って、俺の頬に両手を添えた。
「アレン。ここは、いつでも帰ってきていい場所だから。それだけは、忘れないで」
その一言に、俺は不意に喉の奥が詰まる感覚を覚えた。前世では、帰る場所というものを、こんなにはっきりと誰かに約束されたことはなかった気がする。
「うん。分かった」
かろうじてそれだけ答えると、リナは静かに笑って、俺を強く抱きしめた。
・・・
ノーラは、玄関先で腕を組んだまま、こちらを見ていた。
「婆ちゃんは、何も言わないの?」
「言うことなんぞ、もうあらかた言った気がするがね」
素っ気ない言い方だったが、その手が伸びて、俺の頭をひと撫でしたのを、俺は黙って受け止めた。
「体だけは大事にせえ。頭の中身は、まあ、勝手にやるじゃろうから」
「それ、褒めてるの?」
「さあてね」
いつもの調子でそう言うと、ノーラはそれ以上、何も付け加えなかった。それでも、見送りの間際、ほんの一瞬だけ、その緑の瞳が揺れたのを、俺は見た気がした。
・・・
村の通りを歩くと、あちこちから声がかかった。
「無事に行ってこいよ、坊主」
村長のハロルドが、日焼けした顔をくしゃりとさせて笑う。隣に立つマーサも、小さく頭を下げてくれた。表立って親しく話すことは少なかった相手だが、その仕草には、確かな気遣いが滲んでいた。
薬草採りの一件で世話になったオズワルドも、遠目にこちらを見て、軽く手を上げた。村の空気は、あの噂が広まった頃とは違い、今はもう、ただの見送りの温かさに近いものに変わっていた。
・・・
村の入り口には、ノエルが先に来て待っていた。
「遅い」
「そんなに遅れてないだろ」
「気持ちの問題」
軽い言い合いをしながらも、二人ともそれ以上は続けなかった。言うべきことは、もう昨日のうちに、川辺で言い尽くしていた。
「じゃあ」
「じゃあ」
短い言葉を交わし、俺たちは小指を絡めた、あの日の誓いをもう一度、無言でなぞった。それだけで、十分だった。
・・・
村の外れには、ガイルが荷馬車の傍らで、気だるげに待っていた。
「支度はできたか、坊主」
「はい」
「なら行くぞ。俺の馬車が、途中までは付き合ってやる」
思いがけない申し出だった。ギードとリナが深く頭を下げると、ガイルは面倒くさそうに片手を振った。
「大した親切じゃない。どうせ、俺も王都の方に用があるだけだ」
「王都にいる魔法使いのこと、もう少し聞いてもいいですか」
馬車が動き出してから、俺は思い切って尋ねた。ガイルは少し考える顔をしてから、口を開いた。
「名前は、フィリアだ。腕は本物だが、変わり者で人付き合いを避ける。弟子を取らないと言い続けてる女だが……お前の話をしたら、案外あっさり会う気になったよ」
「フィリア、さん」
その名前を、俺は口の中で一度繰り返した。まだ会ったこともない相手なのに、なぜか妙に、覚えておかなければならない気がした。
「どんな人物か、詳しくは会って確かめろ。俺の言葉で先に色をつけるのも、公平じゃないからな」
「そういえば、村では誰も魔法を使ってるところ、見たことないです」
「そりゃそうだ。系統の適性は誰でも診断されるが、実際に使えるようになるには、どこかの魔法学校か、専門の師匠に、ちゃんと教わる必要がある。村にそんな伝手がある家は、まずないからな」
「王都には、魔法学校があるんですか」
「ヴァイスハイムには、大きいのが一つある。まあ、坊主が行くのはそっちじゃなく、フィリアの家の方だろうけどな」
ガイルはそう言うと、それきり黙って御者台に向き直った。気だるげな背中は、以前と何も変わっていなかった。
・・・
荷馬車の荷台から、俺は少しずつ遠ざかっていく村を眺めていた。
四方を囲む丘の稜線が、記憶よりもずっと低く見えた。あの日、丘の中腹から見下ろした村は、今よりずっと大きく思えたはずなのに。
――丘の向こうには、なにがあるんだろう。
四歳の頃、そう思っていた自分の声が、不意に耳の奥で聞こえた気がした。あの時の問いに、今、ようやく答えが出ようとしている。
丘の稜線が、荷馬車の速度に合わせて、ゆっくりと後ろへ流れていった。振り返れば、まだ手を振る家族と、ノエルの小さな影が見えた。
俺は最後にもう一度、大きく手を振り返した。
村が完全に見えなくなるまで、俺はずっと、その方向を見つめていた。




