10 静かな一年、届いた返事
家族会議のあった夜から、村の空気が完全に元通りになるまでには、思っていたよりも時間がかかった。
最初の数週間は、井戸端の噂話も、遠巻きな視線も、なかなか収まらなかった。それでも、日々は変わらず続いていく。畑は種を蒔かれ、芽を出し、また収穫を迎える。人の噂も、そうした季節の巡りに埋もれるように、少しずつ薄れていった。
「最近、あんまり見られなくなった気がする」
ある日、水汲みの帰り道でそう言うと、ノエルは肩をすくめた。
「そりゃ、あんたが毎日普通に過ごしてるからでしょ。何も起きなきゃ、そのうち誰も気にしなくなる」
「ノエルは、あの時から態度変わらなかったな」
「今更変える意味ないでしょ。知ってたことだし」
素っ気ない言い方だったが、その一言に、俺は密かに救われていた。
・・・
季節が一巡りする間、俺の暮らしは、表向きはこれまでと大きく変わらなかった。
朝はギードの畑仕事を手伝い、昼はノエルとの稽古、夕方には家の手伝い。ノーラは相変わらず皮肉屋のまま、時折思い出したように昔語りを聞かせてくれる。ただ、以前と違うのは、力の使い方について、家族全員が少しだけ神経質になったことだった。
「今日は誰も見てなかったか」
畑仕事の後、ギードがそう尋ねるのが、いつの間にか日課のようになっていた。
「多分、大丈夫」
「多分、じゃなくてよ」
「……大丈夫」
言い直すと、ギードは満足そうに頷いて、また鍬を担いで畑に戻っていった。窮屈だと思う気持ちもあったが、それが両親の不安の裏返しだということも、俺には分かっていた。
ノエルとの稽古も、以前より慎重なものに変わった。人目のない場所を選び、力を使わずに済む範囲での組み手が中心になる。物足りなさを覚えることもあったが、それを口にする気には、なぜかなれなかった。
「つまらない?」
ある日、ノエルがそう聞いてきた。
「そんなことないよ」
「噓つけ。顔に出てる」
見抜かれて、俺は苦笑いするしかなかった。
「本当の力、また使えるようになるといいね」
ノエルの言葉に、俺は素直に頷いた。それが、今の自分にできる、唯一の返事だった。
・・・
夏の終わり、ノエルが不意に神妙な顔をしてこう言ったことがある。
「もし、本当に王都に行くことになったら」
「まだ決まってないよ、そんなの」
「でも、いつかは行くんでしょ。師匠を探すって、そういうことだし」
図星だった。俺は言葉を探したが、結局何も見つからなかった。
「行っても、忘れないでよ」
「忘れないよ」
「口だけかもしれないじゃん」
「じゃあ、約束する」
「……そう」
ノエルはそれだけ言うと、いつもの調子で剣の稽古に話を戻した。それでも、あの一瞬の神妙な顔だけは、しばらく俺の中に残り続けた。
・・・
ノーラは、相変わらず多くを語らなかったが、時折、思いがけない形で気遣いを見せた。
「王都に行くことになるなら、これくらいは覚えておいた方がいいじゃろう」
ある日、ノーラは俺を呼び止めて、荷物のまとめ方や、旅の途中で見分けられる野草の知識を教えてくれた。孫への教育というよりは、まるで自分の若い頃の記憶をなぞるような、どこか懐かしそうな口ぶりだった。
「婆ちゃんも、昔は旅してたの?」
「さあて、な。忘れちまったよ」
いつもと同じ、はぐらかすような答えだった。それでも、その手つきの確かさだけは、単なる聞き伝えの知識ではないことを物語っていた。
・・・
村を出て師匠を探す、という方針が決まってから、季節は一つ丸ごと巡っていた。
ガイルが次にこの村を通るという確証は、村長の記憶頼みでしかなかった。だからこそ、ギードは商人を通じて、行商人仲間の間で回る言葉づての連絡網に、一つの依頼を託していた。
「流れのガイルという魔法使いに、レイフ村のギードから、話がある――そう伝えてくれ、と頼んだんだ」
「それで、届くの?」
「正直、分からん。行商人の間を伝って回る言葉が、どこまで正確に伝わるものかも」
ギードの声には、確信のなさが滲んでいた。それでも、他に取れる手段がない以上、待つしかなかった。
秋が終わり、冬が来て、また雪が溶ける頃になっても、返事らしきものは何も届かなかった。
「今年は駄目だったか」
ある晩、ギードがぽつりと呟いた。誰に向けた言葉でもなかったが、居間にいた全員がその意味を理解していた。
「気長に待つしかないでしょ。あの人、気だるげだけど、義理は通す方みたいだったし」
リナがそう言ってギードの肩を叩くと、ギードは短く笑って頷いた。
・・・
その日の午後、村の入り口が久しぶりに騒がしくなった。
「行商の一団が来たぞ!」
子供たちの声に、俺は思わず駆け出した。心当たりが一つしかなかったからだ。
広場に集まった一団の中に、見覚えのある人影があった。砂色の髪、気だるげな灰色の瞳。あの日から二年以上が過ぎているというのに、ガイルの佇まいは、記憶とほとんど変わっていなかった。
「坊主、大きくなったな」
「……覚えてたんだ」
「値切り交渉の勘がいい坊主のことは、忘れんもんさ」
ガイルはそう言って、片眉を上げた。それから、懐から一枚の折られた紙を取り出す。
「ギードって親父さんからの言葉、確かに聞いた。回り道でずいぶん時間がかかったが」
「本当に来てくれたんだ」
「義理は通す性分でね。それに――」
ガイルは一度言葉を切って、俺の顔をまじまじと見た。
「あの時感じた妙な気配、まだ覚えてる。話を聞いて、少し興味が湧いたのも本当だ」
その言い方に含みを感じたが、深く追及するより先に、俺はギードとリナを呼びに家へと走った。
・・・
その夜、我が家の居間には、久しぶりに客人を迎えた緊張が漂っていた。ガイルは出された茶を面倒くさそうに飲みながら、話を切り出した。
「率直に言うと、俺自身は、こういう相談を受けるほどの腕じゃない。専門でもない」
「それは……」
ギードの声が僅かに沈む。ガイルはそれを手で制した。
「だが、心当たりはある。王都に、腕は立つが変わり者で有名な魔法使いがいる。専門は――まあ、あれこれ手広くやってる女だが、少なくとも俺よりは、坊主の力を見てやれるはずだ」
「王都、か」
「気が向いたら、紹介状くらいは書いてやる。判断は、お前さんたちに任せる」
「その人は、どんな人なんですか」
俺が尋ねると、ガイルは少し考える顔をした。
「どんな、と言われても難しいな。腕は確かだが、変わり者だと専らの評判だ。弟子は取らない、と公言してたはずだが……まあ、会ってみりゃ分かる」
「会ってくれるでしょうか」
「そこは俺の腕じゃなく、坊主自身の運次第だ」
ガイルはそう言って、面倒くさそうに肩をすくめた。頼りになるのかどうか、正直判断がつかなかったが、それでも今の状況で得られる唯一の手がかりだった。
ガイルの言い方は素っ気なかったが、その紹介状を書くという一言に、確かな重みがあった。ギードとリナは目を見合わせ、そしてノーラも、静かに頷いた。
「お願いします」
俺がそう言うと、ガイルは面倒くさそうに、それでも確かに口の端を上げた。
「まあ、そう畏まるな。ただの紹介状一枚だ」
・・・
その夜、床につく前、俺は今日一日の出来事を、ゆっくりと振り返った。
一年近く待ち続けた返事が、こんな形で届くとは思っていなかった。王都、という言葉の重さは、まだ実感として掴めていない。それでも、これまで漠然としていた「村を出る」という選択が、初めて具体的な輪郭を持って迫ってきているのを感じた。
隣の部屋からは、リナとギードの話し声が、途切れ途切れに聞こえてくる。旅の準備には何が必要か、誰に見送りを頼むか、そんな現実的な話ばかりだった。それでも、その声の一つ一つに、隠しきれない不安と、それを上回る決意のようなものが混ざっているのが分かった。
前世では、進路や転職を決める時、こんなふうに誰かが本気で一緒に悩んでくれることは、一度もなかった。全部、自分一人で決めて、一人で抱えるものだと思っていた。今度は、そうではないらしい。
窓の外では、雪の残る庭先を、月明かりが淡く照らしていた。あの丘の向こうに憧れていた頃の自分を思い出しながら、俺は静かに目を閉じた。




