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第8話 対面

 早朝のランニングから帰還した栞は、少しだけ足取り軽く、コヨミの豪邸へと戻ってきた。


 かつての宿敵であり、抹殺対象としか見ていなかったマフィアのボス。


 だが、実際に争いのない場で嬭苑(ジエン)と対等に接してみれば、彼も血の通った一人の人間なのだと知ることができた。


「ただいま」


 広々とした玄関の扉を開け、シューズを脱いで丁寧に揃える。

 ふと、栞の脳裏に考えがよぎる。


(もし元の世界で、あのまま何の邪魔も入らず嬭苑と殺し合っていたら――?)


 どちらかが殺し、どちらかが殺されていた。

 以前なら、それが当然の結末だと思っていた。


 しかし、今は違うと断言できる。


 彼という人間を知り始めたからこそ、栞の中で『彼と背中を預け合う未来』が明確な輪郭を持ち始めていた。


(……元の世界より、ずっと平和だな)


 今まで見てきた、血みどろの残酷な景色。

 動かなくなった仲間たちを、数え切れないほど看取ってきた。


 だが、栞が心の奥底で一番引きずり続けている暗闇は、後悔でも己の弱さでもない。


 『自分を生んでくれた両親の顔すら、思い出せない』ことだった。


(もう、永遠に会えないんだ。今更考えるだけ無駄か……)


 小さくかぶりを振り、感傷を振り払う。


 栞は何食わぬ顔を取り繕い、リビングの扉を開けた。


 テーブルに手際よく朝食を並べる嬭苑。

 まだ頭が起きていないのか、ソファで丸くなって目を半開きにしているパジャマ姿のコヨミ。そして、広いキッチンには見知らぬ老紳士が立っていた。


「おかえりなさいませ、灰羽栞(はいばね しおり)様。貴女のことは、お二人から伺っております」


 短く無造作に整えた白髪に、細いフレームの眼鏡。


 黒のテーラードスーツに白シャツと黒ネクタイという、まさに執事を絵に描いたようなフォーマルな出で立ちの男だった。


「貴方は?」


「申し遅れました。私はここで、コヨミ様の使用人として働いております、ユウヅキと申します。以後、お見知りおきを」


 優雅にお辞儀をするユウヅキ。

 話によれば、多忙(かつ家事能力が皆無)なコヨミのために毎朝通い、家事全般をこなしているらしい。


 今日の絶品朝食も、ユウヅキが作ったものだと嬭苑が横から補足した。


「さぁ、朝食にしましょうか」


 栞はソファで溶けかかっているコヨミを優しく抱き起こし、ダイニングテーブルの自分の隣へと座らせた。


 しかし、コヨミは箸を持とうともせず、「ふにゃぁ……」と気の抜けた大きな欠伸をするばかりだ。


「困った歌姫だ」


 栞は小さくため息をつくと、仕方なくスプーンを手に取った。


 まるで赤ん坊に離乳食を食べさせるような感覚で、温かいスープをすくい、コヨミの口元へと運ぶ。


 あーんと口だけを開けて飲み込んだコヨミは、寝ぼけ眼のまま、とろけるような甘い笑みを浮かべてすり寄ってきた。


「えへへ、しおりちゃん……好きぃ~」


「…………自分で食え」


 冷たく突き放すような言葉とは裏腹に、栞の耳の先はほんのりと赤く染まり、その手は次の一口を丁寧にすくってコヨミの口へと運んでいる。


 「ん~、イヤイヤ~」と甘えて駄々をこねるコヨミと、文句を言いながらも結局は世話を焼いてしまう栞。


 そんな二人の姿を、向かいの席に座るユウヅキと嬭苑が「もうあんなに懐いたのか」と顔を見合わせ、微笑ましく(あるいは面白そうに)眺めていた。


 ■■■


 約一時間が経過して。

 ようやく完全に目が覚めたコヨミは、いつも通りの無邪気で天真爛漫なアイドルへと復活を遂げていた。


「コヨミちゃん、エネルギーチャージ完了! 元気十分!」


 パジャマから可愛らしい私服へと着替えた彼女は、壁の時計を見上げてんーっと唸る。


「今日は夜からラジオ配信のお仕事があるから……。それまでの間、何してようかな~」


 コヨミは顎に手を当て、壮大な妄想を膨らませ始めた。


「お買い物でしょー、いや新作スイーツ巡り? でもでも、ゲーセンとか遊園地ではしゃぐのもありだなぁ~~!」


 リビングを一人でぐるぐると歩き回りながら、ぶつぶつと早口で喋り続ける。


 彼女の脳内では今、栞と嬭苑という最強のボディーガード二人を引き連れ、エデンの街を遊び尽くす最高に楽しいビジョンが広がっていた。


「えへ、えへへへへっ~…………」


 やがて、アイドルらしからぬ。だらしないニヤけ顔を浮かべ、下品な笑い声を漏らし始めるコヨミ。


 そんな彼女の奇行を、キッチンから遠巻きに見守る二つの影があった。


 並んでスポンジと布巾を持ち、一緒に朝食の皿洗いをこなす二人。


「なんかよからぬ事でも考えてるのか、あの歌姫は」


別管他(そっとしとけ)


 初めて見るアイドルの崩壊した姿に目を点にする栞と、すべてを悟ったような仏の顔で皿を洗う嬭苑。


 殺し合いから始まったはずの二人は今、完全に意思疎通(シンクロ)し、『今は絶対に話しかけないでおこう』と無言で頷き合うのだった。


 するとそこへ、洗濯を終えたユウヅキがリビングへと戻ってきた。


「お二人とも、わざわざありがとうございます」


「いいんですよ」


 ニコリと目を細める老執事に、嬭苑もまた爽やかな笑みを返す。


 そして、隣で濡れた食器を拭き終えた栞から皿を受け取り、流れるような動作で棚へと片付けていく。


「そうだ、ユウヅキさん。昼飯は己が作りますよ」


「それは、助かります」


 にぃーと、得意げに口角を上げる嬭苑。その言葉を横で聞いていた栞の脳内に、けたたましい警報が鳴り響いた。


(コイツ、ここで有能アピールをッ!?)


 栞は焦った。自分はただ居候させてもらっているだけで、コヨミにもユウヅキにも、まだ何一つ恩返しができていない。


 このままでは、同居人としての面目が丸潰れだという強烈な劣等感が込み上げてきた。


「いえッ! お昼は、私が料理します!!」


「はァ!? ちょ、オマッ……!」


 栞は嬭苑の言葉を強引に遮ると、拭き終えた大量の皿を、有無を言わさぬ圧で彼の腕の中へドンッと押し付けた。


 そして、ユウヅキへ向けて切実な熱い眼差しを送る。


「お願いします! 私、まだ何も返せていないんです!」


「テ、テメェ……!」


 突然の仕事横取りに怒りを露わにしつつも、押し付けられた皿のタワーを落とさないよう、必死にプルプルとバランスを取る嬭苑。


 火花を散らす二人。そのただならぬ気迫を前に、ユウヅキは腕を組み、ふむと顎を撫でた。


 やがて何か名案を思いついたのか、ピンと指を立てて二人を交互に見据える。


「……ならば、こうしましょう」


 ユウヅキの眼鏡の奥が、悪戯っぽく光った。


「お二人で、()()をしていただくのです」


「「…………!」」


 その提案に、栞と嬭苑の間にバチバチと殺気が走る。


 一方、リビングの奥では――『何か最高に面白いものが見れる』と直感したコヨミが、目をキラキラと輝かせて。


 特等席で三人のやり取りをじっくりと観察し始めるのだった。


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