第2話 遭遇
「――――」
誰かの歌声が、遠く離れた場所から微かに聞こえた。
暗く、深い闇の底。
歌詞を正確に聞き取ることはできない。だというのに、その声に耳を傾けているだけで、空洞だった心がひたひたと満たされていくような錯覚を覚えた。
そして――どうしようもないほどの、愛おしさと哀しさが込み上げてくる。
「……っ!」
灰羽栞は、弾かれたように上半身を起こした。
息苦しいわけではない。だが、胸の奥がギュッと締め付けられるような痛みに襲われていた。
栞は心臓部に右手を当て、ゆっくりと深呼吸をして跳ねる心拍を落ち着かせる。
「……あの声は、一体」
意識の混濁した中で聞いた、あの優しく、切実な歌声。
それが何だったのかは分からない。
ただ、気がつけば、彼女の頬を一筋の涙が伝い落ちていた。
「なんで、涙が……」
悪人を殺め、己の命すら投げ出そうとした時にすら動かなかった感情。
栞は乱暴に目元を擦り、己の不可解な反応を振り払うように周囲へと視線を巡らせた。
「え?」
そこに広がっていたのは、見慣れた電車の車内――いや、似て非なる空間だった。
乗客の体を支えるはずのつり革は、どこにも繋がっていない光沢のある輪っかとして空中に浮遊している。
天井から伸びる装置と輪の間に物理的な接続はなく、わずかな隙間の空間が蜃気楼のように陽炎めいて歪んでいた。
「コレ、もしかして磁力なのか……?」
隊員としての冷静さを取り戻した栞は、座席から立ち上がり、浮遊する輪と装置の間にそっと手を通す。
微弱な振動。空間が歪んだ部分に触れた指先が小刻みに震え、目に見えない力場に挟まれるような、奇妙な感触が伝わってきた。
その未知のテクノロジーを前に思考を巡らせるうち、急速に頭の整理がついていく。
「……ん?」
違和感。いや、決定的な矛盾。
自分は中国マフィア・白蓮のボス、嬭苑を抹殺するため、上海の高層ビルへ突入したはずだ。
撤退命令を無視して最上階へ向かい、嬭苑との死闘が始まろうとしたその瞬間――証拠隠滅のミサイルが着弾し、炎に呑み込まれた。
「……ハズだったんだが」
これまでの経緯と、目の前の異常なSF空間。
現状の疑問と問題が一気に押し寄せ、彼女の脳がキャパシティの限界を迎えようとしていたその時だ。
「……!」
背後の貫通路の扉が、油の切れたような音を立てて開いた。
栞は反射的に身構え、振り返る。そして、大きく目を見開いた。
「あ、お嬢いた」
貫通路から当たり前のように現れたのは、呑気にあくびをしている中国マフィアのボス――嬭苑だった。
「……誰がお嬢だ」
「そう怖い顔すんなって」
相変わらずの冷徹な返しに、嬭苑は短いため息をついて首を鳴らす。
「えーっと、武神さんもいるってコトはァ……ここ、天国?」
彼は顎に手を添え、本気で首を傾げている。その姿に、栞は即座に否定の言葉を投げつけた。
「天国なわけないだろう。感触も、痛みもある。第一……」
暗緑色の瞳を鋭く細め、眼前の男を真っ直ぐに射抜く。
「お前がここに居る時点で、天国じゃない」
「おぅ、それどういう意味だコラ」
嬭苑が喧嘩腰で歯ぎしりを鳴らし、ズカズカと距離を詰めて人差し指を突き立てた。
「大体、天国でも地獄でもねェなら、ココはどこなんだよ!」
「知るわけないだろう。私もついさっき起きたんだ」
いよいよ二人が至近距離で睨み合い、今にも第二ラウンドの死闘が始まろうとした、その瞬間だった。
「「ッ!?」」
二人の頭上。電車の天井を分厚い鉄板ごと貫通して、巨大な刃先が突如として突き出された。
一早く異常に気づいた嬭苑が、栞の着るシャツの襟首を乱暴に掴む。
そのまま自身の体重を後ろへ倒し、彼女を道連れにするように大きく後退した。
「……おい、私は別に助けてくれなど」
「勘違いすんな。オマエは、己が殺すんだ。こんなトコで勝手に死なれちゃ困る」
前方車両へ退避した二人が、天井に突き刺さったままの凶刃を見つめる。
すると、ギギギッ、と鉄を強引に引き裂く嫌な音が響き、刃が上部へと引き抜かれた。
それと同時、かつて経験したことのない、次元の違う「殺気」が車内を制圧する。
直後、爆音と共に天井が完全に八つ裂きにされ、一つの影が車両内へと落下してきた。
もうもうと舞い上がる白い粉塵の向こう側。視界が晴れるにつれ、異名を持つ最強の二人は、目の前の光景に息を呑んだ。
「なッ……!」
「那是啥……?」
そこに佇んでいたのは、およそこの世の生物とは思えぬ異形の化物だった。
鋭利な棘が群生する兜のような頭部。
層状の分厚い装甲に覆われた、灰色と黒の禍々しい筋肉質の巨体。
腹部には、脈打つように妖しく発光する金色のエネルギーコアが埋め込まれている。
そこから伸びる異様に長い両腕は、肘から先が高圧縮された紫色のエネルギー体で構成されており、右腕は大剣そのものへと変異していた。




