第1話 正義
赤い絨毯が敷かれたエレベーターが静かに、しかし急速に最上階へと上昇していく。
鏡張りの壁に映るのは、全身を黒基調の重厚なレイヤードスタイルで包んだ一人の女。
差し色のワインレッドのシャツが、これから流れる血を予感させるように妖しく揺れていた。
黒髪のハイポニーテールを小さく揺らし、女――灰羽栞は、右手に握った大口径拳銃の感触を確かめる。
カチャリ、と重厚な金属音が狭い空間に響く。
マガジンをグリップ底部から叩き込み、スライドを引いて初弾を薬室へと送り込む。
(何のために、私は今を生きているのか――)
去来する思考を、冷徹なノイズとして脳内で切り捨てる。
日本軍特殊部隊の精鋭であり、『武神』の異名を持つ彼女は今、上層部からの撤退命令を完全に無視していた。
共に任務を遂行していた隊員たちを半ば強制的に退避させ、ただ一人。世界の脅威たる「五大マフィア」の一角――中国マフィア『白蓮』のボスを抹殺するため、敵の本拠地へと突入している。
チーン、と電子音が鳴り、エレベーターが最上階に到達したことを告げた。
深く、静かに息を整えた栞は、ゆっくりと開く扉の向こうへ踏み出す。
そこは、広大な首領室だった。
足元には重厚なカーペット、壁には冷徹な価値観を示すような名画の数々。そして、巨大なガラス窓を背に、黒檀のデスクに肘をつく一人の男がいた。
金属フレームと人工筋肉が精巧に噛み合う右腕の機械義手。
不敵な笑みを浮かべるその男こそ、『拳王』の異名を持つ白蓮のボス、嬭苑だった。
「よォ、待ってたぜ」
嬭苑は義手をデスクから離すと、左手の人差し指と中指に挟んだタバコを口元へと運ぶ。その刹那――。
鼓膜を鋭く貫く大音響。
嬭苑は目を見開いたまま固まった。彼の視線が、指先に残されたタバコへと落とされる。
タバコは先端から半分以上が綺麗に吹き飛んでいた。
背後の巨大なガラス窓には、一発の弾痕を中心に蜘蛛の巣状の亀裂が走っている。
「おいおい……最期の刻だぞ? わかっているか、嬢ちゃん」
黄色みを帯びた暗緑色の瞳が、獰猛な獣のように鋭さを増す。その視線の先では、大口径拳銃の銃口を微動だにせず突きつける栞が佇んでいた。
「もう時間が無いのは分かっている。だが、お前を抹消するのが私の任務だ」
深い紫みの青色の瞳を鋭く光らせ、彼女は低く冷淡な声を返す。
嬭苑はクックッと喉を鳴らして笑い、オフィスチェアから立ち上がると、短くなったタバコを灰皿へ容赦なく押し付けた。
「任務、ねぇ。人に我が身を捧げる生き方は、己の性に合わなくてね」
白シャツにブラウンのジレを纏った巨躯が、微かに沈み込む。
正中線を強固に守り、前後左右どこから攻めても一切崩れない――完璧な武の構え。
「放马过来」
その言葉と同時に、栞の目つきがさらに鋭さを増す。
トリガーにかかった指に力が込められようとした、その瞬間だった。視界から、嬭苑の姿が一瞬で掻き消えた。
(――!?)
そう認識した時には、すでに彼は眼前にまで肉薄していた。
反応の遅れた彼女の顔面へ向けて、嬭苑の機械義手から放たれた必殺の正拳が突き出される。
(――終わりか)
だが、一秒にも満たない刹那。拳を放った嬭苑の顔に、奇妙な違和感が走る。
「真的吗……」
驚き、そして狂気的な歓喜の混じった声が男の口から漏れた。
嬭苑の拳は、栞の顔面を砕いてはいなかった。
彼女は、信じがたい反応速度で大口径拳銃のぶ厚い銃身を盾にし、その肉体破壊の一撃をミリ単位で受け止めていたのだ。
遅れて、硬質な金属音が室内に火花を散らす。
「危うく頭蓋骨を粉砕されるところだった。……当たっていればの話だけど」
栞の冷徹な挑発に、嬭苑の口元が狂おしく吊り上がる。
彼は瞬時に一歩引き、空気を切り裂く矢のごとき鋭さで右脚を振り抜いた。
彼女の視界の中で、嬭苑から放たれる殺気が夜闇のように周囲を塗り潰していく。その闇の奥で、彼の両目だけが怪物のように不気味に爛々と輝いていた。
(防御は間に合わない。殺られる――!)
しかし、唐突に。栞の知覚する世界が極限まで引き延ばされ、スローモーションへと変わった。
部屋全体が、世界の終わりを告げるような鮮烈なオレンジ色の光に包まれていく。
嬭苑の背後――巨大なガラス窓を突き破り、すべてを呑み込む炎の津波が迫っていた。
(証拠隠滅のミサイル。もう、着弾したのか……)
栞は自身の死を確信した。しかし、痛みを感じる暇さえなかった。
圧倒的な熱量と爆風が、二人の肉体を等しく、白い光の中へと連れ去っていった。
* * * * *
――翌日。
全世界のメディアは、中国・上海で起きた大規模な爆発事故を大々的に報道した。
国際犯罪組織、中国マフィア『白蓮』の本拠地が壊滅。
現場からはボスの『嬭苑』、および作戦を指揮していた日本軍特殊部隊のリーダー『灰羽栞』の遺体は発見されず――両名ともに、爆発の規模から「死亡判定」と処理された。




