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名、御子がこの世界に降り立った瞬間から誰も呼ばなくなったもの。御子が両親より授かった個人の証明。
「御子様の、名?」
「この世界に私の名を知る人はいないわ」
誰も彼もが彼女を、重すぎる期待と畏怖と同情を込めて呼ぶ『御子』という役職。喚ばれた瞬間からそれ以外で彼女を指すものがこの世界にはないのだ。
「存在さえも、私は自由にならない」
しかしもう彼女はこの世界の人間に彼女を指す名を呼んで欲しいとは思えなかった。ただ当て付けのようにそう口にする。
戸惑う騎士団長を尻目に御子が睨みつけた扉がゆっくりと開かれた。先触れもなくやって来た者達を御子と獣共が見据える。
室内にじわりと緊張が走った。やってきた王と待ち構えていた御子の視線がぶつかり絡み合う。このまま誰もが次の一手を打たないかと思う程の時間が流れたが、王が意を決して口を開いた。
「御子殿」
御子は口に僅かな笑みを乗せたが、次には氷のように表情を凍てつかせて色のない瞳で王を見据えた。
「あなたの要求は出来る限りのもう。我等は貴殿の働きに報いなければならない義がある」
「私の望みはただひとつ」
「しかし、それは……」
「そう、出来ない」
堂々巡りの主張の妥協点を見いだせぬままに二人は対峙した。御子に侍る穢れた獣共は姿勢を低く保ち今にも襲いかからんばかりに唸る。
「ならば、私を自由になさい」
「御子殿……仮にこの国から出たとて、安全とは言い難いぞ」
「そうね。今や私が邪神のようなもの」
発覚から数時間、御子の中に邪神がいる事を知るのはまだこの国の一部ではあるがそれも時間の問題だろうと御子は思った。邪神を身に封じていると知れたあとの人々の反応など用意に想像出来ると、御子は過去を思い出す。
誰もが絶望していた。誰もが彼女に一縷の望みを託した。そんな時を十年駆け抜けた。
「始まりの国アバロンの王よ」
格式張った話し方を覚えたのはいったいいつだったのか。迷って憎んで、いまだ躊躇いながら、彼女は少し疲れたと口に出さぬまま思った。
意思を押し通すと言うのは体力が必要なのだ。すり減った彼女の体力は容易に諦めという選択を選ばせようとする。
「私は、世界にひとつ予言をしよう」
様々な選択が彼女の前には広がっていた。どれもが彼女の望み通りはならず、打った手立ても彼女の思惑を外れた。今もっとも彼女にとって楽な選択肢は何か?
「私を封印してもこの世は」
御子はまさに、それを答えとすべく。
「必ず滅びる」
うすらと笑みを浮かべた彼女を誰もが何も言えぬままに、あとはどれだけ語ろうとも御子が口を開く事はなかった。