第五話 謁見
第一章 海底世界
第五話 謁見
口に出した瞬間、カイは「しまった」と思った。
――この伝え方では、まるで告白ではないか!
言いたいこと自体は間違っていない。だが、どう考えても伝え方が悪い。
どう弁明しようかと、あたふたするカイに向かって、マールは一言だけ告げた。
「ありがとう! カイ」
幸いにも、マールにはしっかりと伝わっていたらしい。
それにしても、ありがとうなんて言われる筋合いは全くない。
むしろ、感謝したいのはこちらのほうだ。
――カイのほうが、まだまだ言い足りないくらいだった。
◇
食事を済ませたところで、カイはふと思い出した。
「……」
――一銭も持っていない。
久しぶりに味わった料理は、すでに腹の中。
財布は空っぽどころか、そもそも存在すらしていない。
本日二度目のあたふたをしているカイを見て、マールは何かを察したようだった。
「私が出すから、心配しないで」
「……ごめん」
一人暮らしなのだから、生活費だって決して余裕があるわけではないだろう。
それなのに、女性に食事代を払わせてしまった。
少し古い考え方なのかもしれない。
それでも今のカイは、自分があまりにも不甲斐なく思えて、どうしようもなく項垂れるしかなかった。
「そんなに気にしなくていいって」
マールは笑っていた。
どうやら、王城までは彼女も同行してくれるらしい。
◇
王城までは歩くと時間がかかるため、イルカーを使うことになった。
イルカー。
それは、イルカに手綱とサドルを取り付けた、この世界特有の乗り物だ。
昔から人々の移動手段として重宝されてきたらしい。
「……これに乗るの?」
「うん。怖くないよ」
恐る恐るイルカーに跨る。
すると、不思議な浮遊感が身体を包んだ。
手綱を握る。
「行くよ!」
マールの声と同時に、イルカが勢いよく泳ぎ出した。
「うわっ!」
ここ、マリネアには、ほとんどの道に水路が用意されている。
イルカーは、その水路を駆け抜けるようにして街中を進んでいく。
その速度は凄まじい。
地上世界のバイク並み……なのだろう。
――乗ったことはないけど。
しかし、速度のわりに乗り心地は不思議と快適だった。
問題があるとすれば――
「うわっ、冷たっ!」
水飛沫だ。
顔面からシャワーを浴びているような感覚に、カイは反射的に息を止める。
「ごめん! ちょっと速かったね!」
「……ちょっと?」
どうやらマールにとっては、この程度の速度は普通らしい。
そんなやり取りをしながら、カイはふと、ある疑問を抱いた。
そういえば――
この環境に慣れすぎていて、今まで考えもしなかった。
なぜ、自分たちは普通に呼吸ができているのだろう。
カイは頭上を見上げた。
空の手前。
そこには、街全体を覆うように、ドーム状の薄い膜が張られていた。
「あれが……結界?」
疑問をマールに投げかける。
「ううん。あれは結界じゃなくて、オーシャンドーム」
マールは頭上を見上げながら答えた。
「あそこを出ると、普通の深海が広がってるの」
「じゃあ……」
「構造としては、海の中に結界が張ってあって、その結界の中にオーシャンドームがある。そして、その中に海底王国が広がっているの」
「……」
カイはしばらく黙った。
「なんともまあ……ややこしい話だな」
「私も最初はそう思ったよ」
マールが笑う。
「そういえばさ」
カイは別の疑問を口にした。
「俺たちの他に、人間はいるの?」
「結構いるよ」
「結構?」
「うん。そもそも、ここ海底王国の文明を築いたのは人間だっていう説があるくらいだもの」
「……へえ」
意外だった。
自分と似たような境遇を持つ人間は、思っていたよりもずっと多いらしい。
細かな部分こそ違うものの、ここで暮らしていると、ほとんどの常識は地上の人間社会と変わらない。
食事をして。
働いて。
人と話して。
笑って。
――生きている。
そんな当たり前の光景が、カイには少しだけ新鮮だった。
◇
それから四十分ほど。
「見えてきたよ」
マールの声に顔を上げる。
遠くに、大きな城壁が見えてきた。
「……あれが王城?」
「そう」
この位置からでは全体像を掴むことはできない。
それでも、かなり巨大な城であることだけはわかった。
イルカーから降りたカイは、自分の服を見て思わずため息をついた。
――びしょ濡れだ。
髪からは水滴がぽたぽたと落ち、服もすっかり水を吸っている。
「……ひどい目にあった」
そう呟きながら隣を見る。
「……あれ?」
不思議なことに、マールはほとんど濡れていなかった。
あれだけの水飛沫を浴びたはずなのに、髪も服もまるで濡れた様子がない。
「なんでマールは濡れてないんだ?」
「え?」
マールは自分の服を見下ろす。
「……本当だ」
「本当だ、じゃないだろ」
カイは呆れたように言った。
「俺なんて全身びしょ濡れなんだけど」
「まあ……カイが後ろに乗ってたから、水飛沫が全部そっちに行ったんじゃない?」
「そんなわけあるか……」
納得できないまま、カイは濡れた髪を手で軽く払った。
一方、マールはイルカーに何かを与えていた。
「……それ何?」
「ご褒美の秋刀魚」
「秋刀魚?」
カイはイルカーを見つめる。
イルカが嬉しそうに秋刀魚を食べている。
「この世界でも魚介類を食べるんだな」
「うん」
「しかも……なんか主食として食べてない?」
「まあ、そうだね」
「共食いとかにはならないの?」
「海で獲れる食べ物なんて、魚介類くらいしかないじゃない」
マールは少し考えてから続ける。
「ああいう人たちは、遥か昔からこの地に住んできた人間が進化していった姿だから、魚介類を食べることには、あまり抵抗を感じないみたい」
「……なるほど」
新しい事実が、次々と増えていく。
この世界の歴史を勉強してみるのも面白そうだ。
昔から、勉強自体は嫌いではなかった。
誰も自分に構ってくれなかったあの頃。
本だけは、自分に平等に物事を教えてくれた。
どんなことを尋ねても、拒むことなく答えてくれた。
――本は、カイにとって数少ない友人だったのかもしれない。
「行くよ、カイ」
「……ああ」
考え込んでいたカイは我に返り、マールとともに正門へ向かう。
正門の前には、二人の衛兵らしき人物が立っていた。
二人の胸には、それぞれバッジがついている。
赤い光を放つそのバッジの中央には、髭を生やした老人の姿が形取られていた。
「……どこかで見たような顔だな」
そんなことを考えていると、衛兵の一人が口を開いた。
「要件を述べよ」
マールが一歩前に出る。
「この人を、プロテウス様に会わせたいんです」
「だ――」
衛兵が何かを言いかけた。
しかし、その瞬間。
もう一人の衛兵が、何かに気づいたように、即座に耳打ちする。
「……」
「……」
二人はしばらく小声で話し合っていた。
やがて、片方の衛兵が門を開けると、そのまま城内へ走り去っていった。
「現在、確認を取っておりますゆえ、しばらくお待ちください」
「わかりました」
それから、しばらく待つ。
やがて、先ほどの衛兵が戻ってきた。
そして、また二人で何やら話し合う。
「……?」
カイは不安げに二人を見つめる。
やがて――
「確認が取れました。どうぞ、中へ」
「え?」
まさか。
これほどあっさりと通れるとは思っていなかった。
カイは驚きながらも、衛兵の一人とともに正門をくぐろうとする。
そのときだった。
「……あれ?」
マールの足が止まっていることに気づいた。
「マール?」
「ごめんね」
彼女は少し申し訳なさそうに笑った。
「私は王様に会えないから。あとは一人で頑張って」
「……え?」
唐突だった。
さっきまで隣にいた、頼れる存在がいなくなる。
「マール、待っ――」
呼び止めようとした。
しかし、もう遅かった。
もう一人の衛兵によって、門が閉じられようとしている。
「……」
カイは閉じていく門を見つめる。
まあ、無理に連れて行くつもりもなかった。
ここからは、自分一人で頑張るしかない。
そう思う。
それでも――
心細さだけは、どうしても消えてくれなかった。
◇
衛兵に連れられ、右へ、左へ。
まるで迷宮のような王城を進んでいく。
王城の内装は、豪華絢爛というほどではない。
それでも、十分すぎるほど立派だった。
しばらく歩き続け――
「こちらです」
十五分ほど経ったところで、ようやく目的の場所へ辿り着いた。
王室。
周囲の部屋とは明らかに違う。
目の前にあるのは、精巧な装飾が施された、一段と豪勢な扉だった。
衛兵がノックする。
「客人をお連れしました」
「入れ」
扉の奥から、低く落ち着いた声が返ってきた。
その一言だけで、空気が変わった気がした。
衛兵が扉を開ける。
「どうぞ」
促され、カイは室内へ足を踏み入れた。
王室の中も、また一段と豪華だった。
床に敷かれた絨毯。
壁を彩る装飾。
天井から吊り下げられたシャンデリア。
そのどれもが、一目見ただけで上等なものだと素人のカイにもわかる。
そして部屋の奥。
そこには大きな長机があり、そのさらに奥には玉座が置かれていた。
そこに、一人の人物が腰掛けている。
歳は60代後半ぐらいで銀髪。
その人物は、ドラマの中でしか見たことのないような羽ペンを手に、何かを書いている途中だった。
やがて、その人物が顔を上げる。
「その者が……」
たったそれだけの呟きだった。
それなのに――
圧倒される。
声には、確かな威圧感と品格があった。
カイは直感的に理解した。
間違いない。
この人物こそが――
海底王、プロテウスだ。




