第二話 少女マール
第一章 海底世界
第二話 少女マール
「大丈夫?」
亜人だらけの世界。その中にいる女神は、心配そうに少年へ問いかけた。
少女は、少年にとっての希望の光だった。
淡い黄色の長い髪が、水の流れに合わせてゆらゆらと靡いている。
しかし、何よりも少年の目を引いたのは――自分と同じ、エメラルドグリーンの瞳だった。
「よぉ! 嬢ちゃん、どこ行っていたんだ?」
タコ頭のおじさん――改め、タコオヤジが割って入ってくる。
少しの腹立たしさを覚えながらも、少年は我に返った。
「ちょっと下の売店の方に……」
少女はそう答えながら、手に持っていたビニール袋をガサガサと漁る。
やがて、目当てのものを見つけたのか、少女は「あった」とでも言いたげな顔をして、その中から何かを取り出した。
少女の手に握られていたのは、一本の缶ジュースだった。
見慣れないデザインの缶だ。何味なのかもわからない。
缶には、愉快そうな半魚人のイラストがプリントされている。
この世界なら、こんなものが存在していても不思議ではない。
だからこそ、少年は「なんだこれ」と笑う気にもなれなかった。
黙って缶を見つめている少年を、少女が不思議そうな顔で見つめる。
そして少年は、ようやく気づいた。
少女は、他ならぬ自分にその缶を差し出しているのだ。
――自分に?
この十八年間の人生で、あまりにも経験のない状況だった。
どう反応すればいいのかわからず、少年は困惑する。
「ありがと……」
なんとか声を絞り出し、缶を受け取った。
「どういたしまして!」
少女は満足そうに笑った。
――とてつもなく可愛い。
「君が……俺を助けてくれたの?」
意識を失う直前に見た人影。
その特徴と目の前の少女を照らし合わせながら、少年は恐る恐る尋ねた。
「そうだよ! 無事でよかった~」
「その……助けてくれて、ありがとう」
「人として当然のことをしたまでだよ」
――「人として」。
「あの……ここって、どこ?」
「ここは海底王国首都部、マリネアだよ」
少女は嫌な顔ひとつせず、答えた。
海底王国。
海底王国……。
「海底王国!?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「驚くのも無理はねぇな」
タコオヤジと少女は驚きながらも、なぜかこちらの事情を察しているようだった。
その反応は、少年に対して親身ですらあった。
一方、少年は必死に頭を働かせ、状況を整理していた。
「海に落ちた。目が覚めたら、海底王国とやらにいる。空には……水面……」
ぶつぶつと呟く少年に、少女が心配そうに声をかける。
「大丈夫? 私の名前はマール。あなたは?」
一度、少年を落ち着かせようとしてくれたのだろう。
「カイ」
「え?」
「俺の名前は、カイ」
カイは、今度こそはっきりと自分の名前を伝えた。
「カイ……カイ……」
マールは、カイの名前を何度も口にする。
「俺の名前、そんなに変か?」
「いや、ごめん。なんでもないの。そういうわけじゃなくて……」
マールの反応が妙に引っかかった。
しかし、カイはそれ以上追及せず、もう一度落ち着いて状況を整理することにした。
「俺は訳あって、海で溺れそうになっていた。そこをマールが助けてくれて、海底世界まで連れてきて、病院に入院させてくれた。……ここまで大丈夫?」
「うん。カイが結界の中で溺れていたから、仕方なく連れてきたの……ごめんね」
まただ。
カイは、マールの言い回しに違和感を覚えた。
まるで、自分がここにいてはいけないかのような言い方。
「えっと……なんで君は、そんなに申し訳なさそうにしているの?」
「……ないから」
「え?」
「一度、海底王国に入ると……もう出られないから……」
「は?」
本日何度目なのかもわからない、腑抜けた声が口から漏れた。
前の世界には、後悔が数えきれないほどある。
もし「戻りたいか」と聞かれるのなら、きっと答えはノーだ。
それでも――。
もう帰れない。
そう理解した瞬間、胸の奥に少なからず絶望が生まれた。
「俺は……自分が何をしたいのか、もうわからなくなった」
声を絞り出す。
「まあ、そんな嬢ちゃんを責めるんじゃねぇ。結界内にいる時点で、もう兄ちゃんは手遅れだったんだ」
それまで口を閉ざしていたタコオヤジが、マールを庇うように言った。
マールも、なんと声をかければいいのかわからない――そんな表情で、こちらを見つめている。
「ごめん。別に責めたわけじゃ……」
マールを責めるつもりなど、微塵もない。
それでも。
今の言葉だけは、紛れもなくカイの本音だった。




