第一話 世界との別れと出会い
第一章 海底世界
第一話 世界との別れと出会い
苦しい。
苦しい。苦しい。苦しい。
黒い闇の中、少年は一人でもがいていた。
あれだけ望んだ死なのに。
今は、頭のどこかで生きることを望んでいる。
もう無理だと分かっているはずなのに、身体は必死に空気を求め、震え始める。
視界が揺れる。
自分の選択は、正しかったのだろうか。
今さらになって、後悔の波が押し寄せてくる。
そして――少年の口から、最後の気泡が漏れた。
おぼつかない意識の中、少年の目にあり得ないものが映る。
人影。
こちらへ向かってくる。
長い髪。
そして、暗闇の中でもはっきりと分かる――エメラルドグリーンの瞳。
学校の昼休み。
少年は一人、机に伏せていた。
意地でも顔を上げようとはしない。
だって、顔を上げてしまえば見えてしまうから。
机に書かれた、少年に向けられた罵詈雑言の落書きが。
気がつくと、少年は知らない天井を見つめていた。
――ここは……?
状況が理解できず、ただ呆然とする。
左隣には窓がある。
差し込む光からすると、今は昼間のようだ。
少年は窓を横目に見ながら、ぼんやりと考える。
しかし、目の前の状況を理解するには、少し時間が必要だった。
そして、しばらくしてから思い出す。
自分が海に飛び込んだことを。
――もしかして、救助されたのか?
少年の予想は、半分だけ正しかった。
ここは確かに、どこかの病院のようだ。
では――もう半分の間違いは?
その答えは、隣のベッドを見れば一目瞭然だった。
隣のベッドに寝ているのは、人間だと思っていた。
しかし、その顔を見た瞬間、少年はギョッとする。
人間の身体に、タコが顔の代わりについている。
いや、人間にタコがひっついているわけではない。
人間の身体をした、タコなのだ。
――ッ!
少年は声にならない叫びを上げ、勢いよく跳ね起きた。
「よぉ! にいちゃん、起きたかい!」
そのタコは、まるで昔からの知り合いであるかのように、フレンドリーに話しかけてくる。
その喋り方は、どこか親戚のおじさんを彷彿とさせた。
しかし、そんなことを気にしている余裕などない。
どれだけ親しげに話しかけられようが、少年の混乱が収まることはなかった。
「いやぁ、にいちゃん、二日も寝たきりだったもんで、えらい心配したわ」
――このタコ頭がなければ、もう少し落ち着けただろうに。
普段は冷静な少年ですら、声を出すことができない。
ふと、少年は反対側にある窓へ目を向ける。
さっきは、窓から差し込む光だけを見て時間帯を判断していた。
だが、よく見ると何かがおかしい。
朝でも、昼でも見たことのない光。
エメラルドグリーンの光が、辺り一帯を包み込んでいる。
――ここは、一体どこなんだ?
どうやらここは、街中にある病院らしい。
窓の外には、先ほどのタコ頭のおじさんとはまた違う生き物たちが行き交っている。
サバの頭をした、人型の生き物。
ヒラメのような顔をした生き物。
悪口などではない。
本当に、魚の頭がついているのだ。
そして、空には水面のようなものが広がっている。
それはまるで水の中にいるかのように、ゆらゆらと蠢いていた。
「どうしたんだい? そんな驚いた顔して」
相変わらずの調子で、タコ頭のおじさんが尋ねる。
「何かあったの?」
そのときだった。
柔らかな声が、病室を包み込んだ。
同時に、病室の扉の前に誰かが立っていることに気づく。
少年は、息を呑んだ。
そこにいたのは――少年が何よりも望んでいた姿だった。
人間の身体。
人間の顔。
正真正銘の、人間。
その人間は、少女だった。
歳は十代半ばほどだろうか。
少女は少年を見つめると、安心したように優しく微笑んだ。
「よかった。目が覚めて」
その笑顔を見た瞬間、少年は言葉を失った。
ここがどこなのか。
なぜ自分は生きているのか。
目の前の少女は何者なのか。
分からないことだらけだった。
それでも――
その少女の姿だけは、少年にとってあまりにも懐かしく、そして眩しく見えた。




