その手が、背を押した
こんにちは! あまはる です!
この物語を手に取っていただきありがとうございます!
本作は史実を元にしたフィクションです。
実在人物を題材にしていますが、人物描写・会話・逸話などに独自解釈と創作を多く含みます。
生暖かい目で見てくださいm(__)m
翌朝。
雨は、止んでいた。
四日ぶりに見る空は、まだ厚い雲に覆われていたが、その切れ間から薄い青が覗いている。
柳河の町は、静かだった。
田には水が溜まり、道には泥が残っている。
流されてきた枝や藁が、家々の塀や木に引っかかっていた。
水路の水位も、少しずつ下がり始めている。
「ひどいね」
「ああ」
誾千代の隣で、宗茂も町を見ていた。
十時と小野、それに兵たちも一緒だった。
昨日避難した者たちも、少しずつ家へ戻り始めている。
「殿様!」
声をかけられ、宗茂が振り返った。
昨日、家から避難した男だった。
「怪我は」
「ありません。家は水に浸かりましたが」
「そうか」
宗茂は頷いた。
「家は直せる」
「……はい」
男が深く頭を下げた。
その先では、兵と百姓たちが泥を掻き出している。
倒れたものを起こし、流された荷を拾い集める者もいた。
誾千代が辺りを見回した。
「みんな、生きてるね」
「ああ」
誾千代が少しだけ笑った。
昨日まで、あれほど荒れ狂っていた水。
町も田も傷んだ。
それでも、人はいる。
宗茂も、それ以上は何も言わなかった。
◇
昼前。
宗茂たちは、昨日切れた西の堤を見ていた。
水は昨日より下がっていた。
だが、崩れた堤の周囲は泥に覆われ、削られた土の間を、今も濁った水が流れている。
「ここは当分、人を近づけるな」
「はっ」
「下が緩んでいる。直すのは水がもっと引いてからだ」
「承知しました」
宗茂が崩れた箇所を見ながら歩く。
誾千代も、その隣から水路を覗き込んだ。
「まだ高いね」
「ああ。昨日よりは下がったが」
濁った水は、今も勢いよく流れている。
誾千代がもう少し覗こうとすると、宗茂が腕を掴んだ。
「近づくな」
誾千代が一歩下がった。
「まだ足元が緩い」
「うん」
昨日崩れた土は、まだ水を含んでいた。
小野は崩れた堤へ目を戻した。
「殿。この辺りは、しばらく見張りを置いた方がよろしいかと」
「ああ。人を決めてくれ」
「はっ」
そのとき。
「昼餉をお持ちしました!」
声が上がった。
皆が振り返る。
城から、女たちが籠を抱えてやってきていた。
「おお!」
「ありがたい!」
「腹が減ってたんだ!」
兵や百姓たちから声が上がる。
「朝から何も食ってねえぞ」
「俺もだ!」
「仕事しながら食べてくださいね!」
女たちが籠を開いた。
中には、握り飯がぎっしりと詰まっている。
兵も百姓も、次々と集まってきた。
一つ。
また一つ。
女たちが握り飯を手渡していく。
綾も、その中にいた。
籠を抱え、他の女たちと一緒に配っている。
「ありがとうございます!」
「もう一ついいですか」
「皆に行き渡ってからです」
「はい……」
周囲から笑いが起こった。
綾は次の者へ握り飯を渡す。
その視線が、ふと止まった。
少し離れたところ。
宗茂と誾千代が、並んで決壊した水路を覗き込んでいた。
綾は籠から二つ、握り飯を取った。
二人のところへ歩いていく。
「宗茂様、誾千代様。昼餉はいかがですか」
「ありがとう」
誾千代が一つ受け取る。
「すまない」
宗茂も一つ取った。
「いいえ」
綾はそれだけ答えた。
誾千代は握り飯を一口かじる。
「おいしい」
「姫様、もう食べてるんですか」
少し離れたところから、十時の声が飛んできた。
「お腹空いてたもん」
「俺のも残しといてくださいよ!」
「自分でもらって!」
「冷たい!」
兵たちが笑った。
誾千代も笑いながら、もう一口食べる。
そのときだった。
「殿!」
少し先から兵が呼んだ。
「こちらへ! 流れてきた木が引っかかっております!」
宗茂がそちらを見る。
水路の曲がったところに、大きな流木が引っかかっていた。
「今行く」
宗茂が歩き出した。
数間先で待つ兵のところへ向かう。
誾千代は握り飯を食べながら、その様子を眺めていた。
宗茂が兵と何かを話している。
流木を指し、水路を見ていた。
綾も、そちらを見た。
誾千代の向こうに、宗茂がいる。
ほんの少し前まで、二人は並んでいた。
当たり前のように。
綾の視線が、目の前に立つ誾千代の背中へ戻った。
宗茂の妻。
いつも、宗茂の隣にいる人。
――この方が、いなければ。
そんな考えが、頭をよぎった。
綾の手が上がった。
誾千代の背へ伸びる。
手のひらが触れた。
ほんの一瞬、止まった。
それでも。
綾は、押した。
「え?」
誾千代の体が前へ傾いた。
握り飯が手から落ちる。
泥の上を転がった。
足が滑る。
「――っ!」
誾千代の体が、崩れた土手を滑り落ちた。
「誾千代!」
宗茂が振り返った。
手にしていた握り飯を放り出し、駆け出す。
「姫様!」
十時の声が飛ぶ。
誾千代は、まだ水には落ちていなかった。
崩れた土手の途中で、必死に土を掴んでいる。
「動くな!」
宗茂が駆け寄った。
斜面の下では、濁った水が激しく流れている。
宗茂は土手に腹ばいになり、手を伸ばした。
「手を!」
誾千代も腕を伸ばす。
あと少し。
指先が触れた。
そのとき。
誾千代が掴んでいた土が崩れた。
「わっ!」
体が滑る。
宗茂がさらに身を乗り出し、その腕を掴んだ。
「旦那様!」
「上がれ!」
十時と兵たちも駆けつける。
十時が誾千代のもう一方の腕を掴み、兵たちも加わった。
誾千代の体が、泥の斜面を上がっていく。
あと少し。
そのとき。
宗茂が身を乗り出していた土手の縁が、崩れた。
「――っ」
宗茂の体が沈む。
それでも、誾千代の腕は離さなかった。
「引け!」
十時たちが一気に誾千代を引き上げる。
誾千代の体が土手の上へ上がった。
その直後。
残っていた土まで、大きく崩れた。
「殿!」
宗茂の体が大きく傾く。
十時が手を伸ばす。
宗茂の腕が、その指先を掠めた。
届かない。
宗茂の体が斜面を滑り落ちる。
「旦那様!!」
大きな水音がした。
宗茂が濁流へ落ちた。
一度だけ、水面に姿が見えた。
「旦那様!」
誾千代が立ち上がろうとする。
「姫様!」
十時が抱き止めた。
「離して!」
「駄目です!」
「旦那様が!」
「分かってます!」
「離して!!」
十時が兵たちへ怒鳴った。
「下へ回れ! 縄を持ってこい! 急げ!」
兵たちが一斉に走り出した。
誾千代も十時の腕から抜けようとする。
「私も行く!」
「駄目です! 姫様まで流されます!」
「いや、行く!」
誾千代が強く腕を振った。
十時の手が外れる。
「姫様!」
止める間もなく、誾千代は走り出した。
泥に足を取られながら、水路沿いを下流へ走る。
「旦那様!」
濁った水面を目で追う。
「旦那様!」
返事はない。
流木が流れていく。
濁った水が、激しくうねっている。
「旦那様――!」
何度呼んでも、宗茂の姿は見えなかった。
少し離れたところで。
綾は、立ち尽くしていた。
自分の手を見る。
震えていた。
誾千代を押したのは、自分だ。
なのに――。
宗茂が、消えた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
更新は21時です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




