水に守られた城
こんにちは! あまはる です!
この物語を手に取っていただきありがとうございます!
連載再開です。よろしくお願いいたします。
本作は史実を元にしたフィクションです。
実在人物を題材にしていますが、人物描写・会話・逸話などに独自解釈と創作を多く含みます。
生暖かい目で見てくださいm(__)m
柳河城の朝は、まぶしかった。
低い屋根の間を、幾筋もの水路が走っている。
昇ったばかりの朝日が水面へ当たり、きらきらと光を跳ね返していた。
山の上に築かれた立花山城とは、何もかも違う。
水は城の外にあるのではない。
屋敷と屋敷の間を抜け、橋の下を通り、城下の奥まで続いている。
誾千代は、城内の小さな橋の上に立っていた。
いつもの小姓姿。
短く切った髪は、襟へ触れるほどまで伸びている。
今朝は侍女のたまに捕まり、逃げ出す間もなく髪を梳かされた。
朝日に照らされた白い肌。
大きな黒い瞳。
風に揺れる濡れ羽色の髪。
黙って水面を見つめている姿だけなら、どこから見ても絶世の美少女だった。
「姫様」
後ろから、十時連貞が声を掛けた。
誾千代が振り返る。
「朝から、ずいぶん綺麗にしてますねぇ」
「……いつもと一緒だけど」
誾千代は何でもないように答え、わずかに顔を背けた。
その頬には、うっすらと赤みが差している。
十時はそれに気づいたらしく、口元を緩めた。
「それで、こんな朝早くから何を?」
「城内を見て回ってるだけ」
「甘味処へ行くには、まだ早いですね」
誾千代の視線が、つい城門の方へ流れた。
「……待ってるわけじゃない」
「何も言ってませんよ」
その時だった。
「何をしている」
聞き慣れた低い声がした。
宗茂だった。
朝からすでに身支度を整え、脇には折り畳んだ絵図を抱えている。
黒髪は後ろで結われ、眠そうな様子はまったくない。
誾千代の目が、その絵図へ向いた。
「旦那様。それ、甘味処までの道?」
「城内の絵図だ」
「…………」
十時が吹き出した。
「十時!」
「いや、まだ何も言ってませんよ!」
「笑った!」
「笑ってませんよ」
十時は誾千代の振り上げたこぶしを避けながら言った。
宗茂は騒ぐ二人を横目に、橋の上から水路へ目を向けた。
「もう道は覚えたか」
「だいたい」
「姫様、先ほどから同じ橋を三回渡ってますよ」
「反対から見ると、道が違って見えるでしょう」
誾千代は橋の向こうを指差した。
「それに、逃げ道も見てるの」
宗茂が頷いた。
「正しい。攻める道だけでなく、退く道も見ておけ」
「ほら!」
誾千代が十時へ胸を張る。
「殿に認められた途端、ずいぶん得意げですねぇ」
宗茂の口元が、ほんの少し上がった。
その笑みに、誾千代の目が止まる。
いつもは静かな顔をしている分、こうして不意に笑われると困る。
一瞬だけ、何を言おうとしていたのか忘れた。
十時は、それを見逃さなかった。
「姫様。殿に見とれてましたね」
誾千代が、はっと十時を見る。
「言ったら水路に落とす」
「もう言いましたよ」
「じゃあ落とす」
「理不尽ですな!」
◇
橋の下を、小舟が一艘通っていった。
城下へ野菜を運ぶ舟らしい。
舟を操る男は、新しく入ってきた立花勢を警戒するように見上げ、それでも宗茂へ気づくと頭を下げた。
宗茂も小さく頭を下げ返す。
「父上たちも、ここを見たんだよね」
誾千代が言った。
「ああ」
「攻める側から」
「私の父上も一緒だった」
立花道雪と、高橋紹運。
二人は筑後へ兵を進め、この柳河城まで迫った。
それでも、城は落ちなかった。
誾千代は橋の先を見た。
真っ直ぐ進めそうな道が、水路で切られている。
橋を渡れば、今度は低い土居がある。
その向こうにも、また水が見えた。
「正面へ進んでるつもりでも、水路で曲げられる」
誾千代は橋の向こうと、宗茂が持つ絵図を見比べた。
「その先へ兵を集めたら、今度は橋が細い。大勢では渡れない」
「父上、怒っただろうなぁ」
「道雪様なら、相当でしょうねぇ」
十時が笑う。
「でも父上なら、一度塞がれた道へ同じようには入らない」
「二度目は別の道から?」
「うん。怒りながら、ちゃんと見てる人だから」
十時は懐かしそうに笑った。
「そこは道雪様らしいですな」
「怒ってる時の父上、怖かったけどね」
「それは姫様もよく似ておられます」
「どこが?」
「怒るとすぐ人を水路へ落とそうとなさるところが」
「落とすよ?」
「ほら、それです」
宗茂は二人のやり取りを聞きながら、絵図を開いた。
城を巡る堀と、枝分かれする水路。
橋。
土居。
城門。
絵図の上でも、道は簡単には繋がらない。
「攻めるには面倒だな」
宗茂が言う。
「旦那様でも?」
「私でもだ」
「じゃあ、守るにはいいね」
「ああ」
宗茂が誾千代を見る。
「頼もしい城だ」
「でしょ」
自分が作った城でもないのに、誾千代は得意そうに胸を張った。
「では、中を見て回る」
「甘味処は?」
「そのあとだ」
「ほんと?」
「何事もなければ」
「何も起きませんように!」
誾千代は両手を合わせた。
こういう時だけは、神仏でも柳河の水でも、頼れるものには全部頼る。
◇
「……開かない」
最初に見た兵糧蔵で、誾千代は戸へ両手を掛けていた。
「姫様、代わりましょうか」
十時が腕をまくる。
誾千代はしゃがみ込み、戸の下を覗いた。
「下の溝から外れてる。少し浮かせれば動きそう」
「では、俺と姫様で戸ごと外しますか」
「それが早いね」
「おやめください!」
薦野増時の声が飛んだ。
柳河へ入ってまだ間もないというのに、すでに疲れた顔をしている。
「なぜ二人とも、すぐ力で解決しようとするんです!」
「だって動かないよ」
「だからって戸を外さないでください!」
「まだ外してませんよ」
「十時殿は姫様を止める側でしょう!」
薦野が胃を押さえた。
朝から何度目か分からないため息が、その口から漏れる。
その間に、宗茂が後ろから手を伸ばした。
誾千代の肩越しに、宗茂の腕が伸びる。
背中に、その胸元が触れそうなほど近い。
振り向けば、宗茂の胸へ額をぶつけてしまいそうだった。
そう気づいた途端、戸に掛けていた指まで動かなくなった。
「見立ては合っている。ただ、左側だけ持ち上げればいい」
低い声が、すぐ耳のそばへ落ちた。
「そ、そういうのは先に言って」
「今、言った」
宗茂には、何が問題なのか分かっていないらしい。
戸の端を持ち上げると、そのまま重い戸を横へ動かした。
誾千代は戸が開くのと同時に、一歩、二歩と宗茂から離れた。
ようやく息ができた。
顔が熱い。
それなのに宗茂は、何事もなかったように戸の溝を確かめている。
「姫様」
十時が、にやにやしている。
「……何」
「殿が近づいた途端、姫様まで戸のように動かなくなりましたねぇ」
「…………」
誾千代は頬を赤くしたまま、ぴたりと固まっている。
「姫様。本当に動かなくなってますよ」
「うるさい」
「十時殿。遊んでないで中を見ますよ」
薦野が呆れたように言った。
「俺だけですか?」
「姫様に言って聞くと思います?」
「思いませんね」
「二人とも聞こえてるよ!」
その横を、小野鎮幸が何事もなかったように通り過ぎた。
蔵へ入ると、梁を見上げる。
「屋根が傷んでますね」
目は屋根から壁、床板、米俵を置く場所まで一度に見ている。
「壁にも水の染みがあります。次に強い雨が降れば、ここへ米は置けません」
「修繕だな」
宗茂が答える。
薦野が帳面を開いた。
「兵糧蔵一棟。屋根、板壁、戸の建て付け……」
「一棟では足りませぬ」
小野が続ける。
「これから人が増えます。一か所へ米を集めれば、火事でも水でも、すべて失う」
「新しく二棟」
薦野が書く。
「三棟だ」
宗茂が言った。
薦野の筆が止まった。
「……今、二棟と」
「城外にも一棟。領内の古い蔵も調べる」
「増えました?」
「増えた」
「聞かなければよかった……」
十時が薦野の肩を叩く。
「そう気を落とさないでください。蔵が三つ増えただけですよ」
「『だけ』で済むのは、管理しない人だけです!」
その時、十時の足元で床板が大きく鳴った。
小野の視線が落ちる。
「十時殿。動かない方が」
「分かっております」
板が抜けた。
「おお!?」
十時の右足が、膝まで床へ沈んだ。
「十時!」
誾千代と宗茂が、両側から引き上げた。
十時は埃まみれの足を見た。
「……床も修繕ですね」
「一か所追加」
薦野は無言で帳面へ書き足した。
「俺が壊したわけではありませんよね?」
「ええ。もともと傷んでいたのでしょう」
小野が抜けた床板を覗き込む。
「十時殿が踏まなければ、気づくのが遅れていたかもしれません」
「それなら、役に立ったということですねぇ」
「床を踏み抜いて喜ばないでください!」
薦野は帳面へ書き足しながら、また胃の辺りを押さえた。
◇
蔵だけではなかった。
馬屋は狭い。
井戸の縄は擦り切れている。
城番の詰所は床が傾き、荷車を通すには幅の足りない橋もある。
小野は橋の下を流れる水を見た。
「ただ広げれば、水の流れを邪魔します。橋脚の位置を変える必要がありますな」
「柳河の大工と、水路を知る者を呼べ」
宗茂が命じる。
「こちらだけで決めない。長く使ってきた者の話を聞く」
小野が頷く。
「それがよろしいでしょう」
薦野が、それも帳面へ書きつけた。
誾千代は、もう一度辺りを見回した。
蔵も、馬屋も、井戸も、水路も。
一度歩いただけで、直すところも、確かめることも次々に出てくる。
城の中だけで、これなのだ。
城下へ出れば、もっと知らないことがあるのだろう。
「まだまだかかりそうだね」
「何がだ」
「柳河のこと、全部知るまで」
宗茂は少しだけ城内を見渡した。
「来たばかりだからな」
「そっか」
誾千代も、もう一度辺りを見る。
柳河へ来て、まだ少し。
自分たちの城でさえ、知らないことばかりだった。
◇
昼を過ぎる頃。
広間は、書状と帳面で埋まっていた。
修繕。
兵糧。
城番。
田畑の境。
水路の扱い。
旧来の役人からの引き継ぎ。
誰かが一つ持ち込むたび、薦野の前へ紙が増える。
「薦野殿」
十時が、新しい帳面を三冊抱えて入ってきた。
「追加です」
薦野が嫌そうに顔を上げる。
「……そこの山へ置いてください」
「どの山です?」
机の上には、紙の山が三つあった。
薦野はしばらく黙った。
「新しく作ってください!」
十時が笑った。
「まだ増えるんですねぇ」
「嬉しそうに言わないでください!」
その横で、小野が帳面を一冊開いた。
頁を捲っていた手が止まる。
「薦野殿」
「今度は何です?」
「同じ村の田高が、こちらとこちらで違いますな」
薦野の声が止まった。
「……え?」
「確認が必要でしょう」
「増えた……」
「何がです?」
十時が尋ねる。
「仕事です!」
「それは大変ですねぇ」
「他人事みたいに言わないでください!」
柳河へ入ってから、薦野の胃が休まる日は、まだ一日もなかった。
◇
誾千代は、広間の端に座っていた。
午前のうちに、使われていない井戸や馬屋を見て回り、城で働く者たちから困り事を聞いてきた。
水汲み場の一つが遠すぎること。
雨のあとは、北の橋が滑りやすくなること。
水路沿いの道は、夜になると足元が見えにくいこと。
どれも、絵図を眺めているだけでは分からない。
薦野の帳面には、誾千代が拾ってきた話もきちんと書き加えられていた。
一通り話し終え、たまから湯呑みを受け取る。
そこでようやく、誾千代は広間の中央へ目を向けた。
宗茂は、まだ絵図の前にいた。
朝からずっと同じ場所にいる。
一人の話を聞きながら書状へ目を通し、返事をして、次の者を呼ぶ。
落ち着いた低い声は、大きくもないのに広間の端までよく通った。
「まだ終わらないんだ」
誾千代が呟く。
十時が隣へ腰を下ろした。
「今日は難しいでしょうなぁ」
「そっか」
誾千代は少し残念そうに宗茂を見る。
甘味処へ行く約束を忘れていたわけではない。
楽しみにしていた。
けれど、朝から休む間もなく働いている宗茂を見れば、連れて行けとは言えなかった。
「姫様」
「何?」
「殿を見すぎです」
「見てない」
「今も見てますよ」
誾千代は十時を睨んだ。
「……十時は、そういうところばっかり見てる」
「姫様が分かりやすいんですよ」
「うるさい」
ちょうどその時、宗茂の前にいた使者が退出した。
誾千代は立ち上がる。
「旦那様」
「ん?」
「今日、無理そう?」
何のことかは言わなかった。
それでも宗茂には通じたらしい。
宗茂は机の上を見る。
書状。
帳面。
返事を待つ者。
今しがた運び込まれた、新しい紙の束。
「……今日は難しそうだ」
「そっか」
「すまない」
「いいよ」
残念ではある。
けれど、誾千代はそれ以上言わなかった。
「時間ができたら連れて行って」
「ああ」
「絶対?」
「約束する」
それならいい。
誾千代が頷いた、その時だった。
宗茂が不意に手を伸ばした。
「動くな」
「え?」
指先が髪に触れる。
朝、蔵を見て回った時についたのだろう。
宗茂は髪に絡んでいた小さな木屑を摘まみ取った。
「ついていた」
「あ……うん」
宗茂は木屑を指先から払う。
それから、誾千代の髪へもう一度目を向けた。
「今朝、髪を整えていただろう」
「え?」
「よく似合っている」
誾千代の目が大きくなる。
「……気づいてたの?」
「ああ」
「何も言わなかったじゃん」
「言う暇がなかった」
「朝からずっと一緒にいたでしょう!」
十時がとうとう吹き出した。
「姫様、よかったですねぇ」
「うるさい!」
誾千代の顔は、しばらく赤いままだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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