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09

 長年の風雨と乱暴な扱いで角が丸くなったギルドの扉を押し開けた瞬間、押し寄せてきたのは暴力的なまでの生きた気配だった。

 それは熱気という言葉だけでは片付けられない。安酒の鼻を突く香り、数日間洗われていない身体から放たれる体臭、そして幾度も血を吸い、研ぎ直された錆びた鉄の匂いが混ざり合う。

 昼間だというのに、ギルド内部は夜の酒場と見紛うほどの喧騒に包まれていた。依頼を首尾よく終えた者たちの笑い声、逆に失敗したのか、あるいは報酬の取り分が気に入らないのか、テーブルをたたく音とともに響く怒号。


「……離れるなよ」


 オリヴィエ様はわたしの前に立ち、人混みをかき分けて受付へと向かった。

 黒髪になり、深くフードを被った彼は、この喧騒に完全に溶け込んでいるように見える。しかし、その背筋の伸び方、雑多な人混みをすり抜けていく無駄のない足運びには、依然として統率者としての隙のなさがにじみ出ていた。


「新規登録したい」


 受付にいたのは、銀縁の眼鏡をかけ、事務的に書類をさばく中年の女性だった。彼女の瞳には、希望に燃える若者が現実に打ちのめされる様も、熟練の冒険者が無残な死体となって戻ってこない様も、すべて見飽きたと言わんばかりの冷徹な光が宿っている。

 オリヴィエ様がカウンターに手を置くと、彼女は顔も上げずに、使い古された登録用ファイルを差し出してきた。


「名前と、前職。それから能力。依頼が欲しいのなら、できることを書きな」


 投げやりな口調に、オリヴィエ様は眉一つ動かさない。羽ペンを握り、あらかじめ打ち合わせていた内容を書き込んでいく。受付の女性は、眼鏡の奥の鋭い眼光をオリヴィエ様に向けた。


「……随分ときれいな手だね。そんな手で剣が振れるのかい? ここは魔物にかみ殺されても、国は一銭も出してくれやしない。死体すら残らないのが当たり前の世界だよ」


 その言葉には、忠告というよりも、場違いな場所へ迷い込んだ者に対する冷ややかな嘲笑が含まれていた。オリヴィエ様は平然としていた。


「妹を食わせるためなら、何だってやる」


 その声は、芝居とは思えないほど切実で、それでいて強い覚悟に満ちていた。女性は一瞬だけ黙り込み、鼻を鳴らすと、カウンターの下から革のコイントレイを取り出した。


「いいだろう。登録料は一人、銀貨一枚と銅貨二枚だよ」


 オリヴィエ様が手続きをしている間、わたしは壁に所狭しと貼られた指名手配書や依頼書に目を奪われていた。

 まずは地道に、毒消し草の採取あたりから始めようか――そんなことを考えていた、その時だった。


「おいおい、見ろよ。こんなところに、えらく上等な掘り出し物が迷い込んでるぜ」


 背後から、野太い声が響いた。

 振り返ると、そこには二十代半ばほどの、革鎧をまとった男たちが三人、わたしの退路を断つように立ちふさがっていた。

 中心にいる男は、頬に大きな十字傷があり、ニヤニヤと笑みを浮かべてわたしの顔をのぞき込んできた。


「お嬢ちゃん、その白い肌、こんなところにいるにはもったいねえなあ。……どうだ、今夜俺たちの相手をすれば、優しく守ってやるぜ?」


 男が、太い指を伸ばしてわたしのあごを触ろうとしてくる。

 わたしは嫌悪感に身をすくめ、一歩後ろへ下がった。

 男は強引にわたしの手首を掴もうと、乱暴に手を伸ばす。反射的に目を閉じ、指先で小さな光魔法を出そうとした――その瞬間。

 シュッという、空気を切り裂く、鋭く冷たい音がした。


「――っ!」


 短い悲鳴が男の口から漏れた。わたしがゆっくりと目を開けると、そこには、数秒前までの傲慢な笑みを完全に消失させ、蒼白になった男の顔があった。

 男の喉元。皮膚を一枚隔てた先、即座に頸動脈を断ち切るであろうその位置に、一本の剣がぴたりと寄せられていた。それを握っているのは、オリヴィエ様だった。


 男は指先一つ動かせない。オリヴィエ様の放つ、圧倒的なまでの殺気に当てられ、呼吸をすることさえ忘れたように硬直している。

 オリヴィエ様のアメジストの瞳は、氷点下の冷たさをたたえ、ただ真っすぐに男の瞳孔を射抜いていた。


「妹に近づくな」


 その声は、地を這うように低く、そして恐ろしいほどに冷たかった。


「殺すぞ」


 周囲の温度が数度下がったかのような錯覚に陥った。

 男の側にいた取り巻きの二人も、腰の剣に手をかけることさえできず、蛇ににらまれた蛙のように固まっている。オリヴィエ様がわずかに力を入れると、男の首から一筋の鮮やかな赤が伝い、革鎧の襟元を汚した。


「わ、分かった! 悪かったからやめてくれ!」


 男が両の手のひらを見せて必死で訴えると、オリヴィエ様は無造作に剣を引き、流れるような動作で鞘へと納めた。


「二度と俺たちの視界に入るな。失せろ」


 男たちは、転げるようにしてギルドの出口へと逃げ出していった。

 嵐が去った後のような静寂が数秒続き、やがてざわめきが戻ってくる。オリヴィエ様は、わたしの安全を確かめるように、肩にそっと手を置いた。その手の温かさが、先ほどの氷のような緊張を解かしていく。


「大丈夫か、エマ」


 気遣わしげな彼の問いかけに、わたしは小さく、こくりとうなずいた。


 周囲の視線が、獲物を見る目から、怪物を恐れるような目へと変わったのが分かった。

 オリヴィエ様はそれを気にする風もなく、ギルドから受け取ったばかりの認識タグ――安っぽいチェーンネックレスの一つを、わたしの首につけてくれた。


「行こう」


 ギルドを出て、わたしたちはガナンの街へと踏み出す。石畳の隙間には泥が詰まり、壁のあちこちはすすけている。けれど、そこには確かに自由の風が吹いていた。


「……お兄様」

「どうした?」

「あんなにすごまなくても、大丈夫でしたよ」


 わたしがそう言うと、オリヴィエ様は立ち止まり、フードの奥からわたしをじっと見つめた。


「いいや。ああいう連中には、最初に分からせておく必要がある」


 彼は少しだけ不器用に、わたしの頭を大きな手で一度だけなでた。


「妹なんだ。傷一つ、つけさせるわけにいかない」

「……過保護ですね」


 わたしはあきれたように笑ってみせたが、胸の奥には、陽だまりのような温かさが広がっていた。


 これから先の生活も、きっと今日以上に騒がしく、そして困難に満ちたものになるだろう。

 けれど、この人の隣にいれば、どんな荒野だって歩いていける――そんな根拠のない、けれど強い確信が、わたしの心を静かに強く支えていた。

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