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 ガナンで暮らし始めて二週間。わたしたちの生活は、心地よい疲労と小さな喜びの積み重ねで満たされていた。

 ギルドに貼られた依頼書を見ては、仕事をこなす毎日。大聖堂の重苦しい空気は、もはや前世の記憶と同じくらい遠い出来事に思えていた。



 ♰ ♰ ♰



 湿った土と、立ち込める獣の体臭。

 王都の大聖堂では決して知ることのなかった、鼻腔を刺すような生きた臭いが、わたしたちの肌にべったりと張り付いていた。


「――終わったな。怪我はないか、エマ」


 低く落ち着いた声が、夕闇の迫る森の中に響く。

 オリヴィエ様が、漆黒に染まった前髪を無造作に掻き上げながら、愛剣の血を振り払った。足元には、先ほどまでわたしたちを囲んでいたフォレストウルフの死骸が転がっている。


「はい。お兄様が引きつけてくれたおかげです。……でもこれ、多すぎて討伐部位の回収が大変ですね」


 先ほど、わたしが放ったのは聖女の光魔法――ホーリーライトだ。決して優しい光ではない。限界まで圧縮し、魔物の体を貫く。対アンデッドほどではないが、出力を上げれば森の魔物へも十分有効だ。


 わたしはスカートが泥で汚れることを気にすることなく膝をつき、慣れない手つきでナイフを使った。

 かつての聖女としての日々。あの頃のわたしの手は、白く、柔らかかった。けれど今は、土や血で汚れ、ナイフを握りしめた跡も赤く残っている。

 不思議と嫌な気分ではなかった。自分の手で、今日の糧を得る。その確かな手応えが、今のわたしをこの世界につなぎ止めてくれている気がしたから。


「……よし、これで全部。ギルドへ戻りましょう」


 一緒に黙々と回収をして、ようやく終わったとわたしが明るい顔をすると、オリヴィエ様は一瞬だけ、そのアメジストの瞳をまぶしそうに細めた。


「ああ。帰りに、市場に寄ろう。今日は少しだけ、贅沢をしてもいいだろう」



 ♰ ♰ ♰



 境界の街ガナンの夜は、暴力的なまでの活気に満ちている。

 ギルドで報酬の銀貨袋を受け取ったわたしたちは、人混みを縫うようにして夜市へと向かった。

 買ったのは、一本の安物の赤ワインと、ライ麦パン。それと、少しだけ値の張る、焼き立てのラム肉の串。


 宿に戻ると、まずは買ってきたものを胃に収めた。安物のワインは甘酸っぱいが、アルコールの苦味が強かった。

 オリヴィエ様が大きな手でライ麦パンを無造作に二つに分かち、半分をわたしに差し出す。パンを噛み締めると、口いっぱいに素朴な香りが広がった。


「おいしい」


 わたしの言葉に、オリヴィエ様はふっと口角を上げ、満足げに目を細めた。


「同感だ」


(公爵家で食べていたものとは、比べものにならないはずなのに……)


 それなのに、この人はこうして同じものを味わってくれる。それがわたしには嬉しかった。

 同じ安宿の椅子に座り、同じ食べ物の匂いに包まれ、同じ「生きている」という手応えを分かち合っている。そこはわたしたちが初めて手に入れた、本当の意味での安らぎだった。



 ♰ ♰ ♰



 食事は終わったが、ワインはまだ残っている。飲みかけのワインボトルを持って、わたしは提案した。


「続き、外で飲みませんか?」


 オリヴィエ様は静かにうなずいてくれ、わたしたちはワインボトルと木のカップを手に持ったまま、部屋の外へ出た。

 宿の隅にある、今にも壊れそうな梯子を上る。

 たどり着いた屋上には、遮るもののない、境界の街の夜景が広がっていた。


 王都の夜景が宝石箱をひっくり返したような輝きだとするなら、ガナンの夜景は、地面から噴き出すマグマのようだった。

 あちこちで炊かれる焚き火の赤、安酒場の窓から漏れる黄金色。混沌としていて、どこまでも荒々しい。


 わたしたちは、屋上の縁に並んで腰を下ろした。

 ふと、手元にある安っぽいワインが目に入り、わたしの口端が自然と綻んだ。


「……ふふ、ふふふっ」

「……どうした? 急に笑い出して」


 不思議そうにのぞき込んでくるオリヴィエ様に、わたしはおかしさを堪えきれず、肩を揺らした。


「いえ。このワインを飲んでいたら、あの夜会のことを思い出してしまって。オリヴィエ様がわたしに思いっきりワインをかけた、あの時のこと」


 オリヴィエ様は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐにバツが悪そうに視線を逸らした。


「……あれは、きみをあの場から連れ出すための手段だった」

「分かっています。でも、あの時のワイン、今思えば、このボトルが何箱も買えちゃうくらい、とんでもなく高級なものだったんでしょうね。それをあんな風に……あはは!」


 アルコールが入っているせいか、なんだかおかしくてたまらない。オリヴィエ様も、つられたように表情を緩ませる。


「――きみに出会わなければ、俺はまだあの場所で、無機質な日々を繰り返していただろう」


 オリヴィエ様の声は、夜の闇に深く沈み込むように響いた。

 その視線は、かつての自分たちがいた遠い王都、あの華やかな世界を想像しているようだった。


「おいしいもの、食べられなくなりましたよ? このワインだって、後味が悪いですし」


 からかうように言うと、オリヴィエ様は自分のカップを脇に置く。それから、わたしからもカップを取り上げてしまった。


「そろそろ終わりにしよう。飲みすぎだ」

「過保護なお兄様ですね」


 むう、と頬を膨らませると、オリヴィエ様は苦笑して、わたしの頭をなでた。

 それがあまりにも優しくて、わたしは楽しい気持ちから一変、なんだか胸が締め付けられるような感覚に陥った。


「……このまま時間が止まればいいのに」


 わたしは内心を思わず口にしていた。そうするとオリヴィエ様は少し驚いた顔をして、わたしの頭から手を離す。

 わたしは心の内を隠すことができない。なんだかとても素直に、言葉が出てくる。


「わたし、今がとても幸せです」


 しばらくじっとわたしを見つめて、オリヴィエ様はやがて言った。


「それは、エマとして?」

「……どういうことですか?」


 わたしは少し首をかしげる。

 オリヴィエ様のアメジストの瞳が、街の灯りを反射して優しく揺れている。彼はわたしとの距離をそっと詰めた。


「アルという兄といるから、きみは幸せなのか?」


 相変わらずきょとんとするわたし。オリヴィエ様の瞳が間近に迫る。


「……俺が、今は、きみの兄の役は降りたいと言っても、許してくれるか?」


 切なげな響き。その問いかけに、わたしの鼓動が早くなる。苦しいくらいに。

 わたしはその瞳に吸い寄せられるように、彼に近づく。


「オリヴィエ様は、オリヴィエ様です」

「ニーナ……」


 彼の指が、愛おしそうにわたしの頬に触れる。ガナンの喧騒が、その瞬間だけ遠い異国の出来事のように聞こえなくなった。


「……いいのか?」


 彼の問いかけは、消え入りそうなほどに優しく、そして切実だった。

 わたしは、答えの代わりに、彼の手の上に自分の手を重ねた。

 吐息が交わる。そして、わたしはゆっくりと瞳を閉じた。


 柔らかく、そっと唇と唇が触れあった。最初は、羽毛が触れるような慎重なキスだった。

 一度離れると、それから彼は、奪うような激しさで、再びわたしの唇を塞いだ。彼の腕がわたしの腰に回り、強く引き寄せられる。口づけは、互いの体温を渇望するような、熱く深いものへと変わっていく。


 街の匂い。そしてオリヴィエ様の体温。重なり合う唇は、甘酸っぱくて苦い、赤ワインの味がした。

 たまらなく愛おしい気持ちになって、わたしは彼の背中に手を回した。心臓の鼓動が重なりあう。


 ガナンの荒々しい夜空には、数えきれないほどの星が輝いていた。

 それは王宮のどのシャンデリアよりも美しく、わたしたちを、どこまでも明るく照らし続けてくれるように思えた。

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