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 ガナンの夜は静寂とは無縁だ。日が落ちると同時に、巨大な石壁に囲まれた街の大通りには、無数の屋台がひしめき合う。あちこちで焚かれる火の爆ぜる音。どこか遠くの国の旅人が奏でる奇妙な楽器の音色。そして、脂の焼ける香ばしくも荒々しい匂いが、人々の熱気と混ざり合って街全体を飲み込んでいた。


「相変わらず、すごい人ですね」


 わたしが人混みに気圧されて足を止めると、隣を歩くオリヴィエ様が、当然のようにわたしの手を取った。


「離れると、はぐれる」


 深くフードを被り、漆黒に髪を染めた彼は、この混沌とした街の風景に完全に溶け込んでいた。するすると道を進むオリヴィエ様。そのつながれた手のひらから伝わってくる熱が、わたしの心をどうしようもなくかき乱す。


(いけない……今は、わたしたちは兄妹なのに)


 偽りの設定、偽りの名前。そう自分に言い聞かせても、頬を赤く染めていくのを止められなかった。フードを被っていて良かった。わたしは動揺を隠すように、一番近くで激しく煙を上げていた屋台を指差した。


「お兄様、あそこの屋台に行きましょう。人がたくさん」


 わたしが指差したのは、もうもうと煙を上げる串焼きの屋台だった。店主は見たこともない、鮮やかな極彩色の羽を持つ鳥――あるいは、その飛膜や太い尻尾の形状からすれば爬虫類に近いのかもしれない生き物の肉を、鉈のような大ぶりの刃物で手際よく削ぎ、無骨な串に刺していく。それを、滴る脂が火を煽るほどの強火で一気に炙っていた。


「……これ、何ていう生き物でしょう?」

「さあ。だが、このあたりで一番売れているようだ。試してみよう」


 オリヴィエ様はつないでいた手を一度離すと、慣れた手つきで腰の袋から銅貨を取り出して店主に渡すと、焼きたての串を二本受け取った。

 手渡されたのは、焼けつくような熱を帯びた一本の串。わたしはそれを両手で受け取り、立ち上る湯気を吹き飛ばしながら、その未知の肉を思い切りよくぱくりと頬張った。


「――っ!」


 その瞬間、衝撃が走った。甘辛い味と、弾力のある肉の質感。脂がじゅわりと口の中に広がる。どこか親しみのあるその味。不意に、目の前のガナンの夜景が揺らぎ、わたしの脳裏に、全く別の場所の記憶が鮮明な色彩を持ってフラッシュバックした。


「これ、何かに似てる――あ、施設で食べた焼き鳥」


 思い当たったことが嬉しくて、つい声に出てしまった。その言葉を拾って、隣で同じように串を口にしていたオリヴィエ様が不思議そうにわたしを見る。


「施設で食べた焼き鳥?」


 その響きを不慣れな呪文のように繰り返したオリヴィエ様に、わたしはハッとして口を噤んだ。例えこの世界に同じ言葉があったとしても、わたしのイメージするそれとは意味が異なるだろう。

 オリヴィエ様が知らない言葉と概念。それをどう説明しようか。わたしは迷い、周囲を見渡した。

 騒がしいガナンの喧騒。誰もわたしたちのことなど気にしていない。そして口の中に残る、懐かしい味。

 それらが、わたしの心の鍵を驚くほど簡単に解いてしまった。


「……少し、静かなところへ行きましょう、お兄様」


 わたしはオリヴィエ様を促し、屋台の影にある、崩れかけたレンガの壁際に身を寄せた。

 手元に残った一本の串を、まるで遠い異国の遺物でも見るような目で見つめながら、わたしはポツリポツリと、今まで誰にも語らなかった秘密を話していく。


「……わたしには、前世の記憶があるんです。ここではない、別の場所で生きて、死んだ記憶が」


 オリヴィエ様も食べていた手を止め、じっとわたしを見つめた。その瞳に拒絶や恐怖の色はない。


「わたしはそこで、親から無視され、施設と呼ばれた場所で育ちました。その施設で、わたしが好きだった食べ物の味に似てます。あんなに惨めだった人生の記憶なのに、こんな場所で、こんな風に思い出すなんて……」


 少しの沈黙。やがてオリヴィエ様はただ穏やかに、わたしの言葉のすべてを肯定するように口を開いた。


「そうだったのか。この世界には、時折きみのような人間がいると聞いたことがある。別の世界、あるいは遠い昔の記憶を保持して生まれてくる者や、未来を見てきたと語る者」


 オリヴィエ様があまりに普通に受け入れるので、わたしは拍子抜けする。


(そっか……ここは、魔法なんて力がある世界だもの。魂の流転なんて、不思議なことじゃないのかもしれない)


 前世の常識からすれば荒唐無稽なことも、この世界では一つの可能性に過ぎない。わたしだって、この世界の魔法をすっかり受け入れているではないか。

 わたしは少しだけ肩の力を抜き、苦笑しながら続けた。


「でも、前世の記憶があっても、何も役に立たないんです。わたしは世の中のことなんて何も知らずに、死んでしまったから」


 思わず自嘲的につぶやくわたしに、オリヴィエ様が真面目に答えた。


「役に立たないわけがない」


 オリヴィエ様の声は、揺るぎなかった。フードの影に隠れた彼の瞳が、慈しむように光る。


「きみの記憶が、きみの魂が、今のきみを作っている。きみの言葉は、俺を救った。俺にとっては、何よりも価値のあることだ」


 わたしは息をのみ、言葉を失った。

 前世のあの悲劇さえも、この世界で彼と出会うために必要な過程だったのだとしたら――あの惨めだった人生が、すべて報われる気がした。


 すると、オリヴィエ様はふっと目を細め、夜市の喧騒に目を向けた。


「こんな風に自由に過ごして、楽しいと思える日がくるとは思ってなかった。きみのおかげだ」


 視界がじんわりと熱くなり、涙が零れそうになる。わたしはそれをごまかすように、手元の冷め始めた串焼きを再び口に運んだ。


「おいしい」


 わたしが涙を堪えて笑うと、オリヴィエ様は、柔らかい陽光のような笑みを浮かべた。

 その笑顔があまりにも優しくて、わたしの胸の奥が熱く、甘く、締め付けられた。

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