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 ガナンの宿は、一日の終わりを告げる喧騒に包まれていた。

 一階の食堂からは、荒くれ者たちの笑い声と、安っぽいエールの匂いが階段を伝って上がってくる。


「ニーナ、明日の準備は終わったか?」


 耳に心地よい声がわたしに届く。顔を上げると、そこにオリヴィエ様がいた。


「はい」


 わたしは努めて平静を装って答えた。

 けれど、胸の奥はずっと、もやもやしている。その気持ちを、自分でも持て余している。

 原因は分かっている。

 あの日、この宿の屋上で、夜風に吹かれながら交わした、はじめての口づけ。


(あのあと……どうして、何もしてくれないんだろう)


 前世の記憶があるせいで、わたしの恋愛観は、この世界の規範からは少しズレているのかもしれない。

 わたしは、恋人同士になったのなら、もっと触れ合ったり、抱きしめ合ったりするのが、自然な流れだと思っていた。


 けれど、オリヴィエ様はあの日以来、わたしに触れてはこない。

 二人きりの部屋にいても、彼は決してわたしのベッドには近づかない。手を握ることさえ、あの夜市に出かけた日のように、「はぐれないように」という理由がある時だけ。

 部屋に戻れば、彼は決まって自分のベッドの端に座り、黙々と剣の手入れをするか、明日の方針を確認して準備を行うだけ。


(そういえば、恋人になろうとか、そういう話をしたわけじゃ、ない……)


 そんな考えばかりがぐるぐると頭を巡る。

 わたしは自分のベッドに座ると、眠る前に道具の最終確認をしているオリヴィエ様を見つめた。

 毎日外に出るから、前より少しだけ日焼けした顔。すらりとしているのに、たくましい腕。


 ――触れたい。そう思った瞬間、わたしは無意識に名前を呼んでいた。


「オリヴィエ様」


 オリヴィエ様の手が止まる。彼はゆっくりとこちらに視線を向けた。


「どうした?」


 そのアメジストの瞳に見つめられると、隠していた熱が顔に集まってくるのが分かった。

 言わなくていい。言えば、彼を困らせるだけだ。

 そう思っているのに、唇が勝手に動いた。


「……どうして、近くにきてくれないんですか」


 オリヴィエ様が驚いたように動きを止めた。


「わたし、オリヴィエ様に、もっと――触れたくて」


 わたしははっとする。


(わたし、今、何を言ってしまったの……!?)


 なんてことを口にしてしまったんだろう。わたしはたまらず、両手で顔を覆った。指に伝わる熱が、どれほど自分が赤面しているかを教えてくれる。


「ごめんなさい! 今の、忘れてください!」


 わたしは顔を上げないまま、言い訳を続ける。


「前世では、その、好きになった人とは、もっと触れ合ったり、抱きしめ合ったり――そういうことも、普通だったんです。だから、ごめんなさい、貞操観念がおかしいって、思いましたよね……」


 部屋を支配したのは、重苦しいほどの沈黙だった。一階から聞こえる笑い声が、どこか遠い世界の出来事のように感じる。

 ああ、やっぱり引かれてしまった。そう思って泣きたくなった。

 消えてしまいたい。今すぐ転移魔法で、世界の果てまで飛んでいってしまいたい。

 そう思った瞬間、ギシと床板が鳴る音がした。

 わたしの手首を、熱い指先がつかんだ。


「ニーナ」


 抗う間もなく、顔を覆っていたわたしの両手が、優しく、けれど拒絶を許さない力で引き剥がされる。

 無理やり顔を上げさせられた先には、アメジストの瞳を暗く沈ませたオリヴィエ様がいた。

 その瞳は、いつもの穏やかな「お兄様」のものでも、もっと冷静な「公爵令息」のものでもなかった。それはもっと、熱を孕んだもの。


「今のは、聞き捨てならない」

「オリヴィエ様……?」


 彼はわたしの顔を間近でのぞき込み、低い声でわたしを追い詰める。


「きみのいた世界では、それが普通だったのか? 男に触れられて、抱きしめられて――その先まで進むことも?」

「え、あ……はい。わたしのいた世界では、その……」

「――そういう相手が、いたのか?」


 彼の手の力が、わずかに強くなる。


「きみは、誰かに、触れられた記憶があるのか? 誰かと、深く――愛し合っていたのか?」


 それは、あまりにも直接的で、感情を剥き出しにした問いだった。


「……ないです! そんなこと、一度も!」


 わたしは必死に首を振った。


「触れられたことも、愛し合ったこともありません。今のは、ただの知識というか、憧れというか……」


 そこまで一気にまくし立てると、オリヴィエ様の身体から、ふっと力が抜けた。

 彼はわたしの手首をつかんでいた手を離し、そのまま自分の顔を覆って、深いため息をついた。


「……そうか――いや、俺は、何を……」


 彼はベッドの縁に崩れ落ちるように座り、乱暴に自分の髪を掻き乱した。


「……きみのいた世界に、俺の知らない男がいて、きみに触れていたかもしれないと考えただけで、目の前が真っ暗になった。……すまない」


 彼は顔を上げ、少しだけ困ったように、それでも愛しそうにわたしを見つめた。


「……さっきの答えを言う。俺がきみに必要以上に近づかないのは――本当は、余裕が、ひとかけらもないからだ」

「え……?」

「そうでもしないと、俺は自分の誓いを破ってしまう。俺はきみを誰よりも大切にしたい。正式に婚姻してもいないのに、勢いに任せてきみを自分のものにするような真似は、絶対にしたくない」

「オリヴィエ様……」


 オリヴィエ様の気持ちが嬉しくて、わたしが熱っぽく見つめると、オリヴィエ様は困ったように顔を逸らした。


「……ああ、もう。きみは、俺を試しているのか?」


 オリヴィエ様は降参したように深くため息をついて、自分のベッドへ戻ろうとした。けれどすぐに立ち止まると、振り返ってもう一度わたしの前へきて、膝をついた。

 その手で、わたしの頬をそっと包み込む。


「オリヴィエさ――」


 名前を呼ぼうとしたわたしの唇を、柔らかい感触が塞いだ。

 それは、雨の雫が落ちたような、一瞬の口づけだった。押し付けるような強引さはなく、ただお互いの体温を確認し合うだけの、切ないくらい短い接触。


 オリヴィエ様はそのまま離れようとせず、今度はわたしの額に、彼自身の額をそっと合わせた。


「ニーナ」


 視線の先にある彼のアメジストの瞳が、至近距離で揺れている。

 鼻先が触れ合い、お互いの熱い吐息が混じり合う。額から伝わってくる彼の熱が、わたしの内側にあった不安を、すべて溶かしていく。


「……きみの瞳。命が芽吹く緑――とてもきれいだ」


 囁かれる言葉の一つ一つに、肌を直接なでられているようで、わたしは身体と心を震わせた。


「本当は、ずっと、こうしていたい」


 彼がつぶやく。その切実な響きに、わたしの胸がぎゅっと締め付けられた。

 あんなに完璧だった彼が、わたしの前でだけはこんなにも余裕のない姿を見せてくれている。そのことが、たまらなく愛おしかった。


「わたしも、です」


 わたしはオリヴィエ様のシャツの裾を、ぎゅっと握りしめた。


「わたしも、離れたくありません。……でも、明日も、その次も、わたしたちには続きがあるから」


 そう答えると、オリヴィエ様は少しだけ力を込めて額を押し当て、それから、深く、深く、息を吐いた。

 そして、離れがたい重力を断ち切るように、ゆっくりと距離を置く。


「そうだな」


 彼は照れ隠しのように唇を噛み、いたずらっぽく、けれど優しくほほえんだ。


「おやすみ、ニーナ」

「……おやすみなさい」


 オリヴィエ様が自分のベッドに潜り込み、ランプの火が消される。

 暗闇に包まれた部屋の中。わたしは使い古された薄いリネンを頭まで被り、落ち着かない鼓動を抑えようと、自分の顔を両手で覆った。

 額に残った感触と、唇に残った確かな熱が、いつまでも消えずにわたしを支配していた。


 明日も、明後日も、その先も。この喜びが当たり前になる未来を想像して、わたしは顔が火照るのを感じながら、幸せな夢の中へと誘われていった。

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