12
ガナンの宿は、一日の終わりを告げる喧騒に包まれていた。
一階の食堂からは、荒くれ者たちの笑い声と、安っぽいエールの匂いが階段を伝って上がってくる。
「ニーナ、明日の準備は終わったか?」
耳に心地よい声がわたしに届く。顔を上げると、そこにオリヴィエ様がいた。
「はい」
わたしは努めて平静を装って答えた。
けれど、胸の奥はずっと、もやもやしている。その気持ちを、自分でも持て余している。
原因は分かっている。
あの日、この宿の屋上で、夜風に吹かれながら交わした、はじめての口づけ。
(あのあと……どうして、何もしてくれないんだろう)
前世の記憶があるせいで、わたしの恋愛観は、この世界の規範からは少しズレているのかもしれない。
わたしは、恋人同士になったのなら、もっと触れ合ったり、抱きしめ合ったりするのが、自然な流れだと思っていた。
けれど、オリヴィエ様はあの日以来、わたしに触れてはこない。
二人きりの部屋にいても、彼は決してわたしのベッドには近づかない。手を握ることさえ、あの夜市に出かけた日のように、「はぐれないように」という理由がある時だけ。
部屋に戻れば、彼は決まって自分のベッドの端に座り、黙々と剣の手入れをするか、明日の方針を確認して準備を行うだけ。
(そういえば、恋人になろうとか、そういう話をしたわけじゃ、ない……)
そんな考えばかりがぐるぐると頭を巡る。
わたしは自分のベッドに座ると、眠る前に道具の最終確認をしているオリヴィエ様を見つめた。
毎日外に出るから、前より少しだけ日焼けした顔。すらりとしているのに、たくましい腕。
――触れたい。そう思った瞬間、わたしは無意識に名前を呼んでいた。
「オリヴィエ様」
オリヴィエ様の手が止まる。彼はゆっくりとこちらに視線を向けた。
「どうした?」
そのアメジストの瞳に見つめられると、隠していた熱が顔に集まってくるのが分かった。
言わなくていい。言えば、彼を困らせるだけだ。
そう思っているのに、唇が勝手に動いた。
「……どうして、近くにきてくれないんですか」
オリヴィエ様が驚いたように動きを止めた。
「わたし、オリヴィエ様に、もっと――触れたくて」
わたしははっとする。
(わたし、今、何を言ってしまったの……!?)
なんてことを口にしてしまったんだろう。わたしはたまらず、両手で顔を覆った。指に伝わる熱が、どれほど自分が赤面しているかを教えてくれる。
「ごめんなさい! 今の、忘れてください!」
わたしは顔を上げないまま、言い訳を続ける。
「前世では、その、好きになった人とは、もっと触れ合ったり、抱きしめ合ったり――そういうことも、普通だったんです。だから、ごめんなさい、貞操観念がおかしいって、思いましたよね……」
部屋を支配したのは、重苦しいほどの沈黙だった。一階から聞こえる笑い声が、どこか遠い世界の出来事のように感じる。
ああ、やっぱり引かれてしまった。そう思って泣きたくなった。
消えてしまいたい。今すぐ転移魔法で、世界の果てまで飛んでいってしまいたい。
そう思った瞬間、ギシと床板が鳴る音がした。
わたしの手首を、熱い指先がつかんだ。
「ニーナ」
抗う間もなく、顔を覆っていたわたしの両手が、優しく、けれど拒絶を許さない力で引き剥がされる。
無理やり顔を上げさせられた先には、アメジストの瞳を暗く沈ませたオリヴィエ様がいた。
その瞳は、いつもの穏やかな「お兄様」のものでも、もっと冷静な「公爵令息」のものでもなかった。それはもっと、熱を孕んだもの。
「今のは、聞き捨てならない」
「オリヴィエ様……?」
彼はわたしの顔を間近でのぞき込み、低い声でわたしを追い詰める。
「きみのいた世界では、それが普通だったのか? 男に触れられて、抱きしめられて――その先まで進むことも?」
「え、あ……はい。わたしのいた世界では、その……」
「――そういう相手が、いたのか?」
彼の手の力が、わずかに強くなる。
「きみは、誰かに、触れられた記憶があるのか? 誰かと、深く――愛し合っていたのか?」
それは、あまりにも直接的で、感情を剥き出しにした問いだった。
「……ないです! そんなこと、一度も!」
わたしは必死に首を振った。
「触れられたことも、愛し合ったこともありません。今のは、ただの知識というか、憧れというか……」
そこまで一気にまくし立てると、オリヴィエ様の身体から、ふっと力が抜けた。
彼はわたしの手首をつかんでいた手を離し、そのまま自分の顔を覆って、深いため息をついた。
「……そうか――いや、俺は、何を……」
彼はベッドの縁に崩れ落ちるように座り、乱暴に自分の髪を掻き乱した。
「……きみのいた世界に、俺の知らない男がいて、きみに触れていたかもしれないと考えただけで、目の前が真っ暗になった。……すまない」
彼は顔を上げ、少しだけ困ったように、それでも愛しそうにわたしを見つめた。
「……さっきの答えを言う。俺がきみに必要以上に近づかないのは――本当は、余裕が、ひとかけらもないからだ」
「え……?」
「そうでもしないと、俺は自分の誓いを破ってしまう。俺はきみを誰よりも大切にしたい。正式に婚姻してもいないのに、勢いに任せてきみを自分のものにするような真似は、絶対にしたくない」
「オリヴィエ様……」
オリヴィエ様の気持ちが嬉しくて、わたしが熱っぽく見つめると、オリヴィエ様は困ったように顔を逸らした。
「……ああ、もう。きみは、俺を試しているのか?」
オリヴィエ様は降参したように深くため息をついて、自分のベッドへ戻ろうとした。けれどすぐに立ち止まると、振り返ってもう一度わたしの前へきて、膝をついた。
その手で、わたしの頬をそっと包み込む。
「オリヴィエさ――」
名前を呼ぼうとしたわたしの唇を、柔らかい感触が塞いだ。
それは、雨の雫が落ちたような、一瞬の口づけだった。押し付けるような強引さはなく、ただお互いの体温を確認し合うだけの、切ないくらい短い接触。
オリヴィエ様はそのまま離れようとせず、今度はわたしの額に、彼自身の額をそっと合わせた。
「ニーナ」
視線の先にある彼のアメジストの瞳が、至近距離で揺れている。
鼻先が触れ合い、お互いの熱い吐息が混じり合う。額から伝わってくる彼の熱が、わたしの内側にあった不安を、すべて溶かしていく。
「……きみの瞳。命が芽吹く緑――とてもきれいだ」
囁かれる言葉の一つ一つに、肌を直接なでられているようで、わたしは身体と心を震わせた。
「本当は、ずっと、こうしていたい」
彼がつぶやく。その切実な響きに、わたしの胸がぎゅっと締め付けられた。
あんなに完璧だった彼が、わたしの前でだけはこんなにも余裕のない姿を見せてくれている。そのことが、たまらなく愛おしかった。
「わたしも、です」
わたしはオリヴィエ様のシャツの裾を、ぎゅっと握りしめた。
「わたしも、離れたくありません。……でも、明日も、その次も、わたしたちには続きがあるから」
そう答えると、オリヴィエ様は少しだけ力を込めて額を押し当て、それから、深く、深く、息を吐いた。
そして、離れがたい重力を断ち切るように、ゆっくりと距離を置く。
「そうだな」
彼は照れ隠しのように唇を噛み、いたずらっぽく、けれど優しくほほえんだ。
「おやすみ、ニーナ」
「……おやすみなさい」
オリヴィエ様が自分のベッドに潜り込み、ランプの火が消される。
暗闇に包まれた部屋の中。わたしは使い古された薄いリネンを頭まで被り、落ち着かない鼓動を抑えようと、自分の顔を両手で覆った。
額に残った感触と、唇に残った確かな熱が、いつまでも消えずにわたしを支配していた。
明日も、明後日も、その先も。この喜びが当たり前になる未来を想像して、わたしは顔が火照るのを感じながら、幸せな夢の中へと誘われていった。




