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13

 それからの日々は、驚くほど平穏で、そして宝石のように美しい時間だった。


 昼間はギルドの依頼を受けて魔物を狩る。生い茂る草を分けて、剣を振るって、魔法を唱える。オリヴィエ様と一緒なら、殺伐とした狩りもまるで苦にならなかった。

 夜は人目のつかない夜空の下で、時々、静かに口づけを交わした。触れ合う指先から伝わる体温は、夜風の冷たさを忘れさせるほどにあたたかい。


「きみが笑うと、俺は自分が生きていることを実感できる」


 ふわりとわたしの髪を梳くオリヴィエ様の手。狩場で見せる鋭い表情とは正反対の、慈しむようなほほえみ。彼と過ごす時間は、わたしにとって何物にも代えがたい幸福だった。

 このまま、時が止まればいい。密かにそんな祈りを捧げるほどに。


 ――けれど、そんな幸福は唐突に、最悪の形で終わりを告げる。



 ♰ ♰ ♰



 その日は、残酷なまでに美しい夕焼けだった。

 空は燃えるような茜色から紫のグラデーションとなり、ガナンの喧騒さえも一瞬、静寂に塗り潰されたような錯覚を覚える。


 わたしたちはいつものようにギルドの仕事を終え、街外れの森で薪を拾って宿に戻ろうとしていた。


「……今日は、冷えますね」

「ああ。夜にはもっと下がるだろう。火を多めに焚こう」


 交わされるのは、どこまでも平凡で、温かい会話。その穏やかさが、わたしを安心させる。

 

 ――その時だった。

 ガナンの湿った泥道には、場違いな重い音が背後から迫る。鉄の車輪が泥を噛む嫌な音。

 二人そろって振り返る。オリヴィエ様が、抱えていた薪を落とした。乾いた音が地面に響く。


 現れたのは、装飾を極限まで削ぎ落とし、機能美に特化した漆黒の馬車と、三騎の騎兵。

 馬車の扉が音もなく開き、そこから一人の少年が降り立った。

 わたしよりも年下、十六歳ほどだろうか。その姿を見た瞬間、わたしは空気をすべて奪われたような感覚に陥る。


 少年の髪は、夕闇の中でも鮮やかに輝く銀。そして宝石のように美しい、アメジストの瞳。それはオリヴィエ様に、あまりにも酷似していた。


「――見つけましたよ、兄上。……今は、アルと名乗っているのでしたか」

「エクトル」


 オリヴィエ様は信じられないようにつぶやいた。

 つまり彼は、オリヴィエ様の弟。若々しさが残る顔立ちには、公爵家の教育がもたらした冷静さと、それを捨てた兄に対する複雑な思いが混じり合っているようだった。

 エクトル様の背後に、鋼のような体躯をした三名の騎士が、騎馬から降りて控える。


「エクトル、なぜ――」

「なぜ?」


 エクトル様はいら立ったように端正な顔を歪めた。


「兄上の、たちの悪い遊びを終わらせにきたに決まっています」


 そしてエクトル様は、その視線をオリヴィエ様の隣に立つわたしへと向けた。忌々しく睨むような、露骨な嫌悪のまなざし。


「やれ」


 その短い一言で、騎士の一人がさっと動いた。


『サイレンス・チェイン』


 突如、わたしの喉元に、氷のような冷たさと圧迫感が走る。


「……っ!」


 声が出ない。それどころか、内側の魔力が、見えない鎖でがんじがらめに縛り付けられたように、深い沈黙を強いられる――詠唱妨害の魔法だ。


(これじゃ魔法が――)


「ニーナ!」

「兄上、何度も言わせないでください。遊びは終わりです。王都を離れて二カ月。もう十分でしょう?」


 エクトル様のまだ若く透明感のある声が、それでも怒りを抑えこんでいるように、低く響いた。

 わたしは息をのみ、思わずオリヴィエ様を振り仰いだ。彼は、見たこともないほど蒼白な顔をしていた。


「やめろ、ニーナに手を出すな! 彼女は関係ない!」

「関係ないはずがないでしょう! 兄上が家を裏切ったのは、すべてその女のせいだ!」

「違う!」


 オリヴィエ様がわたしを背後に庇い、腰の剣を引き抜いた。銀光が夕闇を切り裂く。


「彼女に指一本でも触れてみろ。たとえ血を分けた弟であっても容赦はしない」

「兄上!」


 エクトル様の悲鳴のような叫び。同時に、三人の騎士たちが流れるような動作で前へ出た。彼らは感情を排した声で淡々と告げる。


「オリヴィエ様。我々は公爵閣下より命を受けております。エクトル様を護り、オリヴィエ様を連れて戻るようにと」

「妨害があるならば、我々は全力でそれを排除いたします」

「我々の実力は、オリヴィエ様ご自身がよくご存じのはずです。詠唱を封じられた聖女を守りながら、我々三人を相手に、勝機があるとお考えですか?」


 先ほど魔法を放った騎士が、追い打ちをかけるように追唱を行う。

 喉の枷が一段と強く締まった。魔力を強引に抑え込まれる反動で、視界がちかちかと明滅する。


「――っ……はぁ」


 苦しい。わたしはたまらず、泥に塗れた地面に膝をついた。

 騎士たちと対峙し、わたしを背に庇っていたオリヴィエ様が、弾かれたように振り返った。言葉にならない悲痛な表情で、わたしの隣に膝をつく。オリヴィエ様はその手でわたしの肩を抱き寄せようとした。その前に騎士の冷たい声が響く。


「我々にとって、その娘は保護の対象ではありません。命の保証は、いたしかねます」


 わたしを抱きしめようとした彼の手が、空中で凍りついたように止まった。伸ばされた指先が、微かに震えているのが見えた。

 ……やがて、そのまま力なく、重力に負けるように、その手は地面へと落ちる。

 オリヴィエ様は深くうつむき、その表情は髪に隠れて見えなくなった。

 

(オリヴィエ様、待って。わたしは――)


 心の中で叫んでも、声は形にならない。やがて、彼はゆっくりと、幽鬼のような足取りで立ち上がった。


「……ニーナ」


 冷たい声。顔を背けたオリヴィエ様の表情は見えない。だけど、その拳が、白くなるほどに固く握りしめられているのが分かった。


「茶番は終わりだ」


 わたしの視界が涙で歪んでいく。


「……こんなところで暮らすのは、耐え難かった。俺は、あるべきところへ戻る。――さようならだ」


 一度もこちらを振り返ることなく、彼は剣を鞘に収め、漆黒の馬車へと歩き出した。

 その足取りは、まるで最初からそう決まっていたかのように、迷いがない。


「兄上」

「……すまなかったな、エクトル。心配をかけた。もう大丈夫だ」


 騎士たちが恭しく馬車の扉を開ける。吸い込まれるように、彼はエクトル様とその中へと消えていく。


「オリヴィエ様、賢明なご判断に感謝いたします。……さあ、出せ!」


 扉が閉まる。馭者が鞭を振るい、馬がいなないて走り出す。騎士たちも警戒するようにわたしを確認しながら馬上の人となった。


 わたしは必死に、喉を絞める詠唱妨害の魔法を破ろうとする。イメージする。こんなもの、引きちぎってやる。

 熱いものが胸の奥から突き上げる。カッと体の内側から魔力があふれ出す。


「――っ!」


 喉が、裂けたと思った。そんなことはどうでもいい。走り出した馬車へ向かって、わたしは痺れる足を引きずり、立ち上がった。


「オリヴィエ様!」

「――馬鹿な、詠唱妨害を破っただと!?」

「構うな! 行くぞ!」


 騎士の一人が剣を抜いたが、促されてすぐに馬車の後に続く。


「オリヴィエ様、行かないで!」


 大粒の涙が頬を伝い、視界をぐちゃぐちゃに歪ませる。でも、わたしは目を逸らさずに、走り出した馬車を追って駆け出そうとした。

 その瞬間に、無理やりに詠唱妨害を破った身体が悲鳴を上げ、わたしは激しく転倒した。


「オリヴィエ様……!」


 最後の叫びは、夜の帳が下り始めた街に虚しく響いた。遠ざかっていく蹄の音。漆黒の車体が完全に見えなくなるまで、わたしは動けなかった。


 わたしは土の上に額をつけて嗚咽した。涙が、地面を濡らしていく。

 オリヴィエ様の最後の言葉が頭の中で、何度も繰り返される。


(――うそつき。そんなわけ、ないじゃない)


 脳裏に、いくつもの記憶が奔流となって押し寄せた。壊れ物を扱うようにそっとわたしに触れた指先。あんなにも優しく笑った瞳。

 彼はわたしを救おうとした。自分の全てを捧げて、わたしを守ったんだ。


(奪われるときには、いつも助けてもらった)


 前世でもそうだった。理不尽に全てを奪われそうになったとき、わたしは救ってもらえた。そしてこの世界で、わたしを一緒にここまで連れてきてくれたのは、あなただった。


(……だから、今度はわたしの番だ)


 夕闇が街を飲み込み、夜が始まる。

 わたしは泥だらけの手を握りしめ、顔を上げた。


「待っていてください。オリヴィエ様」


 瞳からは、まだ涙がこぼれる。けれどその奥では、わたしは激しい炎のような意志を燃やしていた。

 それに呼応するように、魔力が漏れ出る。白銀の光に包まれて、周囲の草花がその生命力を受けて一瞬で芽吹いていった。


「わたし、諦めません。あなたを諦めるなんて、できない」


 わたしはこの力を――自分が捨てた王国の聖女としての力を、今この瞬間に利用すると決めた。

 たったひとりの大切な人を、もう一度取り戻すために。

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