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 ガナンの宿の、使い慣れたはずの小さな部屋。

 わずかばかりの荷物をまとめ終えたわたしは、最後にもう一度だけ室内を振り返った。

 つい先日まで、ここにはオリヴィエ様の気配が満ちていた。それが幻だったかのように、今の空間はひどく寒々しい。

 胸の奥を鋭い錐で突かれたような痛みが走る。けれど、わたしはもう泣かなかった。



 ♰ ♰ ♰



 それなりに貯まっていた報酬のおかげで、王都までの旅路に苦労することはなかった。

 交易馬車に揺られながら、わたしは馬車の外を流れる景色を、ただ空虚なまなざしで見つめ続けていた。

 街道を進むにつれ、自然のままの荒々しい景色は穏やかな草原に変わり、道は白く整えられた石畳へと変貌していく。あの時に逃げ出した、秩序の世界が戻ってくる。


 王都――グラン・セラムの中心部。高くそびえる王宮の城壁と、威圧的に天を突く大聖堂の尖塔。

 大聖堂の正門の前で、わたしは深く被っていた旅人のフードをゆっくりと脱いだ。

 衛兵たちの目が、怪訝なものから驚愕へと変わる。わたしは精一杯、背筋を伸ばした。砂埃のついた旅装束のままでも、その誇りだけは汚させない。


「神官長へ伝えてください。ニーナ・リエルが、戻ってきましたと」



 ♰ ♰ ♰



 連れていかれたのは、大聖堂の奥深くにある審問の間だった。

 天井が高く、音の反響が虚しく響くその部屋は、窓から降り注ぐあたたかな光とは正反対の、冷たい空気が支配していた。

 わたしを取り囲むのは神官たちと、そして知らせを聞いて駆けつけたルカ殿下だった。ルカ殿下は、信じられないものを見るような表情で立ち尽くしていた。


「……ニーナ。きみが自ら戻ってくるとは思っていなかった」


 ルカ殿下の声には困惑がにじんでいた。

 わたしの両手首には、今、重々しい手錠がはめられている。ただの金属ではない。表面には青い光を放つ術式が刻まれた、高位の魔法使いをも無力化する魔封じの手枷だ。

 神官たちは、真っ先にこの魔道具を持ち出した。わたしはそれを、あえて拒まずに受け入れた。


「わたしの行動を、今さらご理解いただく必要はありません。ただ、どうかわたしの話を聞いてください。その上で、選択していただきたいのです」

「選択?」


 わたしはルカ殿下を真っ向から見据えた。淡々と、けれど重みのある言葉を紡ぐ。


「この国が、五百年もの間つきあい続けているカタコンベの呪い。それを、わたし一人で引き受けます」


 その言葉に、ルカ殿下だけでなく、神官たちにも動揺が広がる。

 かつてわたしも向かった、広大なカタコンベ。そこから漏れ出す強烈な死気は、代々の聖女たちが結界を張り、抑え込んできたものだ。定期的な派遣は、その結界の状態を確認するためでもある。

 わたしは一拍置き、目を逸らさずに続けた。


「お隠しになっても無駄です。カタコンベの結界は弱まっていますよね。その結果を、ルカ殿下は身をもって体験されたはずです」


 ルカ殿下が息をのんだ。精鋭である聖騎士団が、あふれ出したグールの群れに飲まれかけ、壊滅の危機に陥った事件。それに対処したのは他でもない、わたしだ。


「今後も結界を張り続ければ、持ち堪えるかもしれません。けれど、それは単なる先送りに過ぎません。万が一のことがあれば、王都は混乱に陥るでしょう。わたしなら、封じ込めではなく、根源からの浄化ができます」

「……きみが、一人でそれをできると?」


 わたしは、あえて一歩だけ前に出た。


「できます。いえ、わたしにしかできません」


 言葉を終えると同時に、わたしは両腕に力を込めた。詠唱する必要はない。ただ、体内を巡る濁りのない魔力を、一点に集中させる。

 静かな部屋に、パキン、という硬質な音が響いた。わたしの魔力を封じ込めるはずの術式が、その圧力に耐えかねて悲鳴を上げたのだ。青い発光が激しく明滅し、次の瞬間、重い手枷が、まるで脆いガラス細工のように粉々に砕け散り、床に虚しく転がった。

 驚愕の声を上げて後退する神官たち。ルカ殿下もまた、目を見開いている。わたしは解放された両手を静かに下ろした。


「ルカ殿下。申し上げました通り、選択していただきたいのです。わたしに、騒ぎを起こした逃亡者として罰を受けさせるか。それともわたしを使い、王都の不安要素を排除するか」


 床に散らばった破片が、窓から差し込む光を反射して冷たく光る。ルカ殿下は即座に言葉を返さなかった。砕かれたその残骸と、その前に立つわたしを交互に、慎重に見つめている。


(……ルカ殿下。王国のために、わたしを選択してください。どうか――)


 わたしは内心の焦りをおもてには出さなかった。

 ルカ殿下は深く、長く沈黙していた。神官たちが助けを求めるように彼を見つめている。

 やがて、ルカ殿下は静かに言った。


「……きみの発言は、聖女の祈りでも、逃亡者の謝罪でもないな。強者による脅迫に近い。――きみの望みは、何だ」


 問われ、わたしは迷わずに言った。


「わたしを大聖堂の聖女として復帰させてください。ただし、筆頭聖女となっても、王家に嫁ぐことも、誰かの所有物になることも、受け入れません」

「……きみが、自ら戻ってきた理由は? きみのように聖女を降りたいといって大聖堂を去る人間は時折いる。だが犯罪者の逃亡とは違い、追跡は厳しいものではない。逃げ切ることはできたはずだ」


 ルカ殿下の鋭い問いに、わたしは一瞬だけ視線を伏せた。脳裏に浮かぶのは、あの人の姿。


「……オリヴィエか」

「…………」


 わたしは答えなかった。

 ルカ殿下は、深いため息をついた。そうして、ルカ殿下は決意したようだった。


「神官長。決定は、私に任せてくれるか」

「仰せの通りに」

「……ニーナ、きみの条件を飲もう。聖女選定の儀から逃亡したことについては不問とし、大聖堂の聖女への復帰を認める。代わりに、きみにはその宣言通り、カタコンベの完全浄化を完遂してもらう」



 ♰ ♰ ♰



 こうして、わたしは大聖堂の聖女として返り咲いた。

 かつては重荷でしかなかった聖衣に袖を通し、わたしは鏡の中の自分を見つめる。瞳の奥には、今までにない、冷たく燃え上がるような情熱が宿っていた。


 カタコンベの浄化を成し遂げれば、わたしの存在はもっと大きくなる。わたしの意思を――願いを、聞かざるを得なくなるはずだ。


 大聖堂の高い窓から、王都の街並みを見下ろす。その視線の先にあるのは、公爵家の広大な屋敷がある方角だ。

 今はまだ、触れることも、言葉を交わすことも、見ることさえも許されない。


「……待っていてください、オリヴィエ様」


 冷たい窓ガラスに指先で触れ、わたしは独りごちた。

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