表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/20

15

 カタコンベに満ちる空気は、重く、粘りつくような死の気配に支配されている。


 かつてのわたしは、目立たぬように、あえて力を抑えて息を潜めていた。

 けれど、今のわたしは違う。

 周囲の聖女や神官たちは、わたしのことを「救国の聖女」だなんて呼んでいたけれど、彼らの瞳の奥には、得体の知れない怪物を見るような怯えもまた、透けていた。そしてそれは、それだけわたしの様子が異常だったからだろう。

 わたしは夜明けとともに地下へ降り、日没まで一歩も地上へ戻ることなく、ただ機械的に膨大な魔力を吐き出し続けた。


『ターン・アンデッド』


 網膜を焼くようなまばゆい光。

 視界が真っ白に染まる中、わたしの心は、この場所にはない別の景色をさまよっている。


(……心は、オリヴィエ様のところにあるから)


 目を閉じれば、今も鮮明に浮かび上がる。ともに過ごした日々。それらを思い出すたびに、胸の奥が焼けるように熱くなる。

 その熱を動力源にして、わたしは魔力を練り上げる。今のわたしにとって、聖女としての仕事は救済でも慈悲でもなく、オリヴィエ様へ辿り着くための準備に過ぎなかった。


 ――けれど、王都に戻ってきてから数週間。わたしがオリヴィエ様の姿を見ることはできなかった。

 人伝てに聞いた話では、オリヴィエ様は戻るなり、公爵家の領土に近い西方の平定に向かったのだという。彼はこの王都にさえいなかった。



 ♰ ♰ ♰



 その夜、ルカ殿下が主催する夜会が催されていた。

 着飾った貴族たちが、シャンデリアの贅沢な輝きの下で、今や話題となった聖女の登場を、闘技場の観客のような好奇心で待ちわびている。


 広間の巨大な扉が開かれ、わたしが姿を現すと、それに気づいた人々の視線が吸い寄せられるように集まっていく。

 以前のわたしなら、この好奇の視線に耐えきれず、すぐにバルコニーへ逃げ出していただろう。

 今のわたしは違う。わたしは静かに顎を上げ、磨き上げられた床の上を迷いなく歩を進める。自身へ注がれる視線の全てを、傲慢なほどに受け止めて。


 広間の中央には、穏やかな笑みを浮かべるルカ殿下がいる。

 そしてその傍らに――わたしの世界のすべてが、立っていた。


 大理石の彫刻のように硬く、無表情のオリヴィエ様。黒く染めていた髪は元の銀髪に戻り、美しく整えられている。アメジストの輝きは、深い霧に閉ざされた湖のように静かだ。一点の曇りもない礼装を身に着けたオリヴィエ様は、間違いなく完璧な貴公子だった。


 わたしの視線は、まっすぐに彼だけを射抜く。周囲の人間なんて、もう視界に入っていない。数多の宝石の輝きも、心地よい音楽も、わたしにとっては意味を成さない雑音に過ぎなかった。


 ゆっくりと、彼は視線をあげてこちらを見る。わたしは息が止まりそうになった。


「…………」


 彼は何も言わなかった。ただ、そのまなざしが、わたしの姿に吸い寄せられるように固定される。


(オリヴィエ様、痩せた――)


 胸が締め付けられる。あのガナンの日々、ともに過ごしていた頃の彼は、柔らかく笑っていたのに。

 わたしはきゅっと手を握ると、ルカ殿下の前に進み出て、丁寧に頭を下げた。ルカ殿下が満足そうにわたしを労った。


「ニーナ。我が国の大切な聖女。日々の尽力に感謝している。今宵は、ゆっくりと楽しんでくれ」


 そしてルカ殿下は、視線をオリヴィエ様に移した。

 ルカ殿下は、オリヴィエ様の無表情にわずかに眉を動かす。ほんの一瞬、痛ましくてたまらないという目をして、それからわたしへと視線を戻す。

 わたしを見るその表情には、もう社交用の穏やかな笑みが浮かんでいる。


「オリヴィエも、公爵家の懸案であった西方の平定を終え、つい先日、王都に帰還したばかりだ。戦いから戻ったオリヴィエと、ぜひ言葉を交わしてやってくれないか」


 そう言ってルカ殿下はあえてわたしから視線を逸らし、側近に言葉をかけながら、わたしたちにさりげなく背を向けた。

 オリヴィエ様から少し離れた場所では、こちらをうかがうエクトル様の姿があった。牽制するような――いや、不安そうな表情でわたしを見ている。


 わたしはオリヴィエ様と向き合った。

 周囲の貴族たちの話し声が遠のき、世界には、わたしと彼、二人だけが取り残されたような錯覚に陥る。


「ノア小公爵様」


 わたしがそう呼ぶと、その瞬間、彼の端正な眉が微かに動く。

 かつて愛しく名を呼び合った唇が、今はこれ以上ないほどに他人行儀な会話をはじめる。おもてには出さなかったが、わたしは胃がせり上がるような感覚に襲われていた。


「西方の平定から、ご無事でご帰還されたことお喜び申し上げます」

「……聖女殿の活躍も聞いている」


 聞き慣れた、けれど記憶の中よりも幾分硬い声が響いた。

 彼もまた、わたしをニーナとは呼ばない。呼ぶことが許されないのだ。

 わたしは喉元まで出かけた激情を、鉄の意志で飲み込む。


「ありがとうございます。ルカ殿下をはじめ、皆様のご支援に、深く感謝いたします」


 わたしは、完璧に無機質な微笑を返した。オリヴィエ様のアメジストの瞳が、一瞬だけ、激しい苦悶に歪むのをわたしは見逃さなかった。


(……オリヴィエ様。わたしは、あなたの知っているわたしのままです)


 手を伸ばせば、触れられるほど近くにいる。だけどできない。わたしも、オリヴィエ様も、互いの役割という距離を保ったまま。


「……聖女殿、無理はなさらぬように」

「ご心配には及びません。わたしは、守るべきもののために、この場所を選んだのですから」


 オリヴィエ様に、その言葉の真意が伝わっただろうか。守るべきもの――それが何を指しているのか。

 オリヴィエ様は目を伏せ、唇を固く結ぶ。それ以上は何も言わず、すぐにルカ殿下に断りを入れる。


「殿下、私はこれで」


 そしてオリヴィエ様は、一度も振り返ることなく、背を向けて去っていった。エクトル様も後に続く。


 立ち去る彼の背中は、凛としていて、とても孤独に見えた。

 わたしはその背中を追いかけたい衝動を、奥歯を噛み締めて抑え込んだ。聖衣が、夜の闇をまとっているかのように重い。


 浄化が終わり、準備が整ったその時こそ。その時こそきっと――わたしはあなたの元へと駆けつける。


 その誓いだけが、今のわたしの、たった一つの希望だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ