15
カタコンベに満ちる空気は、重く、粘りつくような死の気配に支配されている。
かつてのわたしは、目立たぬように、あえて力を抑えて息を潜めていた。
けれど、今のわたしは違う。
周囲の聖女や神官たちは、わたしのことを「救国の聖女」だなんて呼んでいたけれど、彼らの瞳の奥には、得体の知れない怪物を見るような怯えもまた、透けていた。そしてそれは、それだけわたしの様子が異常だったからだろう。
わたしは夜明けとともに地下へ降り、日没まで一歩も地上へ戻ることなく、ただ機械的に膨大な魔力を吐き出し続けた。
『ターン・アンデッド』
網膜を焼くようなまばゆい光。
視界が真っ白に染まる中、わたしの心は、この場所にはない別の景色をさまよっている。
(……心は、オリヴィエ様のところにあるから)
目を閉じれば、今も鮮明に浮かび上がる。ともに過ごした日々。それらを思い出すたびに、胸の奥が焼けるように熱くなる。
その熱を動力源にして、わたしは魔力を練り上げる。今のわたしにとって、聖女としての仕事は救済でも慈悲でもなく、オリヴィエ様へ辿り着くための準備に過ぎなかった。
――けれど、王都に戻ってきてから数週間。わたしがオリヴィエ様の姿を見ることはできなかった。
人伝てに聞いた話では、オリヴィエ様は戻るなり、公爵家の領土に近い西方の平定に向かったのだという。彼はこの王都にさえいなかった。
♰ ♰ ♰
その夜、ルカ殿下が主催する夜会が催されていた。
着飾った貴族たちが、シャンデリアの贅沢な輝きの下で、今や話題となった聖女の登場を、闘技場の観客のような好奇心で待ちわびている。
広間の巨大な扉が開かれ、わたしが姿を現すと、それに気づいた人々の視線が吸い寄せられるように集まっていく。
以前のわたしなら、この好奇の視線に耐えきれず、すぐにバルコニーへ逃げ出していただろう。
今のわたしは違う。わたしは静かに顎を上げ、磨き上げられた床の上を迷いなく歩を進める。自身へ注がれる視線の全てを、傲慢なほどに受け止めて。
広間の中央には、穏やかな笑みを浮かべるルカ殿下がいる。
そしてその傍らに――わたしの世界のすべてが、立っていた。
大理石の彫刻のように硬く、無表情のオリヴィエ様。黒く染めていた髪は元の銀髪に戻り、美しく整えられている。アメジストの輝きは、深い霧に閉ざされた湖のように静かだ。一点の曇りもない礼装を身に着けたオリヴィエ様は、間違いなく完璧な貴公子だった。
わたしの視線は、まっすぐに彼だけを射抜く。周囲の人間なんて、もう視界に入っていない。数多の宝石の輝きも、心地よい音楽も、わたしにとっては意味を成さない雑音に過ぎなかった。
ゆっくりと、彼は視線をあげてこちらを見る。わたしは息が止まりそうになった。
「…………」
彼は何も言わなかった。ただ、そのまなざしが、わたしの姿に吸い寄せられるように固定される。
(オリヴィエ様、痩せた――)
胸が締め付けられる。あのガナンの日々、ともに過ごしていた頃の彼は、柔らかく笑っていたのに。
わたしはきゅっと手を握ると、ルカ殿下の前に進み出て、丁寧に頭を下げた。ルカ殿下が満足そうにわたしを労った。
「ニーナ。我が国の大切な聖女。日々の尽力に感謝している。今宵は、ゆっくりと楽しんでくれ」
そしてルカ殿下は、視線をオリヴィエ様に移した。
ルカ殿下は、オリヴィエ様の無表情にわずかに眉を動かす。ほんの一瞬、痛ましくてたまらないという目をして、それからわたしへと視線を戻す。
わたしを見るその表情には、もう社交用の穏やかな笑みが浮かんでいる。
「オリヴィエも、公爵家の懸案であった西方の平定を終え、つい先日、王都に帰還したばかりだ。戦いから戻ったオリヴィエと、ぜひ言葉を交わしてやってくれないか」
そう言ってルカ殿下はあえてわたしから視線を逸らし、側近に言葉をかけながら、わたしたちにさりげなく背を向けた。
オリヴィエ様から少し離れた場所では、こちらをうかがうエクトル様の姿があった。牽制するような――いや、不安そうな表情でわたしを見ている。
わたしはオリヴィエ様と向き合った。
周囲の貴族たちの話し声が遠のき、世界には、わたしと彼、二人だけが取り残されたような錯覚に陥る。
「ノア小公爵様」
わたしがそう呼ぶと、その瞬間、彼の端正な眉が微かに動く。
かつて愛しく名を呼び合った唇が、今はこれ以上ないほどに他人行儀な会話をはじめる。おもてには出さなかったが、わたしは胃がせり上がるような感覚に襲われていた。
「西方の平定から、ご無事でご帰還されたことお喜び申し上げます」
「……聖女殿の活躍も聞いている」
聞き慣れた、けれど記憶の中よりも幾分硬い声が響いた。
彼もまた、わたしをニーナとは呼ばない。呼ぶことが許されないのだ。
わたしは喉元まで出かけた激情を、鉄の意志で飲み込む。
「ありがとうございます。ルカ殿下をはじめ、皆様のご支援に、深く感謝いたします」
わたしは、完璧に無機質な微笑を返した。オリヴィエ様のアメジストの瞳が、一瞬だけ、激しい苦悶に歪むのをわたしは見逃さなかった。
(……オリヴィエ様。わたしは、あなたの知っているわたしのままです)
手を伸ばせば、触れられるほど近くにいる。だけどできない。わたしも、オリヴィエ様も、互いの役割という距離を保ったまま。
「……聖女殿、無理はなさらぬように」
「ご心配には及びません。わたしは、守るべきもののために、この場所を選んだのですから」
オリヴィエ様に、その言葉の真意が伝わっただろうか。守るべきもの――それが何を指しているのか。
オリヴィエ様は目を伏せ、唇を固く結ぶ。それ以上は何も言わず、すぐにルカ殿下に断りを入れる。
「殿下、私はこれで」
そしてオリヴィエ様は、一度も振り返ることなく、背を向けて去っていった。エクトル様も後に続く。
立ち去る彼の背中は、凛としていて、とても孤独に見えた。
わたしはその背中を追いかけたい衝動を、奥歯を噛み締めて抑え込んだ。聖衣が、夜の闇をまとっているかのように重い。
浄化が終わり、準備が整ったその時こそ。その時こそきっと――わたしはあなたの元へと駆けつける。
その誓いだけが、今のわたしの、たった一つの希望だった。




