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 大聖堂の最上階。そこには聖女だけが立ち入ることを許された、月光の間がある。

 天井は巨大なガラスのドームになっていて、夜になると美しい月光が、銀色の雨のように降り注ぐ場所だ。


 わたしは、精緻な彫刻が施された硬い長椅子に身を横たえ、ただじっと目を閉じていた。

 連日の過酷な浄化作業で、わたしの気力も体力も底をつきかけている。こうして月の光を浴びて、摩耗した心を静めなければ、明日、地下へ潜る力さえ湧いてこない。


(……オリヴィエ様。あなたは今、何を思っていますか)


 閉じたまぶたの裏に、心に焼き付いた彼の面影が浮かぶ。


 その時、静寂を破って、絹が擦れるような柔らかな足音が聞こえてきた。

 目を開けると、そこには月光を反射して輝く、濃い蜂蜜色の髪をした女性が立っていた。


「……シャルロット様」


 今ではルカ殿下の婚約者となったシャルロット様は、ひどく優しく、けれど瞳の奥に深い憂いをたたえ、わたしを見下ろして悲しそうに言った。


「こんなところで、手折られた花のように横たわっているなんて」


 予期せぬ来訪に、わたしはゆっくりと上体を起こす。シャルロット様はわたしの隣に腰を下ろした。


「ニーナさん、少しお話しても良いかしら」

「はい……」

「……わたくし、あなたに謝らなければならないことがあるの」


 何のことだろうと、わたしは小首をかしげる。シャルロット様は真摯にわたしを見つめる。


「孤児院の子どもたちに、わたくしが愛について話したことを覚えている?」


 もうずっと、昔のことのような気がする。わたしはゆっくりとうなずいた。


「ごめんなさい。わたくしは分かっていなかったの。けれど、あなたとオリヴィエ様を見ていて、ようやく理解したわ」


 彼女はそっとわたしの手に、温かな自分の手を重ねた。

 そして、聖女としての祈りを捧げるように、静かに魔法を唱えた。


『リジェネレーション』


 彼女の手から、慈雨のような魔力が流れ込んでくる。わたし自身の回復力を底上げするための、優しさに満ちた力。


「家族といっても、色々な姿がある。そのことであなたたちは苦しんで、それでも愛のために戦っているのね」


 驚くわたしに、彼女は柔らかくほほえんだ。


「あなたのために、オリヴィエ様も戦っているわ」


 心臓が、大きく跳ねた。

 シャルロット様の手から伝わる温もりを感じながら、わたしは彼女の言葉をじっと待った。


「あの方は、西方を平定しながら、現地の領主や大商家と、自らの名前で独占的な契約を結んでしまったの。公爵家でなく、あくまでオリヴィエ様個人としての契約をね。オリヴィエ様は、戦火の中でご自身の手にあった私財をすべて投げ打って、強引に契約を勝ち取っていったのよ」


 わたしは息をのんだ。


「西方の希少な魔石、そして肥沃な土地から産出される穀物の流通。そのすべてを握る権利を、彼は自らの懐に隠したまま王都へ戻ったわ。そして、それを公爵様との交渉材料にしたの」


 シャルロット様は、感服したように瞳を細めた。


「手に入れた利権は、すべて弟のエクトル様に譲る。これがあれば、公爵家は更なる富を得るだろうと。そして、対価として、自分を廃嫡することを要求した。オリヴィエ様は、公爵様の前で、愛と実利を天秤にかけたの。そして公爵様が、どちらを選ぶのかを分かっていたのね」


 語るシャルロット様の声を聞きながら、わたしは胸のあたりをぎゅっと押さえていた。

 わたしが地下で呪いと戦っていた間、彼もまた地上で、自由を買い取るための戦いを繰り広げていたのだ。

 あの時の、無表情で、痩せたオリヴィエ様の顔を思い出して涙がこみあげてくる。


「もちろんこのことは、ルカ殿下もご存知よ。オリヴィエ様は完璧だったわ。手にした利権のひとつ、魔石の販売先を王都に限定させたの。公爵家は利益で、王都は税で潤う。誰も損はしない。何もかも失ったオリヴィエ様以外はね。――まもなく手続きが済めば、オリヴィエ様は正式に廃嫡されるわ」


 そこまで言って、シャルロット様はすっと立ち上がった。


「わたくし、そろそろ戻らないと」


 ああ、とシャルロット様は去り際に一度振り返った。


「わたくし、うっかりここの扉を開けたままにしておいてしまったみたい。どうやら迷い込んでしまった人がいるようだわ。あとで出口を教えて差し上げて?」


 意味が分からないという表情のわたしに、シャルロット様は天使のようなほほえみを残して去っていった。



 ♰ ♰ ♰



 すっと冷たい夜風が通りすぎた。


「ニーナ」


 わたしは、反射的にそちらを振り返り、立ち上がる。

 そこには、降り注ぐ銀の光に縁取られて、オリヴィエ様が立っていた。


「オリヴィエ様……」


 名前を呼ぶだけで、喉の奥が震える。

 張り詰めていた緊張の糸が解け、わたしの瞳から、あの日以来こらえていた涙が堰を切ったようにあふれ出した。


 わたしは駆け寄り、そして彼もまた、禁じられているはずの距離を一瞬で埋めた。

 力強く、けれど壊れ物を扱うような優しさで、彼はわたしを胸の中に抱きしめた。

 

「ニーナ。どうして戻ってきたんだ。こんな風に、力を酷使して」


 わたしはオリヴィエ様の胸の中で、懸命に首を横に振る。


「わたしなら、平気です」


 強がりを言いながら、わたしは彼の胸に顔を埋めた。

 かつての匂いとは違う、品の良い洗練された匂い。すべてが最高級のものに包まれて彼は、でもそれを躊躇なく捨てようとしている。わたしのために。ただの一人の、オリヴィエ様になるために。


「シャルロット様の話は、本当ですか?」

「ああ。彼女が話したとおりだ。……きみに、もう一度会うために」


 オリヴィエ様は、その顔をわたしの首元にうずめる。伝わってくるかすかな震え。そのことが、彼のこれまでの苦労を物語っていた。わたしは精一杯背を伸ばして、彼の背中を強く、強く抱きしめた。


「ニーナ、すまない。あの時のこと。あんな言葉、本心じゃなかった。傷つけてしまって、すまない」


 涙が止まらない。しゃくりあげながらわたしは、必死に言葉をつないだ。


「あと少し……あと少しで、浄化は終わります。そうしたら、ルカ殿下に伝えるつもりでした。わたしの願いをかなえてほしい――オリヴィエ様を、自由にしてほしいって」

「ニーナ……」


 わたしをきつく抱きしめて、オリヴィエ様は、その心をわたしに捧げるように言った。


「ニーナ、きみが好きだ――愛している。この世界のすべてよりも、たった一人、きみが大切なんだ。きみだけが、俺のすべてだ」


 その気持ちが胸にせまって、わたしは泣くことしかできなかった。

 わたしたちは、世界から切り離されたような静かな銀色の光の下で、固く、固く抱き合った。

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