17(完)
カタコンベの最奥。悠久の時を経て積み重なった闇と、腐敗の根源がうごめく暗黒の心臓部。わたしはそこに立ち、己の魂を削るようにして、全魔力を解き放った。
(……これで、最後。全部、終わらせる)
最大魔力を一点に注ぎ込む。
『――サンクチュアリ』
すべてを浄化させ、穢土を聖地へと転化させる。視界のすべてが、まぶしい白光に塗り潰された。
手にあった錫杖に、亀裂が入っていく。わたしは最後の一滴まで、体に流れる魔力の輝きを絞り出した。血液が沸騰したかのように熱くなり、意識の端が白く爆ぜる。不思議と怖くはなかった。その刹那、わたしの頬に、オリヴィエ様が触れてくれたあの指先の温かさが蘇った気がしたから。
あふれ出した光は、地下の闇を、渦巻く怨念をすべて浄化し、純白の世界へと変えていった。
闇の気配は消え、光の粒子が一面に舞う。
わたしの意識は、その穏やかな輝きの向こうへと沈んでいった。
♰ ♰ ♰
次に目を覚ました時、そこは冷たく湿った死の空間ではなかった。
高い天井から柔らかな陽光が降り注ぎ、空気には微かに沈香の香りが混じっている。大聖堂の療養室。見慣れたはずの場所だが、窓から差し込む光の粒が、今までよりもずっとはっきり見えた。
「……気がついた?」
傍らに座り、静かに声をかけてきたのは、シャルロット様だった。その隣には、重々しい軍服を脱ぎ、どこか肩の荷が下りたような晴れ晴れとした表情のルカ殿下が立っている。
わたしは身を起こそうとした。けれど、指先一つ動かすのにも鉛のような重さを感じる。それでもどうにか上体を起こすと、シャルロット様が手を貸してくれた。
「気を失っている間、聖騎士たちがあなたを運んでくれたのよ」
シャルロット様が優しくほほえむ。
「カタコンベは、嘘のように清廉な場所になったわ。もはや呪いの発生源ではない。ただ死者を悼み、祈りを捧げる場所として、民に開放されることになるでしょう」
わたしは自分の、青白い手をしみじみと眺めた。かつては爪の先まで満ちていた魔力が――失われている。
「わたし……魔力が……感じられません。空っぽみたいです」
「ええ、そうね。あなたはカタコンベを完全に浄化した。その代償として、あなたの魔力は枯渇したの。もう二度と、聖女として奇跡を起こすことはできない――そういうことにしておきましょう」
「……そういうこと?」
わたしは首をかしげた。シャルロット様はわたしの手を取り、静かに唱えた。
『リジェネレーション』
清涼な魔力がわたしの体を流れる。その瞬間、わたしの体の奥深く、極小の火種のような魔力が微かに共鳴した。
なくなっているわけではない。今はまだ、奇跡を起こすにはあまりに弱々しくなっているけれど。
「ゆっくり休養すれば、回復するそうよ」
シャルロット様は慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「あなたは聖女の資格を失った――それが、王家と大聖堂の公式見解よ」
ルカ殿下が、王印の押された書面をわたしに手渡す。
「父上と神官長には、私から話をつけておいた。王都を救った奇跡の代償に、聖女がその力を失った。これ以上に美しい幕引きはないだろう? ニーナ、きみは今日、この瞬間から自由だ。もう逃げる必要はない。堂々と、自分の足で旅立てばいい」
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
それが彼らの選んだ救済なのだ。きっと、友人に近い存在としての、真心のようなもの。
血縁という名の呪い、聖女という名の役割。それらすべてから、わたしは今、本当の意味で解き放たれたのだ。
「……ありがとうございます、ルカ殿下。シャルロット様」
震える声で感謝を口にしながら、わたしははっとしてルカ殿下を見上げた。
「あの、一つだけ……お願いが――」
言い終える前に、シャルロット様が静かに扉の方を向いた。
重厚なオークの扉が開く。
そこに、一人の男性が立っていた。
かつての豪華な礼装ではなく、機能的でさっぱりとした旅装束をまとった人――公爵家の至宝と呼ばれ、常に完璧な仮面を被っていたオリヴィエ様。
今の彼には、かつての貴族的な影など微塵もない。ただ一人の男性としての、晴れやかな表情がそこにある。
「願いとは? 私に用意できるものなら、何でも用意しよう」
ルカ殿下がわざとらしく尋ねるが、わたしは力強く首を横に振った。
涙が、次から次へとあふれてくる。願いなら、もう叶っている。
オリヴィエ様が、ゆっくりと歩み寄る。
ベッドから降りたわたしを支えるように、手を取ってくれた。
「せっかくだ。必要なものは、殿下に用意してもらおう。ニーナ、何が欲しい?」
わたしは彼の胸に飛び込んだ。最高級の香りではなく、風と太陽の匂いがする胸の中。
「何もいりません。オリヴィエ様がいるなら……それだけで、何も」
「ニーナ……」
オリヴィエ様の腕が、強くわたしを抱きしめる。
一度体を離してルカ殿下とシャルロット様を見れば、二人は顔を見合わせ、満足そうにうなずいた。ルカ殿下はシャルロット様の肩に手を添え、ゆっくりと部屋の出口へ向かう。
「さて、我々は退屈な公務に戻るとしよう。オリヴィエ、彼女はもう聖女ではない。しっかり護衛するように」
「ええ、命に代えても」
「ニーナさん、落ち着いたら手紙を書いてね。また、あなたとお話がしたいわ」
「はい。きっと書きます」
二人の足音が遠ざかり、部屋に穏やかな沈黙が訪れる。
オリヴィエ様はそっと親指の腹でわたしの頬の涙を拭った。
「ニーナ、どこに行きたい?」
わたしはあふれ出る涙をそのままに、今日までで一番の笑顔を作った。
「オリヴィエ様と一緒なら、どこへでも」
オリヴィエ様は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、胸が苦しくなるくらい美しい笑みをこぼした。
♰ ♰ ♰
数刻後。わたしは最低限の荷物だけを鞄に詰め、重苦しい聖衣を脱ぎ捨てた。オリヴィエ様が選んでくれた、動きやすいリネンの旅装束に身を包む。
その時、廊下から慌ただしい足音が響き渡り、ノックもなしに、息を切らしたエクトル様が駆け込んできた。
わたしとオリヴィエ様の前に立ちはだかったエクトル様の瞳は、怒りと、それ以上に深い悲しみで激しく揺れている。
「……満足ですか、兄上。自分だけその女と手を取り合って、僕を置いて――僕にすべてを押し付けて!」
オリヴィエ様は、一歩も引かずにエクトル様の言葉を受け止めていた。
「エクトル。もしお前が、本当に望むのなら」
オリヴィエ様の声は、驚くほど静かで、温かいものだった。
「このまま俺たちと一緒に来るといい。俺は全力でお前を助ける」
「……っ!」
エクトル様は、息をのんで絶句していた。
やがて、オリヴィエ様と同じアメジストの瞳から、大粒の涙があふれ出す。彼はその場に崩れ落ちるように膝をつき、子どものように泣き出した。
「……そんなこと、できるわけがないじゃないか! 僕は兄上とは違う。何もかも捨てて、王都を離れて生きるなんて、そんなことできるわけがない。僕は公爵家を、兄上を誇りに思って――」
嗚咽が、冷たい石床に吸い込まれていった。オリヴィエ様はそっとエクトル様に近づき、膝をついて肩に手を置いた。
「お前になら、託せると思ったから。だから俺は、行くことができる」
エクトル様は顔をあげ、懸命なまなざしを向けた。エクトル様の本当の気持ちが、涙と一緒にこぼれていく。
「――兄上、僕を忘れませんか? 困ったときには、助けに来てくれますか?」
縋り付くような問いかけに、オリヴィエ様はゆっくりとエクトル様の肩を抱き寄せた。
「当然だ。俺がどこにいるか、お前にはきっと知らせるから。転移魔法の座標も送る」
オリヴィエ様の腕の中でうなずくエクトル様。オリヴィエ様は、その細い体を優しくなでた。
「……それから、エクトル。父上との交渉の際、裏で手を貸してくれたんだろう。自分が後を継ぐからと。ありがとう」
その言葉に、エクトル様はびくりと肩を揺らし、顔を上げた。オリヴィエ様のまっすぐな感謝の言葉に、エクトル様はぐっと唇を噛んで、すっと立ち上がった。
「――もう、行ってください。見送りません」
エクトル様は突き放すように言ったけれど、オリヴィエ様は優しくほほえんで立ち上がると、最後にもう一度エクトル様の頭をなでた。うつむいたエクトル様の足元に、ぽたぽたと染みができていく。
「エクトル、また会おう」
わたしは、エクトル様の横を通り過ぎる際、心を込めて頭を下げた。エクトル様の涙の重みを、わたしは一生忘れてはいけないと思った。
♰ ♰ ♰
大聖堂の門が開く。かつてはここから転移魔法で逃げ出した。けれど今は違う。わたしたちは、二人で並んで歩く。
背後で、重い門が閉まる音が響いた。低い振動は、わたしたちの不自由だった日々が永遠に幕を閉じた合図だ。
「行きましょう、オリヴィエ様」
わたしは隣を歩くオリヴィエ様の手を、ぎゅっと握りしめる。
オリヴィエ様が、空を仰いだ。
「空が――」
わたしもつられて顔を上げる。わたしたちの目の前には、美しく澄み渡った青空が広がっている。
「きれいな青空ですね」
「……空は、ただ地平の先にあるものに過ぎなかった。でも今は――」
「今は……?」
「どこまでも続いていく道に見える。きみと一緒に歩く」
これからは、誰かのためではなく、自分たちのための毎日を紡いでいく。
オリヴィエ様がわたしの手を力強く握り返す。つないだ手のひらから伝わる熱が、未来への糧となる。
「行こう、ニーナ」
空はどこまでも高く、自由だった。
(THE END)
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この後、Side Story を掲載予定です。




