13(オリヴィエ視点)
馬車の車輪が、王都グラン・セラムへ続く石畳を規則正しく鳴らしている。その乾いた音は、オリヴィエにとっては自らを死地へと追い詰めていく秒読みのようにしか聞こえなかった。
向かいの座席には、自分と同じ銀の髪を持つ弟――エクトルが座っていた。かつては無邪気に自分を追いかけていた弟の拳は、膝の上で固く握りしめられ、微かに震えている。
兄を連れ戻すという役目を無事果たしたというのに、エクトルは救いようのない過ちを犯してしまった子どものような、泣きそうな顔をしている。
「……兄上。なぜ、何もおっしゃらないのですか」
「…………」
エクトルのすがるような声を聞いても、オリヴィエは顔を上げることができなかった。逃亡生活で黒く染めた髪が、今の彼の沈みきった心を象徴するように視界を重く遮る。
エクトルの気持ちは痛いほど理解できた。エクトルは公爵家の次男としての責務を果たしたに過ぎない。それ以上に、彼は弟として、たった一人の兄を純粋に案じていたのだと思う。
だからこそ、何も言えなかった。エクトルを責めるのは筋違いだ。それでも、ニーナとあんな風に別れなければならなかった事実に、心が悲鳴を上げる。
閉ざされた馬車の中、重苦しい空気が支配する。幾度か話しかけてきたエクトルも、やがてオリヴィエの放つ悲しみに飲み込まれたように沈黙した。
ガナンで過ごした、豊かではなくとも美しい日々。土の匂い、街の喧騒、夜風のここちよさ、自分たちで手にした食事を分け合う喜び。そして何よりも――。
(ニーナ……)
あの、命が萌え出づるような鮮やかな緑色の瞳。
そのすべてが、今は馬車の窓を覆うカーテンの向こう側に、取り返しのつかない速度で遠ざかっていく。
(ニーナ、すまない……)
心の中でその名を呼ぶたびに、胸の奥が焼けるように熱く、苦しくなる。
あんな別れ方をして、彼女を一人にしてしまった。
公爵家の騎士たちに、ニーナと決別したと分からせるためだった。オリヴィエが諦めていないと報告があればきっと、父は次の手を打つだろう。
だとしても、ニーナを傷つけた。ひどい言葉で。その事実が、オリヴィエの心を深く苛んでいた。
♰ ♰ ♰
王都に戻ったその日、髪色を戻され、身なりを整えられた自分を鏡で確かめた瞬間、オリヴィエは顔を逸らした。とても直視できなかった。
食事が用意されたが、口にすることはできなかった。体が、何も受けつけない。
その夜、許可を得て王宮へと向かった。
第一王子であるルカは、遅い時間であるにもかかわらず接見を許可してくれた。
執務室へは、ルカの命によりオリヴィエだけが入室を許される。ルカの側近と、オリヴィエに同行した公爵家の騎士たちは、部屋の外で待機した。
「オリヴィエ」
ルカは、オリヴィエの表情を見て驚きに目を見開いた。
「なんて顔をしているんだ」
その琥珀色の瞳に悲しげな色を浮かべ、ルカはオリヴィエにゆっくりと歩み寄った。
オリヴィエはその場に膝をつき、頭を垂れた。
「殿下の婚約者候補であった聖女を連れ出したこと、深くお詫び申し上げます。殿下に対する明白な反逆であることは、重々承知しております」
「やめろ、オリヴィエ。顔を上げてくれ。……ほら、立つんだ」
ルカに腕を引かれ、オリヴィエは力なく立ち上がる。ルカは痛ましいものを見るような、悲痛なまなざしをオリヴィエに向けていた。
「なぜ言ってくれなかった」
「……殿下」
「オリヴィエ。私は、次期国王としてこの国を守ることを第一に考えている。それは義務であり、私の矜持だ。だが、だからといって、友人を――お前を、ないがしろにしていいとは、一度だって思ったことはない。なぜもっと早く話してくれなかった。話してくれたなら、違う道があったかもしれないのに。あんな無茶をして――そんな顔をして」
オリヴィエは視線を落とした。ルカの言葉が胸に刺さる。確かにそうだ。ルカは、きっと力を貸してくれただろう。けれど――。
オリヴィエは静かに首を横に振った。
「いいえ。殿下の選択は、この国にとって正しいものでした。あれほどの力を持った聖女と、王家の血筋を結びつけることは、この国の安定のために必要なことだったと理解しています。……理解はしていますが――どうしようもなかった」
オリヴィエは顔を上げ、まっすぐにルカを見つめた。喉の奥から絞り出した声は、震えながらも、消えることのない熱を帯びていた。
「その正しさを、壊してしまいたかった。正しいことを全部捨てて、彼女と逃げたかった」
「オリヴィエ……」
剥き出しの激情に、ルカは息をのんだ。
しばしの沈黙の後、ルカは深く、肺の底にあるすべてを吐き出すようなため息をついた。
「私にとってニーナは、この国を守り、安定させるための力だった。……だが、お前にとっては、そうじゃなかったんだな」
オリヴィエは迷いのない声で答えた。
「たとえニーナに聖女の力がなくても、私は迷わず彼女の手を取り、ともに行ったでしょう」
ルカはしばらくオリヴィエを見つめていたが、やがて、降参したと言わんばかりに苦笑した。
「そうか……」
彼は執務室のソファに深く腰を下ろすと、オリヴィエにも座るよう促した。
「分かった。もういい。私は、シャルロットと婚姻することになった。それはそれで、貴族評議会からは安堵の声が上がっている」
「……確かに、彼女の家柄であれば誰も異論は唱えないでしょう。それに……彼女ならば、殿下の良き支えとなってくれることと思います」
「ああ。彼女も私も似た者同士だ。お前のように、理性では抑えきれない、どうしようもない激情など持ち合わせてはいないんだ。だがそれが時に、王冠よりも尊いものだということくらいは理解しているつもりだ」
その言葉に、オリヴィエは今更ながら後悔する。理解を求めることもせずに、すべてを捨ててしまおうとしたことを。少なくともこうして、理解してくれようとしている人はいたのに。
「……申し訳ありません。殿下には、話すべきでした」
「もういいと言っている。それより、これからどうするつもりだ」
ルカの問いに、オリヴィエは深く息を吸い込み、乱れた心を整えた。その瞳には、先ほどまでの後悔ではなく、燃えるような意志が宿っていた。
「殿下。身勝手であることは重々承知しています。ですがどうしても一つだけ、お願いしたいことがあります」
「願い? 言ってみろ」
「殿下の部下を貸していただきたいのです。ガナンに残してきたニーナを、どうか守ってください。私が彼女のもとへ戻るまで。公爵家の者では駄目なのです。彼らにとっては、父の命が絶対です」
その切実な懇願に、ルカは目を細めた。
「彼女のもとへ戻る、と言ったのか」
「はい」
「……どうするつもりだ。公爵が、それを許可するとは思えない」
オリヴィエは少し視線を落とした。おそらくそれはそうだろう。そうと分かれば、オリヴィエは軟禁されることもあるかもしれない。
オリヴィエは再び顔を上げる。心は決まっていた。
「西方の平定に向かいます」
ルカの眉がぴくりと動いた。そこは公爵家の領土に隣接し、父が長く欲している場所だ。
「次は逃げるのではなく、交渉によって手に入れます」
ルカはじっとオリヴィエを見つめ、その覚悟の重さをはかるように沈黙した。
やがて、彼は理解したように深くうなずいた。
「いいだろう。彼女のもとへ部下を送る。彼女と周囲に悟られぬ距離で、見守らせよう」
「……感謝いたします、殿下」
オリヴィエは立ち上がり、臣下の礼をもって深く頭を垂れた。
顔を上げると、ルカはいつものように、誰もを魅了する優しい笑みでオリヴィエを見ていた。
「お前の勝利を願っている――ただ、友として」
最後にかけられた言葉を胸に刻み、オリヴィエは執務室を後にした。
窓の外には、深い夜の闇が広がっている。だが、その向こう側には、いつか必ずたどり着くべき朝がある。
オリヴィエの歩みには迷いはなかった。
(待っていてくれ、ニーナ)




