after 01(エクトル視点)
きらびやかなシャンデリアの光が、大広間の大理石の床に反射している。
王宮で開催される夜会。かつて、この光の中心で輝いているのは、いつも兄だった。完璧な所作、完璧な美貌――公爵家の至宝と呼ばれていたオリヴィエ・デュ・ノア。
兄の努力を知っていたから、エクトルはオリヴィエを誇りに思っていた。自慢の兄だった。
けれどオリヴィエはすべてを捨てて、去ってしまった。そのことにエクトルは怒りもしたし、嘆きもした。複雑な気持ちを抱いたまま、今はオリヴィエの選択を受け入れている。
無理やりに連れ戻した直後の、あの生きる力を失ったかのようなオリヴィエを、見てはいられなかったからだ。兄の心が壊れてしまうかもしれない。それはエクトルにとって、何よりの恐怖だった。そんなこと、望んではいなかった。
そして今、人々の視線は、エクトル一人に注がれている。その視線は、オリヴィエに向けられていたものとは違うことくらい、理解していた。
「あの完璧だったオリヴィエ様が――」
「エクトル様に、代わりが務まるのだろうか?」
――うるさい。
無遠慮なささやきが、耳障りな羽音のようにまとわりつく。
けれど兄ならば、そんな感情をあらわにはしないだろう。だからエクトルはぐっとこらえて平静を保つ。
「エクトル」
呼ばれて顔を上げると、そこには第一王子のルカと、その隣でしとやかにほほえむ婚約者シャルロットの姿があった。
「顔つきが厳しいな。そう気を張らずに、楽しんだらどうだ」
「……そう、できたらいいのですが」
兄と同じ年のルカ。幼い頃は、オリヴィエと三人で遊ぶこともあった。だからエクトルは、少し本音を吐き出すことができる。
「まだ、慣れません。父上から色々なことを教えられていますが、兄上のようには捌けなくて」
「お前はまだ学院の生徒でもある。そう無理をすることはないさ」
労ってくれるルカの言葉は温かい。けれど、その温かさが今は少しだけ痛かった。甘やかされているように感じるからだ。オリヴィエならばきっと、こんな言葉をかけられることはない。
そんな内心を察してくれたのだろうか、ルカが続けた。
「エクトル、オリヴィエと比較することはない。何よりもお前は、オリヴィエが空けた席を、守っているじゃないか」
そう、比べても仕方がない。エクトルはエクトルの選択をした。
エクトルははにかむように少し笑うと、ずっと気になっていたことを口にした。
「殿下。兄上から……その、手紙などは届いていませんか?」
ルカは一瞬、眉を下げて困ったように笑った。
「いや、まだだ」
「……そうですか」
エクトルが残念そうにつぶやくと、隣のシャルロットが優しく言葉を加えた。
「落ち着くまでは、まだ時間が必要なのでしょう」
その時、ルカが他の貴族たちに目をやった。ルカが声をかける必要のある高位貴族たちだ。
「エクトル、私が戻るまで、シャルロットの相手を頼む」
「はい」
ルカがその場を離れてから、エクトルとシャルロットは広間の中央から少し場所を移した。重厚なベルベットのカーテンが揺れる窓際で、人の波から離れて、しばしの休息をしようと考えたからだ。
銀のトレイを持った給仕が、そっと近づいてくる。エクトルはトレイからグラスを一つとると、シャルロットへ差し出した。
「どうぞ、シャルロット様」
「ありがとう」
冷えたシャンパンの中で、細かな泡が光るように昇っていく。
シャルロットがグラスを受け取ったのを見届けてから、エクトルは自分もグラスを手にした。
エクトルはグラスを唇に寄せたが、それを飲むことはせずにそこで動きを止めると、視線を落としてぽつりと言った。
「シャルロット様は、傷つかなかったのですか」
「え?」
「殿下は、一度はあの人を婚約者にしようとしたでしょう」
夜会のざわめきの中で、会話は二人きりにしか聞こえていないだろう。だからエクトルは、失礼だと承知で口にした。
――エクトルはまだ傷ついていた。同じ気持ちを、誰かと分かち合いたかった。
しかしシャルロットは、鈴の音のように涼やかに笑った。
「もしかしたら、わたくしはあなたの義姉になっていたかもしれないわ」
「……そうなのですか?」
「殿下がニーナさんと婚約していれば、おそらくは」
それを大したことではないかのように受け止めているシャルロット。エクトルはグラスを傾けて、胸の奥の感情を押し込むようにシャンパンを流し込んだ。
シャルロットは、ルカや兄と同じ年齢だ。エクトルとは四歳しか違わない。なのになぜ、この人たちはこれほど落ち着いているのだろう。
シャルロットは自身も少しだけシャンパンを口にして、少しだけ悲しみを含んだまなざしを向けた。
「傷つかなかったと言えばうそになるわ。でもそれは、殿下の選択にではないの。わたくしは、自分の力がニーナさんには遠く及ばなかった事実に傷ついたのよ。どんなに努力しても手に入れられないものがあることを、多分わたくしはあの時はじめて知ったの」
「どんなに努力しても――」
兄がいなくなって、エクトルは強く感じるようになった。オリヴィエと同じには、なれないこと。
「でもそれが、当たり前なのだと分かったの。受け入れることは痛みを伴うけれど、それでまたわたくしたちは次に進めるのよ」
その言葉に、エクトルは泣きたくなった。シャルロットは続ける。
「殿下にとっての一番の愛は、この国に捧げられているわ。だから今は、伴侶となるわたくしを大切にしてくださっている。わたくしも殿下も、お互いを認め合っているの。わたくしたちは、この国に尽くすことに誇りを持っているから。それはエクトル様、あなたも同じでしょう?」
「……はい」
「ニーナさんにはできなかった選択が、わたくしにはできた。逆ではだめなのよ。わたくしたちにはそれぞれの場所がある。エクトル様が、公爵家を継ぐと決意したように」
今更ながら、さきほどのルカの言葉が思い出される。ルカはさっき認めてくれた。エクトルが、オリヴィエが空けた席を守っているのだと。
少しだけ残ったシャンパン。そっと近づいた給仕のトレイに戻すと、代わりのグラスは受け取らなかった。シャルロットも同じようにグラスを戻す。
こみ上げる気持ちで、胸がいっぱいになって、何かを口にする気にはなれなかった。
「――僕も、進みます。自分で決めた道だから」
そう言って顔を上げる。シャルロットは美しくほほえんでいた。
この先、ルカとシャルロットは、素晴らしい王子夫妻になるだろう。二人を支える臣下として、尽くしたいとエクトルは心から思った。
それからエクトルも力を抜いたように少し笑って、シャルロットに正直な気持ちを打ち明ける。
「謝りたいんです。あの人に」
「……あの人? ニーナさんに?」
「はい。兄上を連れ戻すとき、僕はひどいことをしてしまった。それを、ちゃんと謝っていないんです」
そのことをエクトルは後悔している。と同時に、あの時に傷ついた自分の心を思い出す。
「でも、兄上だってひどかったんです。僕に、本気で剣を抜いた。血を分けた弟でも、容赦しないって――」
苦しくて、エクトルは拳をぎゅっと握りしめる。これがどんな気持ちなのかはうまく説明できない。許せないとも思うし、許してほしいとも思う。
そんなエクトルを見て、シャルロットはくすりと笑った。
「そういう気持ちを、オリヴィエ様にそのまま話してみたらいいと思うわ。再会した時に」
「……再会、なんて」
「オリヴィエ様はあなたに、もう会わないと言ったの?」
別れの時。エクトルがうつむいていたせいで、オリヴィエの表情は見ていない。けれど分かる。きっと自分を愛おしむような顔をしていたに違いない。
優しくエクトルの頭をなで、兄は言った。また会おうと。
♰ ♰ ♰
後日、ルカに呼ばれてエクトルは王宮へ向かった。
人払いをされて、二人きりになったところでルカは一通の手紙を差し出した。
「オリヴィエからだ。公爵家に送るのは避けたようだ。これは、お前に渡してほしいと」
執務机には、封を切ったもう一通がある。そちらは、ルカ宛のものなのだろう。
エクトルは執務机の近くに寄り、差し出された手紙を受け取る。手が少し震えた。
表には、見間違えるはずもない、兄の流麗な筆で自分の名前が書かれていた。
「……ありがとうございます」
「もし、オリヴィエに会いに行くのなら、先に言うといい。公爵には、お前が家を空ける適当な理由を伝えておこう」
エクトルは深く頭を下げて、執務室を後にした。
手紙は、誰にも見られないように大切に胸元にしまってある。
早く自室に戻るために、馬車の準備を急ぐように護衛騎士に言って、エクトルは一度立ち止まり、白亜の回廊で空を見上げた。
――会いに行こう。
そして、あの時の話をしよう。
謝って、それからエクトルだって傷ついたことを伝えよう。それから公爵家のこと、オリヴィエとニーナの今の生活のこと。話したいこと、聞きたいことは山ほどある。
胸元にそっと手を当て、エクトルは再び歩きはじめた。前に向かって。




