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after 02(オリヴィエ視点)

 王都を離れ、北上する。山を越え、深い森を抜けた先でオリヴィエとニーナがたどり着いたのは、国境付近の交易都市ツェルデンだ。隣国へ続く多くの峠の入口に位置し、古くから物資が行き交う歴史ある街である。北部にはドラゴンの生息地もあり、冒険者ギルドも活気に満ちている。

 白銀の連峰に抱かれたツェルデンは、華やかで美しい都市だった。長い年月で磨かれた石畳の道。その両脇に並ぶ家々の窓辺には、色鮮やかな花箱が飾られている。


「ニーナ、寒くないか?」


 空気は王都より冷たい。隣を歩く彼女を心配して声をかけると、ニーナはふわりとほほえんだ。その頬が少し赤みを帯びているのは寒さのせいだろう。それが、いっそう彼女を可憐に見せていた。


「はい、オリヴィエ様。北部は空気が澄んでいて気持ちがいいですね」

「様、はいらない。敬語もだ。俺はもう、公爵家の人間じゃない」


 オリヴィエは、ニーナと対等な男と女として生きたかった。

 彼女にはそう伝えているのに、結局ニーナは気恥ずかしさに負けてしまうらしい。


「……やっぱり、慣れなくて」


 彼女を困らせるつもりはない。オリヴィエは苦笑しながら手を伸ばし、彼女の冷えた指先を包み込んだ。


「少しずつ、慣れていってほしい」

「はい。オリヴィエ……様」


 やはり最後に付け足してしまう。ニーナは、今度は寒さではなく、幸せそうに頬を染めて笑った。



 ♰ ♰ ♰



 ツェルデンを拠点にすることに決め、ギルドに登録した。ガナンでの暮らしと同じように、その日の糧を自分たちの力で稼ぐ道を選んだ。


 ニーナの力はまだ完全ではなかったが、それでも日々の依頼をこなすには十分なほどに回復していた。

 彼女の治癒魔法や防御魔法が、オリヴィエの背中を支える。たった二人で小型とはいえドラゴンを討伐して戻った日、二人は街で一目置かれる存在になっていた。それからは他の冒険者から、同行の依頼がくるようになった。


 今日も仕事を終え、ギルドで報酬を受け取った後、ともに戦った若い戦士が快活な声で言った。


「本当に、ニーナの魔法には助けられるな」


 彼はニーナの肩に手を置こうとした。その手が届くより早く、オリヴィエは男の手首をつかむ。


「――彼女に、気安く触れるなと言っただろう」


 男は焦った顔をして、ぱっと両手を軽く上げた。抵抗する気持ちはないという意図だろう。


「悪い、つい癖で。怒るなよ、オリヴィエ」

「別に、怒ってはいない」

「いや、めちゃくちゃ怒ってるだろ! ドラゴンとやり合ってる時より、よっぽど怖い顔だ」


 その様子を見ていた仲間の魔法使いの女性が、明るく笑う。


「ばかねえ。元貴族様と元聖女様に、私たちと同じ距離感で接しちゃだめじゃない」


 貴族の籍から抜けて王都から流れてきたということは、隠してはいなかった。かつてのように、もう偽りの名で過ごす必要もない。

 珍しがってはいたが、彼らが自分たちの素性を知ってもなお、こうして対等に接してくれることに、オリヴィエは不思議な居心地の良さを感じていた。かつて王宮で、常に気を張りながら過ごしていた頃とは、あまりに違う、温かな無遠慮さだ。


 それに、ニーナが同年代の人間と、楽しそうに語らっている姿を見るのは、オリヴィエにとって喜びでもあった。ニーナが笑うと、自分がこんなにも幸せであるということが、彼女に伝わっていてほしいと思う。



 ♰ ♰ ♰



 やがて、ツェルデンに春の訪れを告げる花祭りの日が訪れた。

 山の残雪は陽光に溶けて清流となり、冬の間眠っていた草木が一斉に芽吹く。この北の地に春の本格的な到来を告げるその日、街中が花の香りに包まれ、人々は感謝の祈りを捧げ、踊り、喜びを分かち合う。


「ニーナ、少し歩かないか」


 祭りの賑やかさから少し離れ、湖畔を望む小高い丘へニーナを誘った。

 眼下の湖面は、太陽の光を反射して輝いている。まるで宝石を散りばめたようだ。


「きれいですね」


 ニーナは、胸いっぱいに春の空気を吸い込んでいた。

 今日の彼女は、祭りの広場で子どもたちに渡されたという、色とりどりの花を編んだ花冠を頭に乗せている。ニーナの黒髪に重なる鮮やかな花々は、驚くほど彼女によく似合っていた。春の女神だと言っても、きっと言い過ぎではないくらいに。

 オリヴィエは静かに彼女の手を取って、その甲に恭しく口づけをした。


「……オリヴィエ様?」


 驚くニーナ。オリヴィエは懐から、この街で見つけた、一番美しい石をあしらった指輪を取り出した。彼女の瞳の色をそのまま写し取ったような、深く澄んだエメラルドの指輪。

 指輪は、いくつかの依頼をこなしながら、密かに準備していたものだった。かつてのオリヴィエなら、王家の至宝に匹敵するような宝石を用意することもできただろう。それに比べれば、あまりにも小さい。それでもこの指輪に宿る輝きは、ニーナを想いながら何度も店に通った、オリヴィエの心そのものだった。


「ニーナ。俺には、もう地位も名誉もない。きみに約束できるのは、何一つ不自由のない生活ではなく、ともに過ごす毎日だけだ」


 ニーナの瞳が潤む。彼女はきゅっと唇を引き結んだ。泣くのを我慢しているその仕草が、たまらなく愛おしかった。


「それでも、この命がある限り、俺はきみを守る。ニーナ、俺と結婚してくれないか。これからも、一緒に生きよう」


 ニーナの瞳が大きく揺れ、やがて大粒の涙が零れ落ちる。


「……はい。わたしもずっと、オリヴィエ様と一緒にいたいです」

「ニーナ……」


 オリヴィエは感極まったような声でその名を呼んで、彼女の左手の薬指に、指輪をすべらせた。

 そのまま彼女の細い腰を引き寄せると、弾むような喜びのままに、その身体を高く抱き上げた。


「――きゃっ!」


 オリヴィエは彼女を抱いたまま、くるりと回った。踊るように、子どものように、喜びのままに。ニーナの髪とスカートの裾が、春の陽光の中で美しく弧を描いた。

 驚いていたニーナもまた、オリヴィエの表情を見て、笑顔になる。涙が宝石のように輝いた。

 美しい色彩の中、愛しい人が笑う。これ以上に幸せなことなど、あるのだろうか。


「……ふふっ! 目が回ります、おろしてください。――オリヴィエ」


 不意にこぼれ落ちたニーナの言葉に、オリヴィエは動きを止めた。彼女は照れたように頬を染め、この上なく愛らしくほほえむ。

 驚いたように目を見開いていたオリヴィエは、やがて、愛しさと喜びに胸を震わせ、こぼれ落ちるような笑みを浮かべた。


「ああ。やっと呼んでくれたな。もう一度、言ってくれないか」

「……オリヴィエ。大好きです、オリヴィエ」


 ニーナはオリヴィエの首に腕を回し、そこに顔を埋める。彼女のさらりとした髪から、春の花の香りがした。


 その時、街の教会から、祭りを祝う鐘の音が響き渡った。

 北の空へと吸い込まれていくその音は、もう二度と離れることのない二人の門出を、どこまでも優しく祝福しているようだった。

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