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08

 馬の蹄が、荒れた街道をたたく。

 王都を出てから丸一日。森を抜けて夜を明かし、さらにもう一つの森を抜けた末に、ようやく視界が開けた。

 目の前に広がるのは、王都のそれとは正反対の、泥臭くも猛烈な熱気に満ちた光景だった。


 北西の辺境、交易都市ガナン。

 高くそびえる石壁はあちこちが欠け、応急処置のような木の柵で補強されている。雑多な露店がひしめき合う中を行き交う人々は、毛皮をまとった異民族や、顔に深い傷跡を持つ荒くれ者、あるいは胡散臭い品を並べる商人たちだ。

 空に漂うのは、肉の焼ける匂いと、香辛料の香り。露店には、出所不明の魔導具や、様々な種類の毛皮、見たこともない野菜や果実が山積みにされている。

 治安はお世辞にも良いとは言えそうにないが、その混沌とした空気こそが、今のわたしたちには最高の隠れ蓑だった。


「すごいですね。本当に、別の国にきたみたい」


 わたしは馬を降り、埃っぽい街の様子を見渡した。

 隣に立つオリヴィエ様も、すでに貴族らしい華美な服は脱ぎ捨て、地味な灰色の旅装に着替えている。銀髪はフードで深く隠されていたが、その立ち振る舞いにはまだ隠しきれない高潔さが漂っていた。


「ガナンはギルドが支配する街だ。法よりも力と、稼いだ金が物を言う。訳ありの連中が集まる場所だから、詮索も少ないはずだ」


 オリヴィエ様は、街の奥にある一軒の安宿の方角へと視線を向けた。


「まずは宿を確保しよう」

「はい」

「明日は、ギルドへ行く。そこで登録を済ませ、当面は依頼をこなして金を稼ごう」


 馬を引きながら、迷いのない足取りで人混みを縫うように進むオリヴィエ様についていく。この街のことは、あの図書塔で学んだはずだった。だけどわたしの記憶力と、オリヴィエ様の記憶力には、相当な違いがあるようだ。


 わたしたちは馬を預けられる、街の隅にある宿に入った。

 宿の主人は片目を失った屈強そうな男で、わたしたちを見て鼻を鳴らした。


「訳ありか」

「西から流れてきた。部屋は空いているか? しばらく借りたい」


 オリヴィエ様が努めて低く、ぶっきらぼうな声を出す。

 主人はしばらくわたしたちを品定めするように眺めていたが、オリヴィエ様が差し出した銀貨五枚を確認すると、鍵を放り投げた。


「二階の突き当たりだ。騒ぎを起こすなよ。ここでは死体になったって、誰も気にしやしねえ」

「肝に銘じておく」


 部屋に入ると、わたしはほっとしてベッドの上に崩れ落ちた。

 藁が詰まっただけの硬いベッド。シーツからは少しだけカビの臭いがする。

 けれど、あの白壁に囲まれた豪華な大聖堂の寝台よりも、何倍も呼吸がしやすかった。



 ♰ ♰ ♰



 窓から差し込む夕日が、安っぽい木の床に窓枠の長い影を落としている。

 部屋の中に漂っているのは、少し鼻を突くような、独特な匂いだった。


「……本当によろしいのですか? こんなにきれいな髪なのに」


 わたしは、手にしたボウルの中で混ぜ合わせた黒い液体を見つめ、思わずため息をついた。

 露店の魔法使いが作ってくれた染髪料。魔法の力で、簡単には落ちなくなる。


「ああ。この髪は、ノア公爵家の象徴だ。未練はない」


 オリヴィエ様は、椅子に腰掛けて待っている。わたしは決意したように息をつくと、彼の高貴な銀髪に黒い染料を塗り込んでいく。

 さらさらと櫛の間をすり抜ける、絹のような髪。王宮の夜会で、誰もが憧れのため息をついたその輝きが、わたしの手によって塗り潰されていく。


(……でも、これでいいのよね。わたしたちは、もう別の人間になるんだから)


 染め終わり、乾燥させると、そこには一見、見知らぬ青年が座っていた。

 夜の闇を溶かし込んだような、艶やかな黒髪。アメジストの瞳は、依然として宝石のような光を放っている。


「どうだ?」


 これで目立たなくなっただろうと、そういう思いでオリヴィエ様は言っているのだろう。だけど、彼の持つ浮世離れした美貌はなりを潜めるどころか、どこか影のある色香が加わってしまった。


「とても素敵です」

「…………」


 見とれて思わずそう答えてしまったら、オリヴィエ様は一瞬言葉を失い、それから視線を逸らした。その耳の端が、わずかに赤くなっているのを見て、わたしははっとした。


「――じゃなくて! ……えっと、第一印象は変わったので、すぐにはオリヴィエ様だと分からないはずです」

「……そうか」


 オリヴィエ様は視線を逸らしたままそう言うと、立ち上がった。窓の外に広がるガナンの街は、今まさに夕闇に沈もうとしていた。


「片付けたら、食事を探しに行こう」

「はい」


 わたしは髪を染めた道具を片付けると、出かける前にオリヴィエ様に言った。


「オリヴィエ様。前に言ったこと、謝ります」

「謝る?」

「わたし、大貴族のオリヴィエ様に、市井で生活するなんてできないって思っていました。でも、オリヴィエ様はご自身だけじゃなくて、わたしのことまで助けてくれて。わたしの方こそ、オリヴィエ様がいなくては何もできなかったと思います」


 オリヴィエ様はくすりと笑った。


「あの時きみがああ言ってくれたから、色々と準備ができた。ものの相場も、もう分かる。きみが謝る必要はないし、心配することもない。行こう」


 オリヴィエ様はそう言って、その手を差し出してくれた。


 わたしはうなずいて、彼の差し出した手を取る。

 手のひらから熱が伝わる。このぬくもりは、わたしの光だ。心からそう思った。

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