07
慣れない転移魔法のせいか、視界が激しく揺れ、胃が底からせり上がるような浮遊感に耐えきれず、わたしは地面に膝をついた。
「――っ、……はぁ、はぁ……」
湿った土の匂いと、針葉樹の鋭い香りが鼻腔を突く。
そこは大聖堂の清潔な石畳の上でも、重い空気が漂う円環の間でもなかった。深い森の静寂の中、遠くで鳥の鳴き声が響いている。
「大丈夫か?」
すぐ隣で、冷静で落ち着いた声がした。
オリヴィエ様もまた、わずかに肩を揺らして息を整えている。当然だ。わたしを抱えてここまで逃げてくれたのだから。完璧に整えられていた銀髪も乱れている。
「……はい、なんとか」
「では行こう。長居は無用だ。魔法の痕跡は偽装したが、すぐに追跡が始まるだろう」
オリヴィエ様は懐から、魔法の灯りをともした小さな魔導具を取り出した。その青白い光に導かれるように、森の影から一頭の馬が姿を現す。
「あらかじめ、この場所につないでおいた。食料と水、当面の路銀と、着替えも鞍袋にある。きみの分もだ」
わたしは目を見張った。
あの図書塔での密談から、わたしが公務に追われている間に、彼はこれほどの準備を一人で整えていたのだ。
「……ありがとうございます」
わたしは震える手で、渡された水筒を受け取った。冷たい水が喉を通り、ようやくひと心地つく。
するとオリヴィエ様は、水を飲み終わったわたしを、慣れた手つきで馬の背へと抱え上げた。そして彼は、そのすぐ後ろに乗る。
「行こう。目指すのは北西の辺境、ガナンだ。あそこなら王国の権威も届きにくい」
わたしたちは馬を走らせた。道なき薄暗い森を、街道を避けて進む。
(さよなら――)
今度こそ、わたしはこの手で自分の運命をつかみ取るんだ。
その時ふと、わたしは前世のわたしの姿を思い出した。あの時、新しい場所で一歩を踏み出した――。
頭の中で、あのブレーキ音がこだまする。
「ニーナ?」
すぐ間近から聞こえたオリヴィエ様の声にはっとする。
「寒いのか? 震えている」
「――いえ、あの……」
わたしは手綱をきゅっと握り直した。
「……少し、怖くなりました。上手くいきすぎて、信じられなくて。また急に、終わってしまうんじゃないかって」
オリヴィエ様は少し沈黙し、それから手綱から片手を離すと、わたしの手にそっと重ねた。
「大丈夫だ。きみを連れ出すと誓ったのは俺だ。必ず守る」
わたしは言葉に詰まって、うなずくことしかできなかった。
ひとりじゃない。そう思うと、苦しいくらいに胸がいっぱいになった。
♰ ♰ ♰
王都を脱出し、馬を走らせて数時間が経過した頃。
わたしたちは深い森を抜けた先にある、なだらかな丘の麓にたどり着いていた。あたりはすっかり夜の闇に包まれている。
興奮状態にあった体が、立ち止まった途端、鉛のような重さを訴え始める。
「……今日は、ここで夜を明かそう。これ以上は馬が持たない」
オリヴィエ様は手際よく馬を木につなぎ、周囲の警戒を怠らずに言った。
あたりには人工的な光など一切なく、ただ夜風が草木を揺らす音だけが鼓膜を震わせる。
空を見上げると、そこには息をのむような星空が広がっていた。王都の空では決して見ることのできなかった、こぼれ落ちそうなほどの輝き。
「きれい……」
思わずつぶやくと、火を起こし終えたオリヴィエ様が、焚き火の爆ぜる音とともに振り返った。オリヴィエ様も、一緒に夜空を仰ぐ。
「そうだな。これが本来の空だ」
焚き火のオレンジ色の光に照らされた彼の銀髪は、昼間の月光のような輝きではなく、どこか温かい色を帯びていた。
それからオリヴィエ様は鞍袋から厚手の毛布を二枚取り出すと、一枚をわたしに渡し、もう一枚を草の上に広げた。
「オリヴィエ様。野宿なんて、本当によろしかったのですか?」
今更心配になってそう言うと、オリヴィエ様はふっと口角を上げた。
「これでも聖騎士団の遠征には何度も同行している。外で寝るのは初めてじゃない」
「それは心強いです」
「……遠征では一応、天幕があった。それなりの広さがあって、折り畳み式の寝台まで完備されていた。魔導具による温度調節機能付きだ」
オリヴィエ様が真面目に白状したので、わたしは思わず笑ってしまう。
「ふふっ。それ、野宿とは言いません」
「当時は、それでも自分を誇らしく思っていたんだが」
彼が少しだけ困ったように眉を下げてほほえむ。
その表情は、王都で見た完璧な仮面よりもずっと人間味にあふれていて、わたしの胸の奥を小さく跳ねさせた。
「ニーナ。もう、そう呼ぶのは危険だな」
彼は表情を引き締め、わたしの目を見つめた。
「名前を変えよう。……俺のことは、アルと呼んでくれ」
「アル……」
わたしはその響きを口の中で転がし、自分自身の決意を固める。
「じゃあ、わたしのことは、エマと呼んでください」
「……エマ。ではこれから俺たちは兄と妹だ。西方では領主たちが争いを繰り返している。その争いで没落した小貴族の兄妹が、逃げてきたことにしよう。そういう設定なら、多少の言葉遣いの違和感も説明がつく」
わたしはオリヴィエ様を見つめて、素直にうなずいた。
「わかりました。お兄様」
その言葉を口にした瞬間、喉の奥が少しだけ熱くなった。前世も含めてわたしが一度も手に入れられなかった、温かい響きだった。
わたしを見つめて目元を和らげていたオリヴィエ様は、わたしに座るようにと隣の場所を指し示した。
わたしたちは一枚の毛布を共有するようにして、肩を寄せて座った。
夜の冷気は想像以上に鋭く、吐き出す息が白く濁る。けれど、隣にいるオリヴィエ様の体温が、衣服越しに伝わってきて、不思議な安心感を与えてくれた。
わたしは、膝を抱えて星空を見上げた。
「ずっと昔、優しい大人が言ってくれました。あなたはあなたを大切にして生きなさいって。だから誓ったんです。自分の力でがんばろうって」
オリヴィエ様は黙ってわたしの言葉を聞いていた。
やがて、彼は大きな手でわたしの頭をそっと引き寄せ、自分の肩に預けさせた。
「きみは一人じゃない。それを忘れないでくれ」
「……はい。ありがとうございます」
「寝よう。明日も早い」
オリヴィエ様の肩に体重をかけると、夜風の匂いと、焚き火の煙、そして彼自身の落ち着いた香りがした。
わたしはゆっくりと目を閉じた。
大地は固く、夜は深い。けれど、寄り添い合うわたしたちの間には、どんな柔らかい寝具よりも安らかな温もりが満ちていた。




