06
大聖堂の最奥、迷宮のような回廊を抜けた先に位置する、円環の間。
そこは、一般の信徒は決して足を踏み入れることを許されない、この国で最も神聖で、かつ最も閉鎖的な場所だった。高いドーム状の天井には、歴代の聖女たちの功績が緻密なフレスコ画で描かれている。
部屋の中央には、この空間を象徴する円環の卓が鎮座している。その一部が途切れた場所から、わたしはその中心へと送り出され、ひとり立たされていた。
(……まるで、品評会ね)
足元からはい上がってくる冷気に、わたしは内心で毒づく。
今日の聖女選定の儀は、民衆に希望を与えるための祭事ではない。この国にとって最も効率的で、最も出力の高い個体を決定する、最終的な選定の場なのだ。
「――静粛に」
神官長の朗々とした声が、石造りの空間に反響する。
「今代の聖女たちの中でも、ニーナ・リエルの力は群を抜いている。カタコンベにおける浄化の輝きは、奇跡と言っても過言ではない」
列席する高位貴族たちから、小さく、けれど鋭いささやきが漏れる。
彼らに、わたしはひとりの人間として見られているのだろうか。そのまなざしは、わたしがどれだけの魔力を供給し、どれだけ結界を維持できるかという性能を値踏みする、観察者の目だ。
その視線の中で、たった一つだけ、異なる温度を持つ瞳があった。
列席者の最前列、ノア公爵家の席に座るオリヴィエ様だ。
彼は完璧な礼装に身を包み、彫刻のような顔でこちらを見つめていた。月光を凝固させたような銀髪が、薄暗い円環の間で静かに光を反射している。
オリヴィエ様の右手が動く。その指先が、わずかに、椅子の手すりをたたいた。
それは、真夜中の図書塔で二人きりで決めた合図。
『準備はできている。いつでもいける』
オリヴィエ様の視線と、わたしのまなざしが交差した。オリヴィエ様の形の良い唇が、わずかに動いたような気がした。
『大丈夫だ』
声にはならないその響きが、わたしの心を温める。
その時、ルカ殿下がゆっくりとわたしの方へ歩み寄ってきた。
「ニーナ。顔を上げてくれ」
目の前に立ったルカ殿下の声は、陶酔を誘うほどに甘い。
ルカ殿下は、そっとわたしの右手を両手で包み込んだ。その手のひらは温かい。けれど、わたしは逃げ場をふさがれたように錯覚する。
「きみの力は、あまりにも尊い。それを聖女という職務の中に埋もれさせてしまうのは、この国の損失だ」
ルカ殿下は、熱のこもった瞳でわたしを見つめる。
列席者の中で、筆頭聖女の座を確実視されていたシャルロット様が、青白い顔をしているのが見えた。落胆、悲しみ。シャルロット様はここまで、どれほど努力してきたのだろう。
シャルロット様のその表情に気がつくことはなく、ルカ殿下は言葉を続ける。
「私は父である国王陛下に申し出た。ニーナ・リエルを、私の婚約者として迎えたいと」
円環の間が、一瞬、真空状態になったかのように静まり返った。
貴族たちが息をのみ、わたしは驚きに目を剥く。
「婚約者……? わたしが、ですか?」
「そうだ。きみを王宮という、世界で最も安全な場所で守り抜くと誓おう」
ルカ殿下の言葉は、一点の曇りもない正義に満ちていた。でもその善意は、わたしにとって重い鎖になる。わたしは、ルカ殿下の手の中で震える自分の指先を見つめた。
「ニーナ、答えてくれ。この国のために、受け入れてくれるだろうか?」
ルカ殿下が、穏やかな笑みを浮かべて見つめてくる。
わたしは、列席者の中にいるオリヴィエ様を盗み見た。
彼はすでに椅子から立ち上がっていた。その動作はあまりに自然で、まるで儀式の進行に従っているかのようだったが、彼の手で、放出寸前の魔力が微かに青白く光っている。
オリヴィエ様が、凛としたまなざしでまっすぐにわたしを見ていた。その瞳は「行こう」と、力強く叫んでいた。
わたしはゆっくりと顔を上げた。
「――ルカ殿下」
わたしは、消え入りそうな声でつぶやいた。
「どうした?」
ルカ殿下が、心配そうに眉を寄せる。わたしは、ルカ殿下の手からゆっくりと、けれど拒絶を込めて自分の手を離す。
オリヴィエ様が、こちらに近づいてくる。彼の姿を、付近の人間が気がつきはじめる。
「……ニーナ?」
ルカ殿下が、わたしの異変に気がつき、背後のオリヴィエ様の方を振り返った。
「ごめんなさい」
本心からそう言って、わたしは全力で唱えた。
『フラッシュ』
わたしを中心に、円環の間を、白銀の光が埋め尽くした。高密度の光魔法による視覚妨害。オリヴィエ様は自身にだけ、その防御壁を張っている。
「うわっ!」
「誰か! 衛兵を!」
神官や列席者の声が響く。わたしは光の渦の中、迷うことなくオリヴィエ様の方へと駆け出した。光の中で見える彼の姿が、これまで以上に頼もしく感じられた。
「こっちだ、ニーナ」
冷静な声が届く。迷うことなくその手を取ると、オリヴィエ様の力強い腕がわたしを引き寄せた。
「……後悔しないか?」
「しません」
「しっかりつかまっていろ」
オリヴィエ様が私の身体を横抱きに抱え上げた。そのまま、彼は風を切るような速さで走り出す。その腕の力強さは、重い聖衣をまとったわたしを運ぶ、翼そのものだった。
背後では、一時的に視力を失いながらも、手を伸ばそうとするルカ殿下の姿が見えた。
「オリヴィエ! 待て、何を――」
ルカ殿下の叫び声が遠ざかる。その声には、怒りよりもむしろ、困惑が混じっているようだった。
オリヴィエ様は、広い大聖堂の回廊を、まるで見知った自宅の庭を進むような正確さで疾走した。
オリヴィエ様の胸の鼓動が伝わってくる。それは、常に冷静だった公爵令息のものとは思えないほど、激しく、生気に満ちた鼓動だった。
「オリヴィエ様、衛兵が……!」
前方、巨大な西門の前に、数人の衛兵が立ち塞がっているのが見えた。彼らは異変を察知して構えているが、オリヴィエ様の姿に動揺する。
「な、何だ!? ノア小公爵様……!?」
「どけ! 道を開けろ! ――ニーナ!」
私はオリヴィエ様の首に強くしがみつきながら、片手を前方へ向けた。
『フラッシュ』
さきほどよりは威力は低いが集中した光が、衛兵たちの視界を奪う。
西門を突破。次の瞬間、予定通りに、わたしたちの足元で転移魔法が発動した。
鼓膜を打つ喧騒がふっと途切れ、世界から音が消える。残ったのは、わたしの背中を支える彼の、熱い鼓動だけだった。
視界が切り替わる直前、わたしは見た。
転移魔法の光に包まれたオリヴィエ様の横顔。彼は、冷静な仮面を捨てて、少年のように弾んだ笑みを浮かべていた。
それは、わたしたちが初めて自分の意志で選び取った、自由への第一歩だった。




