05
夜会のあの日、控室で交わした誓い。
それは甘い約束などではなく、自分自身の人生を手に入れるための契約だった。
あれから数日。わたしの生活は一見、何も変わっていないように見えた。聖女としての公務に駆り出されても、できるだけ目立たないように過ごしていた。
ただ、決定的に変わったことがある。
深夜。大聖堂内に与えられた自室の寝台を抜け出し、足音を殺して廊下を渡る。
向かった先は、北端に位置する図書塔。
かつて禁書や秘術の記録が納められていたというその場所は、今では最新の学術拠点へとその役割を譲り、昼間でも人の訪れが稀な忘れ去られた場所となっていた。
重厚な扉をそっと押して、かすかに開いた隙間から滑り込む。
「遅かったな」
天井まで届く巨大な書架の影から、声が響いた。
オリヴィエ様は、手にしたランプの青白い魔導火に照らされている。その銀髪は、暗闇の中でさえ月光のような美しさを放ち、わたしは思わずため息を漏らしそうになった。
(……この人が、本当に共犯者になるなんて。いまだに夢でも見ている気分)
黙って側にいくと、オリヴィエ様は塔の最奥にある閲覧机へとわたしを導いた。
そこには、羊皮紙に細密に描かれた王宮の構造図と、周辺地域の地形図が広げられている。
「座ってくれ。早速だが、情報を共有する」
促されるまま、ほこりの匂いが染みついた古い椅子に腰を下ろす。オリヴィエ様の指が地図上の一点をなぞった。
「ここが西門だ。聖女選定の儀の当日、警備はそちらに集中し、わずかに手薄になる。西門までたどりつけば、そこを出た先に、俺の転移魔法を仕掛けておく」
「わたしがフラッシュ――光魔法で視覚妨害をすれば、二分は稼げると思います」
「二分か。それだけあれば、十分だ」
そう言って、オリヴィエ様は何かを思い出すかのように、小さく苦笑いをした。
「殿下には恨まれるな。今でもきみを筆頭聖女にし、婚約者として迎えるつもりだ」
オリヴィエ様の言葉に、わたしはルカ殿下の、あの琥珀色の瞳を思い出す。
「……ルカ殿下は、国のためにはそれが正しいと信じていらっしゃるでしょうし――この国にとっては、ルカ殿下のような方が必要でしょう」
「そうだな」
アメジストの瞳が、青白い魔導火の下で揺れている。オリヴィエ様はぽつりと言う。
「殿下のようにまっすぐに自らの使命を受け止め、生きることができたら――いや、やめよう」
考えるのをやめ、気をとりなおしたように、オリヴィエ様は話を戻す。
「転移魔法で、隣国との国境近くまで行ける。王都からは馬を飛ばして三日の距離だ。やすやすと追いつかれることはないだろう」
わたしはこくりとうなずいた。計画に不安はない。オリヴィエ様を信じている。
けれど、一つだけ。致命的に抜け落ちている現実がある。わたしは改めて、オリヴィエ様を見つめた。
「オリヴィエ様」
そう呼ぶことを許してくれたオリヴィエ様。大貴族に生まれながら、それを捨てるという。
「逃げ切った後の生活については、どう考えているのですか?」
わたしだけなら、どうとでもなると思っていた。でもこの人はどうだろう。
「生活……?」
オリヴィエ様は小さく眉を寄せた。何を言っているのか、という表情だ。
「傭兵にでもなれば、生活できるだろう」
自信に満ちたその答えに、わたしは思わず首を横に振った。
「そう簡単ではないと思います。傭兵――ギルドに登録して、お金は稼げたとしても、オリヴィエ様に、市井での生活はできるのでしょうか……」
わたしはそれが心配だった。けれどオリヴィエ様は、むっとした表情になる。
「なぜできないと思うんだ」
「だって――でしたらオリヴィエ様、今日、ご自分が口にした食事の値段を知っていますか?」
恐る恐るそう尋ねると、オリヴィエ様は、まるで古代呪文を突きつけられた魔術師のように、絶句した。
「値段……?」
「はい」
オリヴィエ様は今度は、わけが分からないという表情になった。そんな表情でも、美形なら絵になるから不思議だ。
「食事は、専属料理人が作るものだろう。食材の対価は、執事がまとめて精算しているはずだ。調べれば分かる」
「公爵家を出たら、専属料理人も、執事もいません」
「…………」
「王都のパン屋で売っている、一番普通のライ麦パンは、一個いくらくらいだと思いますか?」
沈黙が流れた。
深夜の図書塔に、時を刻む魔導時計のカチ、カチという音だけが響く。
オリヴィエ様は真剣に、まるで国家の予算編成を考えるような形相で腕を組み、考え込み――やがて、絞り出すように言った。
「金貨、一枚」
「……………」
わたしは、一瞬だけ自分の耳を疑った。
金貨一枚。それは、普通の家族が、質素に暮らせば一カ月は食いつなげる大金だ。この国の中産階級であっても、そうそう気軽に出せる額ではない。
「……あはは!」
わたしは堪えきれず、笑い出した。目に涙がじわりとにじむ。完璧なはずの彼が、たった一個のパンに打ち負かされている。その姿が、なんだかとても人間らしくて、愛おしく思えてしまったのだ。
オリヴィエ様は心外だという様子で、説明する。
「そう外れてはいないだろう。パンの原料の相場と、輸送費、加工賃を考えれば――」
笑いすぎて苦しくなった胸を押さえながら、わたしは教える。
「銅貨一枚あれば、一週間分のパンを買えます」
オリヴィエ様は、信じられないというような目でわたしを見つめる。
公爵家という巨大な牙城で、一度も金銭に困ることなく生きてきたオリヴィエ様。魔法を使いこなし、政治の表裏を理解していても、たった一枚の銅貨が持つ重みを、彼は知らなかった。
わたしはちょっと困ったようにほほえんで、それから言った。
「オリヴィエ様。わたしたちがこれから向かうのは、銅貨一枚で生死が変わるような生活です。本当に――」
「大丈夫だ」
みなまで言わせず、オリヴィエ様はじっとわたしを見つめてきた。真剣な表情で。まるで請うように。
「俺の知らない常識は、きみが教えてくれ、ニーナ」
魔導火の青白い光に照らされた彼の瞳は、夜会のバルコニーで見たときよりもずっと、生き生きと、血が通っているように見えた。
わたしはオリヴィエ様をじっと見つめかえした。
「ごめんなさい、いじわるを言ってしまいました。わたしと一緒に行くこと、嫌じゃありませんか?」
「いいや、きみが俺を心配していることぐらい、分かる」
そう言ってほほえむ、オリヴィエ様の美しい表情。わたしの頬が、少し熱を持つ。嬉しかった。孤独じゃない。そう思えたから。
深夜の図書塔で、わたしたちの絆は、穏やかに、そして着実に深まっていった。




