04
静まり返った控室では、わたしの心音が響くようだった。夜会のざわめきがかすかに届く。そこから切り離されたこの部屋だけが、時間の止まった空白地帯のようだった。
頬に触れるオリヴィエ様の指先は冷たく、けれどそこから伝わる微かな震えが、彼の完璧な仮面の裏にある素顔を、はっきりと物語っていた。
「……公爵家の道具、ですか?」
その手を振り払うことも忘れ、わたしは彼のアメジストの瞳を見つめ返した。
この国の誰もが、彼を羨んでいる。神の寵愛を一身に受けたような美貌、卓越した魔力。そして王国草創期から続く名門中の名門、ノア公爵家の血筋。彼はすべてを生まれながらに手にし、輝かしい道を歩むことを約束された人のはずだ。
「そうだ。俺は、公爵家を繁栄させるための、最も出来の良い部品に過ぎない」
オリヴィエ様は自嘲気味に口角を上げた。その表情は、強い衝撃を加えれば今にもガラス細工のように粉々に砕けてしまいそうなほど、脆く、危うい。
「物心ついた時から、期待に応え続けなければ俺に価値はないと言い聞かされてきた。歩き方、話し方、魔法の行使、交友関係……そのすべては、完璧という枠に収まるための果てしない修練だ。俺自身の意志や感情など、公爵家にとっては不純物でしかなかった」
――苦しい。
そんな悲鳴が、肌を伝って聞こえてくるようだった。
彼は一度言葉を切り、わたしを見つめる瞳に、燃えるような、あるいは祈るような、ひどく切実な光を宿らせた。
「……だが、きみはあの日、あの大聖堂で言った。親子に、愛があるとは限らないと。実体のない夢、かなわない希望だと。あの瞬間、俺の中で何かが壊れた――いや、解放されたのかもしれない」
わたしは理解した。今、わたしの目の前にいるのは、まばゆい光の中に立つ貴公子ではない。
光が強すぎるがゆえに、その影として濃く広がる闇。その出口のない闇の中で、膝を抱え、ただ独りで震え続けてきた人。
(――同じだ)
自分の意思が、存在してはいけないものとして扱われる感覚。それを持つこと自体が、間違いなのだと思い知らされる日々。
搾取という名の鎖に縛られていたわたしと、期待という名の檻に閉じ込められていたオリヴィエ様。
「……わたしたちは、境遇は違うけれど、少し似ていますね」
わたしは小さくため息をつき、視線を落とす。胸元に残る、先ほどのワインの香りを深く吸い込んだ。深紅のワインが染みた聖衣が、肌に冷たく張り付いている。この聖衣だって、わたしをこの場につなぎとめる鎖のように思えた。
「似ている……か」
オリヴィエ様が、かすかに目を細めた。その表情は、安堵しているかのようだった。
わたしは顔を上げる。さっきはとっさに否定したが、今度は正直な気持ちを告げる。
「わたしは、ここを去りたいんです。聖女でも、道具でもなく、ただのわたしとして生きるために」
それは、彼に向けた言葉であり、同時に、自分自身に言い聞かせるものでもあった。
オリヴィエ様は、何も言わない。ただ、至近距離でわたしを見つめているアメジストの瞳が大きく揺れる。
沈黙。部屋の振り子時計の音だけが、やけに大きく響いていた。時間が、ゆっくりと刻まれていく。
わたしは再び視線を落とした。その時――。
「……それなら」
低く、決意したような声が落ちた。
わたしが顔をあげると、もう一度視線が、逃れられないほど深く絡み合う。
「俺が、その共犯者になる」
「……え?」
「きみをここから連れ出す。そして俺も、この檻から出ていく」
彼の言葉に、わたしは目を見開いた。
公爵家の嫡男が、すべてを捨てて逃亡の共犯者になる。それがどれほど重い罪であり、どれほどの破滅を意味するか、オリヴィエ様が分からないはずがない。けれど、彼の瞳に迷いはなかった。そこにあるのは、初めて自分自身の足で地面を踏み締めた人間の、力強い光だ。
「……でも、そんなことをしたら――公爵家の富も、地位も、将来約束された栄光も、すべて失ってしまうかもしれません」
「構わない。完璧な人形として生き永らえること以上に、後悔することなど何もない」
迷いなく、彼は言い切った。断ち切るような強さ。そして――どこか解放されたような軽やかさ。
オリヴィエ様は、わたしの頬に添えていた指先に力を込め、愛おしむようにその輪郭をなぞった。
「ニーナ」
求められるように呼ばれる。
「きみが、俺の止まっていた時間を動かした。今度は、俺がきみの翼になる」
その言葉は、わたしの心の最も深い場所に届いた。
振り子時計の音が、一度大きく鳴り響く。それはまるで、抗えない運命の始まりを告げる、合図のようだった。




